9.先生、慰謝料は不要だと思うんですけど
全ての授業が終わり、俺は帰り支度をしていた。
敦と正志と軽く雑談をしていたのもあって、俺以外の生徒は既に教室から出て行っていた。
敦は部活に行き、正志は『神は言っている。俺はアニメイトに行かなければならないと』という謎の使命感を出しつつ先に帰ったので、もう俺一人である。
教室を出て、昇降口に向かおうと階段に差し掛かったところで、ふと何やら話し声が聞こえてきた。
「……道川先生」
「あら、坂下先生、どうされましたかー?」
どうやら道川先生と坂下教諭が上の階に行く階段の踊り場で話しているようだった。
坂下教諭は冷酷な外見とは裏腹にこれでもかというくらいビビリ症であることを知っている俺は、2人の会話にちょっと興味を持った。
「……」
「あのー、坂下先生?」
喋れよ、坂下教諭……。
『ポッ』
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坂下 亨
現在の心境:よ、呼び止めてしまった……どどど、どうする? 話すべきか? 逃げるべきか? 死ぬべきか?
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とりあえず3番目の選択肢はないだろ……。
何の用があるのか分からないけど、普通に話せよ……。
「……昨日の件についてです」
「昨日? ええと、何のことでしょう?」
「……」
黙らないでよ、坂下教諭! 見た目は怖いんだから黙らないで!
『ポッ』
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道川 早希
現在の心境:何か坂下先生にしちゃったかなー?
うっかり靴を踏んじゃったのは教頭先生にだし、書類の出し忘れはもう謝ったし、他に悪いことしてたかなー?
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ミスが多いよ、道川先生!
その図太さを片鱗でいいから坂下教諭に分けてあげて!
「あれ、何か私、失敗しちゃってましたか?」
「……昨日、授業の合間に、ぶつかってしまったことです」
「あ、そのことでしたか。ええと、その、ぶつかってしまって失礼いたしましたっ」
「……いえ、その、あれは、むしろ、私が……」
坂下教諭、頑張って喋って!
「今度からぶつからないようにちゃんと前を見て歩くので、許していただけないでしょうか?」
道川先生、反省内容がなんかもう小学生みたいですよ!
「……いえ、私も不注意でしたので」
「坂下先生は悪くないですよー!」
「……そんなことは、あの、そのこ、こ、こ…」
坂下教諭、鶏みたいになってますよ!?
なんだ?どうしたんだ?後ろで持っているものを出そうとしている……のか?
『シュッ』
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坂下 亨
- 装備品
顔: 眼鏡
右手: ケーキ
身体: ジャケット・Yシャツ・チノパン
足: 内履
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うん? ケーキ? なんでそんなものを?
「……こ、こ、こ、これで、許していただければと」
そう言ってケーキの箱と思われるものを差し出す坂下教諭。
ぶつかったぐらいでケーキは大げさでしょ、いくらなんでも!
「え、いや、そんな、流石に受け取れませんよっ」
ほら、普通に考えたらそういう反応するって!
『シュッ』
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坂下 亨
現在の心境:や、やはり慰謝料を払うべきだったか……。
慰謝料をケーキで済ませようとする私が浅はかだった……!
いくら……いくら積めば良いのだろう……。
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だからそうじゃないって坂下教諭!
本気で慰謝料出す気じゃん、この人!
「……ケーキでは、やはり許してもらえませんか…」
「そうではなくて、悪いのは私であって……って、え、そのケーキもしかして……!」
「……? 今朝、駅近くで並んで買ったものですが……?」
「その、パッケージ……!もしかしてパティスリー・杜……!?」
「……そうですが?」
「あ…あ…あ……」
今度は道川先生がカオナシみたいな反応になっている。
ケーキ、食べたいんだな……。
『シュッ』
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道川 早希
現在の心境:パティスリー・杜って人気で、平日でも開店から数十分は並ばないと買えないところじゃないですかー! うきゃー、食べたいよー!
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あぁ、やっぱり。
ていうかケーキのことだけ考えずに、坂下教諭のことも慮ってあげて……可哀想だよ……。
「……許していただけますか?」
「許すも何も私が悪くて……、う、う……でも、ケーキ……!」
「……道川先生?」
「うっうー!」
なんかこんな口癖のキャラクターいたような気がする。
「よ、よしっ、決めました!」
「……?」
道川先生が何か意を決したようだ。
掛け声とともに軽くジャンプするように両腕の脇を締めて気合を入れる動きをした。
あー、揺れましたねー。何とは言わないけど揺れましたねー。流石、F。
「あの! 坂下先生は本当に何も悪くありません! 不注意だった私の責任ですっ!」
「いや、しかし……」
「坂下先生は良い人です! 悪くないんですっ!」
「……」
『シュッ』
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坂下 亨
現在の心境:私が……良い人……?
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あ、この人、褒められるの慣れていないタイプの人だ。
「坂下先生は悪くない! でも、でも、私、それとは関係なく、純粋にケーキが食べたいです!」
道川先生……欲望に忠実ですね……。
「……はぁ、許していただけるのであれば、もちろん差し上げますよ」
「許すも何もないですけど、ありがとうございます! あ、でもちゃんとお金は払いますね」
「……いえいえ、そんな」
「いえいえっ、私が払います!」
「……いえ」
思わず『じゃあ、僕が!』って言ってしまいそうになる。いかんいかん、これではダチョウ倶楽部になってしまう。
「分かりました! じゃあ、半分払います! それで一緒に食べましょう!」
「……はい?」
……はい? 何それ、道川先生と一緒にケーキ食べるとかウラヤマシイ……。
「うん、そうしましょう、坂下先生!」
「え、いや……」
そういいつつ坂下教諭の腕を引っ張って、職員室に向かう道川先生。
え、何それ、俺も道川先生に腕を引っ張られたい……。
『シュッ』
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坂下 亨
現在の心境:道川先生に腕を引っ張られながら職員室に入るとか、阿部先生とか武内先生とかに嫉妬で殺されてしまう! 腕を放してくれぇ! 慰謝料払うから放して…!
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あ、いや、その、坂下教諭……。こんな羨ましい状況でも、可哀想なんですね……。
『シュッ』
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道川 早希
現在の心境:ケーキ〜☆ パティスリー・杜のケーキ〜☆
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こっちは最早、坂下教諭のことを一切考えてないし。本当に可哀想だ、坂下教諭。
と、その時、脳内に聞き慣れない『リンッ』という音が響いた。
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坂下 亨
年齢:31
職業:高校教員
- 高校教員 Lv. 15
- 強迫観念 Lv. 49→48 (パラメータが更新されました)
- 数学 Lv. 31
- 頭痛 Lv. 21
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あ、ステータスの表示が更新されている。
こういうこともあるのか。
強迫観念のレベルが下がっている……ということは坂下教諭の心の中の何かが変わりつつあるということだろうか?
ケーキのためという残念な理由ではあったが、一連の道川先生の言葉が坂下教諭の心を動かしたということだろうか?
よく分からないが、坂下教諭が少しでも生きやすくなるのであればそれはとても良いことだろう。
職員室のドアの向こうに消えつつある坂下教諭を見送りながらそう思った。
……とりあえず坂下教諭が、阿部先生(体育科・35歳独身)と武内先生(体育科・29歳独身)に嫉妬されないことを祈るばかりだ。




