7."馬鹿者"
「……遅い!」
誰もいないだだっ広い空間に義影の声が谺する。
とある屋敷のとある一室。
畳が敷き詰められたその空間は上座の方によくわからない壺とよくわからない掛け軸が掛けられていた。
掛け軸には『可愛いは正義』という謎の言葉。
上座を正面に見て左手奥の方に戸がひとつ。
『僕の部屋』と書かれた張り紙がしてある。
そんなだだっ広いよくわからない空間で彼は待っていた、待たされていた。
自分を呼び出した"馬鹿"。
この部屋で義影が来るのを待ち構えていなければならない人間が不在の状態だった。
時を遡ること半刻、未の刻。
義影は安心院藜に会いに安心院家の屋敷を訪れていた。
安心院藜――祓い人を統べる六つの一族のうちのひとつ、安心院家の初代当主にして現当主。
当主だけあってその戦闘能力は高く数々の悪名高い異形の者を葬ってきた実績を持つ。
祓い人を志す者たちの目標のうちの一つ。
だが、実際は当主としての仕事は臣下に任せっきりで自分のやりたいことばかりを優先する節が有る。
とても面倒くさがりで気まぐれな、駄目な大人代表と言っても過言ではない男――義影曰く。
そんな安心院藜に義影は会いに来たのだった。
義影は門番の兵士に話を通すと屋敷内に案内された。
さすがは一族の長の屋敷だけあって立派な造りをしていた。
建物もさることながら、広大な敷地を利用した庭園も美しい。
築山より流れ落ちる水が大きな池を生成し、その中を鮮やかな色をした大きな錦鯉が泳ぎ回る。
池をまたぐように架けられた真紅の橋。
配置された大小様々な庭石や石灯籠。
緑の衣を纏った草木と水面に浮かぶ蓮の花の桃色。
夏季の色に染まった庭園は秋になれば秋の、冬にならば冬の、春になれば春の色に染まるのだろう。
四季の移り変わりを体現するその庭園は職人たちの意匠を凝らした芸術の賜物と言えよう。
しかし職人たちの作品は義影の心を動かすには至らなかった。
興味関心もないように案内役の兵士の背中だけを見て歩を進めていた。
義影はふと自分を見つめる視線に気づく。
そちらを見やると物陰から彼を見つめる二人の小柄な少女の姿があった。
片方は黒髪、片方は白髮、二人とも血のような真紅の瞳。
片方と目が合う――目が合った方はビクリと体を震わせ物陰に隠れてしまった。
もう片方もそれに倣い隠れる。
義影がしばらくその物陰を見つめていると、そーっと二人が顔を出した。
だが、義影がまだこちらを見ていることに気づき、また隠れてしまった。
「白鬼死殿? いかがなさいましたか?」
先導していた兵士が声をかける。
「……なんでもない」
義影は呼びかけに応え、再び歩き出した。
「こちらでお待ちください。すぐに藜様をお呼びいたします」
兵士は『僕の部屋』と書かれた張り紙がしてある部屋に向かう。
戸を叩き一礼した後、部屋の中に入っていった。
義影はてきとうなところに荷を降ろすと腰をおろした。
少しすると兵士が部屋から出てきた。
兵士は「しばしお待ちを」というように義影に一礼し、部屋から退出した。
義影は"しばし"待つことにした。
そして今に至る。
「あの馬鹿は一体何をやっているのだ? こちらも用があったとはいえ、呼び出した本人が来ないというのはいささか問題ではないか」
苛立ちを募らせる義影。
不意に背後の戸が開き誰かが鼻歌を歌いながら入ってきた。
長い黒髪を赤い紐で後ろに結んだ糸目の少年。
手には書物を持っている。
「ふんふんふーん……ってあれ? 義影じゃん。どしてここに?」
少年はきょとんとした顔で首を傾げた。
「貴様が呼び出したのであろうこの馬鹿者が!」
「んーっと? ああ! そういえばそうだった」
義影が怒鳴り声を上げると"馬鹿者"が書物を脇に抱え、ぽんと手を打つ。
「いやーごめんごめん、すっかり忘れてたよ……来たなら言ってくれればよかったのに」
「いくらか前、兵士がお前を呼びに行ったはずだが?」
「うん? あー、たぶん来たけどその時読書に夢中で聞こえてなかったと思う」
「あれはお前の部屋であろう?」
そう言いながら義影が『僕の部屋』の方を指差す。
「うん、そうだよ」
「兵士が呼びに行った時はその部屋にいたはずだ。何故後ろの戸から入ってきた?」
「えーっとね。部屋での読書に飽きたから気分転換を兼ねて表の方に出ていたんだ」
「お前の部屋は外に出るための戸があるのか?」
「ううん。窓から出た」
義影が目を瞬かせた。
呆れて言葉も出なかった。
「……今回は随分と若いようだな」
義影は咳払いをすると気を取り直す意味も兼ねて話を変える。
安心院藜――安心院家の現当主は十五歳ほどの少年の姿だった。
「いやー三年くらい前にちょっとやらかしちゃってね」
藜は頭を掻きながら話す。
まるで転んで膝を擦りむいてしまったというような軽い口調だった。
安心院家の当主である安心院藜は死しても再びこの世界に生を受ける神の奇跡に等しい能力を持っている。
術者の助けや予めの準備があれば、数日ほどで蘇る。
本人は多くを語らない。
それ故失われた神代の術式だとか神の使い、怪生の類などさまざまな憶測が飛び交っている。
彼が蘇る時は、新しい命として生まれるわけではない。
眩い光の中から突然と現れるのだ。
その際、赤子の姿ではなく十二歳ほどの少年の姿になる。
回数に制限はなく何度でも蘇ることが可能――故に安心院藜は安心院家の現当主にして初代当主でもある。
神の奇跡に匹敵するほどの能力を持っていながら彼はそれを誇示することはなく、何か特別なことに利用しようとするわけでもない。
消極的で、あくまでひとつの生を大切にしているようだった。
しかしあまりにあっけらかんとしているので、快く思わなかったのか義影は藜に対して忠告する。
「お前は油断しすぎだ。いくら蘇るからといって命を粗末にするものではない」
「いやー申し訳が立たないよ……でもまあこうして生き返ったし、いいじゃんいいじゃん」
「生き返れば良いということではない。死ぬこと自体が問題なのだ」
「ん? でもホラ。僕生きてるし」
「そういうことを言ってるのではない……お前と話していると頭が痛くなる」
「大丈夫? 頭痛薬いる?」
義影は大きな溜息をついた。
彼の忠告は"馬鹿者"には届かなかった。