第2話 トイレの神様、出現
薫習という言葉がある。
辞書には「香が物にその香りを移して、いつまでも残るように、みずからの行為が、心に習慣となって残ること」と記載されている。
今、大事なのはこの前半部分だ。
クローゼットに仕舞っておいた勝負服に虫除けの臭いが染みついてしまい、愕然とするなんてよくあること。
そして俺の右手に握られたトイレブラシは万を超える便器を洗い、自然とその臭いが染みついていた。
匂いではない。
臭いだ。
そう言えば『源氏物語』にも匂宮というのが出て来た。
そいつも自らの衣に香を焚き染めていたそうだ。
そんなことを思いながら、俺は右手のトイレブラシを悲鳴を上げようと大きく開けた女の口へと、ねじ込んだ。
幾千人もの血を吸った刀が妖刀となるなら、万の便器を洗った俺の 931 円で買ったトイレブラシもなんらかの効能を持つはずだ。
その願望にも似た予想はどうやら正解だったようで、女は音もなく便器から崩れ落ちた。
「……危なかった。ここで悲鳴を上げられたら犯罪者に間違われちまう……」
床で痙攣する金髪碧眼の女を見ながら、俺は暑くもないのに汗をぬぐった。
「外国人か……。危うく国際問題になるところだったな……さっさとすませるか……。ん、珍しいタイプのトイレだな ? 」
白い陶器を思わせる洋式のトイレは、普通なら上がるはずの便座が一体式となっているのか、上がらない。
そしてタンクレスのようだが、ウオッシュレット機能はそなえてないようだ。
床も公衆トイレにしては広く、白いタイル張り。
気になる点はあるが、それを置いて俺は手早くトイレ用洗剤を便器にぶちまけ、ブラシを突っ込む。
ガシガシとこびりついた汚れを科学の力と筋力とでこそぎ落し、仕上げにトイレ用クロスで磨き上げ、床を拭く。
「おかしいな。水を流すレバーがないぞ ? 」
『こうするんですよ』
便器の前で、何かおかしなものを排泄してしまった人間のように首をひねる俺に、女の声がかけられ、次の瞬間、便器の水が流れた。
「誰だ !? 」
振り向いた俺の前に立っていたのは、床に倒れている女ではなく、床に着くほどの長い黒髪で巫女を思わせる服を纏った美しい女性だった。
『滉さんと、こうして会うのは初めてですね。トイレの神様です』
女はニッコリと笑んだ。