4.異形の者
気が付くとあれほど煩く鳴いていた虫たちの声は止んでいた。
周囲からは一切の音が消え、その場は異様なまでの静寂に支配されていた。
それは嵐の前の静けさの如く、これから起こる戦いの行く末を暗示しているようだった。
義影は外に出て家の縁の下の前に陣取る。
この家の構造上侵入可能な場所は一箇所に限られた。
不幸中の幸い。
義影は懐から呪符を数枚取り出し、呪力を込め宙に放った。
札は淡く光り、退魔の領域を生成する。
ついで地面に木の棒で陣を描く。
その中心に先程とは違う呪符を置く。
短刀で自らの肌を裂き、それぞれ呪符と陣に血を垂らした。
すると呪符が消え、印が広がる。
垂らした血がその印を強く形どるようにして展開する。
「さて、簡易的ではあるが準備はできた。あとはやることをやるだけだ」
待つこと数十秒、異形の者が姿を現した。
それは義影が述べた特徴と合致する化け物――産鬼。
産鬼は義影を警戒したように様子を覗う。
だが、低く唸ったかと思うと凄まじい勢いで走りだした。
その途中、僅かに産鬼の動きが鈍る。
邪なる者の動きを止める退魔の領域――その効力。
そして領域内に大きく展開された血の陣が異形を待ち構える。
侵入者に雷の鉄槌を下す破魔の領域。すかさず義影が手を振りかざす。
それを合図に閃光が迸り、産鬼目掛けて雷が炸裂する。
産鬼は寸でのところで身を捻りそれをかわし、ケラケラと嘲笑った。
義影は続け様に手を振り下ろす――煌めく雷、けたましい炸裂音。
産鬼はそれらをひらりひらりとかわしてみせた。
「ちょこまかと面倒なやつめ」
義影は準備の際に使った短刀を産鬼目掛けて放った。
産鬼は雷同様それをかわしてみせる。
余裕の表情を見せる産鬼――ケラケラと嘲笑う。
だがその笑い声は唐突に途絶える。
放たれた短刀が地面に刺さると同時に周囲に電撃を発生させたのだ。
異形の体を電撃が駆け抜ける。
その体が肉の焼け焦げる臭いを周囲に振りまく。
産鬼の動きが完全に止まった。
「終わりだ――」
宣告とともに手を振り下ろした。一際強い光が煌めく。
訪れる静寂。
雷が落ちた場所には煙を出す炭化した黒い物体。
「手間取らせてくれたな」
義影はふんと鼻を鳴らした。
「白鬼死義影!」
義影は自らを呼ぶ声に振り向く。
「大丈夫なのか? 凄い音がしたようだが」
見ると吉則が大きな木の棒を手に立っていた。
「今しがた終わったところだ」
義影が黒い物体を足で転がす。
「やったのか?」
「ああ、見ての通りだ」
「これで楓は助かるのか?」
「おそらくな」
義影がそう告げると吉則は安堵の表情を浮かべた。
「言ったであろう。小物の相手など造作も無いと」
「ほんとうに……助かった。この礼はしっかりと――」
吉則の言葉は草むらから躍り出た小さな影に遮られた。
気配を消して潜んでいた脅威。
異形の者――二体目の産鬼。
産鬼は構えを崩していた義影に襲いかかる。
反応が遅れる。
彼が術を行使する呪符を手にとった時には異形は目前まで迫っていた。
「白鬼死!」
吉則の悲鳴のような声。
間に合わない。
産鬼の爪が義影の体を抉る――と思われたが、それは突如として飛来した大きな木の棒によって阻まれた。
直撃はしなかったが、産鬼は後方に大きく飛び退いた。
「白鬼死! 今だ!」
鋭い声を飛ばしたのは吉則だった。
「言われずとも!」
義影は身体を沈ませ力いっぱい地面を蹴り、産鬼に肉薄する。
そして宙で身動きがとれない産鬼の顔面に呪符を押し付け、勢いそのままに地面に叩きつける。
「塵と消えよッ!」
雷が煌めき周囲を照らす。
電撃が産鬼の体を蹂躙し、その肉を焦がし、血を蒸発させる。
断末魔の悲鳴を上げ、やがて異形は動かなくなった。
「白鬼死!」
吉則が駆け寄る。
「やったのか?」
焼き焦げた黒い塊を見て吉則が尋ねる。
「見ての通りだ」
義影は一体目同様に肉塊を足で転がしてみせた。
吉則が大きく息をはき、脱力する。
「事実を受け止めて抗う、か。答えにしては十二分だな」
「まさか俺を試したのか?」
「さあ、どうだろうな? お前は答えを見つけ結果を示してみせた。それだけで十分であろう?」
曖昧な回答を残し、義影は家の戸口に向かった。
だが、立ち止まり言った。
「何をしている? 脅威は去ったが、お前にはまだ役目が残っているだろう?」
「ああ、分かっている。もどろう」
二人は家の中へと消えていった。
二人が去った夜の世界には賑やかな虫たちの声が戻っていた。
早朝。
吉則は何者かの動く気配で目を覚ます。
「……行くのか?」
その気配の主に声をかける。
「俺の仕事は終わった。あとは立ち去るのみだ」
「これ、受け取ってくれ」
吉則が枕元に置いてあった袋を投げる。
義影が振り向きそれを手に収めた。
「少ないが、礼だ。……今回は本当に助かった」
吉則が深く頭を下げた。
「あんたのおかげで無事に赤子が生まれた。楓の体調も良好だ。
よくわからんいけ好かない奴だと思ってたが、それは間違いだったみたいだな。
祓い人ってのは正義の味方なんだな。あんたがここに来ていなかったら今頃楓は――」
「俺は自分のためにやっただけだ。祓い人は正義だなんだ謳われているが、要は人の不幸を食い物にする連中だ。この俺もそうだ。その不幸がなければ路頭に迷う連中だ。俺は稼ぎがいいからこの仕事をしているにすぎん」
「あんたは自分の身に危険が及ぶかもしれないのに楓のために異形の者を倒してくれたじゃないか」
「金のためだ」
「けど、あんたは金をもらわずに出ていこうとしていた」
「…………」
「あんた、嘘が下手だな。それともあまり礼を言われるのは苦手か?
仕事だからとかそんなん関係ない。あんたは俺たちのために、ひいては村の者のために尽くしてくれた。
それは事実だろ?」
吉則は部屋の奥で眠っている楓と赤子を見た。
「それに俺は、楓は救われた。それだけは覚えておいてくれ」
「…………」
義影は無言のまま戸を開け出て行った。
その後、村では産婦が謎の死を遂げることはなくなった。
呪われた村という噂はいつの間にか消え、村には平穏が戻っていた。
そしてこの村では、生命が生まれ、育まれていく。
取り戻された平穏。
その中で若い夫婦と赤子が幸せに暮らしていた。
その生命は一人の祓い人が守ったものだった。
人の不幸を食い物にする連中――祓い人はそう言った。
確かにそう捉えられるかもしれない。
だが、そんな祓い人に救われた生命がある。
それは変えようもない事実だ。