First Stage -Round 2-
【現在――二〇一一年 四月】
朝日の眩しさでもなく、小鳥の囀りでもない。
先に目を覚ましているであろう妹分でもなく、出張が多いせいで今も家を空けている家主でもない。
咲弥がいつも寝坊せずに済む理由。それは、毎朝六時きっかりに送られてくる、琴葉からのメールだった。
『おはようございます咲弥様。二〇一一年四月二十五日(月)の六時をお伝えします。
新しい週の始まりですね。精一杯がんばっていきましょう。
本日のトピックニュースは三つです。
①docozoが4Gネットワークの拡張予定エリアを発表。
②声優業界出身の人気アイドル・タミーがゲリラライブで新曲を披露。
③日本人プロゲーマーのRedが帰国。
恋森市の天気は晴れ。気温・湿度ともに平均的で、快適な一日を過ごせるでしょう。ただし、夜になると冷え込む可能性がありますのでご注意を。
~追伸~
琴葉は今日も、咲弥様を心よりお慕いしております』
こんなメールが毎朝。一日も欠かすことなく咲弥のケータイに届いている。
差出人は、アメリカにいる咲弥の友人だ。アメリカ在住だというのに、日本のタイムゾーンに合わせてメールを送っている。おまけにニュースは咲弥の通う高校で話題に上りそうなものだけを抜粋して、しかも咲弥の住む恋森市の天気や気温まで伝えてくれる。
最後の追伸からもわかるように、愛に溢れたメールだった。
咲弥はいつも、このメールを三度ほど読み返す。
いや、恋文じみたモーニングメールをたっぷり味わいたいからではなく、一回の流し読みでは目が覚めないからだ。二度、三度と読み返しているうちに脳が起きて、やっと内容を理解できるという。
ようやく覚醒したところで行う返信の内容は、いつもこうだ。
『ありがとう。今朝も助かった』
実に素っ気ない。
しかしこれが、咲弥と琴葉の日常的なやりとりだった。
送信を終えた咲弥は、室内灯の紐を引っ張るためにベッドから降り、左足から一歩踏み出そうとして――転んだ。
それはもう、派手に。大きな音を立てて、六畳の和室に大の字になった。
「……久しぶりにやったな」
一緒に巻き込んだ布団と柔らかな畳のおかげで、痛みは無い。クローゼットや勉強机にぶつからなかったのが幸いだ。あるいは襖を突き破ったりしなくて本当に良かった。
たぶん――と咲弥は思う。
たぶん、昔の夢を見たせいだろう。
それはまだ、咲弥が中学生で、プロゲーマーだった頃の話。
ジャンレボが楽しくて、恋人が愛しかった頃の話。
人生を、謳歌していた頃の話。
「ジミヘンは元気かね……」
ジミヘンのことを思い出すのは、本当に久しぶりだった。
薄情なことだが、おそらく夢に見なければ一生思い出さなかっただろう。
彼女は自分との約束を、覚えているだろうか? できることなら忘れていてほしい。
それが、今の咲弥の本心だった。
「もう、約束守れないからな……」
そう呟く咲弥の下半身――ハーフパンツから伸びた左足には、膝から足の甲にかけて、くっきりと。
生涯消えることのない、巨大な傷跡が刻まれていた。
咲弥が事故に遭ったのは、ちょうど三年前。
それは奇しくも、ジミヘンと出会ってから数日後の出来事だ。
咲弥は恋人と一緒にいるところを、タクシーに撥ねられた。
恋人は死に、咲弥は左足の自由を失った。
結果として咲弥だけが生き残ったわけだが、それはもう、死んだも同然だった。
恋人を失ったばかりか、ジャンレボをプレイすることすらままならない体。プロゲーマーとしての活動停止を余儀なくされ、築き上げた社会的ステータスはあっけなく崩壊。
咲弥の精神は、砕けた。
様々な人と時間の助けを借りて、なんとか落ち着いた今の咲弥だが……。
事故当時の彼は、冗談抜きで荒れていた。
徹頭徹尾、壊れていた。
先ほど咲弥にメールを送ってきた琴葉は、咲弥と恋人を撥ねたタクシーの、乗客だった。
この上ない責任感と罪悪感に苛まれた琴葉は、咲弥に文字通り、その身を差し出した。
あなたが壊れてしまうぐらいなら、いっそ自分をめちゃくちゃにしてほしい、と。
急変してしまった咲弥の人生。
恨み辛みをどうやって発散すれば良いのかわからなかった彼は、言われた通り琴葉を『めちゃくちゃ』にした。
鬼畜と罵られてもしょうがないことを、琴葉に行い続けた。
だが今――
そんな日々は、過去の出来事と化した。
咲弥は琴葉への仕打ちを詫び、二人の関係は改善された。毎朝、メールのやり取りをするぐらいには、仲が良いと言える(琴葉は明らかにそれ以上の想いを抱いているが)。
現在の咲弥は、左足が不自由なことを除けば、ごく普通の高校二年生だ。
プロゲーマーでも聖地祭のチャンピオンでもない、ごく普通の。
「おはよう、みちえ」
「んっん~、はぁんたらったった~」
ブレザーに着替えた咲弥は、足を引きずりつつリビングに行き、そこで鼻歌を歌っていた少女に声をかけた。
小柄な体躯に活発そうなショートカット。リボンタイが特徴的なセーラー服。
サイズの大きいヘッドフォンを装着し、そこから漏れるメロディに合わせ、腰掛けた椅子をギコギコ危なげに揺らしている。今にも仰向けにすっころんで、パンツ丸見え状態になってしまいそうだ。
少女は腕組みして瞑目しながら、なんとも嬉しそうな表情を浮かべていた。
ヘッドフォンから伸びたコードは、テーブルの上のスマートフォンに繋げられている。おそらくは、お気に入りの曲でも聞いているのだろう。
ふと、少女が目を開けて咲弥を見た。
途端にその顔が、より晴れやかなものに変わる。
少女はヘッドフォンを外して首にかけ、咲弥に満面の笑みを向けながら言った。
「おはよう、さく兄」
彼女の名は鐘鳴みちえ。
咲弥が下宿させてもらっている鐘鳴家の娘にして――死んだ咲弥の恋人である、鐘鳴きよらの妹だ。
「おう。朝からご機嫌だな」
咲弥はみちえの対面に腰掛けながら、テーブル上のリモコンで液晶テレビを点けた。チャンネルはニュースに合わせる。
「知ってる知ってる? 昨日ねぇ、タミーが秋葉原でゲリラライブやったんだよ?」
「ああ」
琴葉から送られてきたメールに、そんなことが書いてあった。
「新曲を披露したんだってな」
「そうそう! それがまたすっごくかわいい曲でさぁ! みっちぇはますますタミーのことが好きになっちゃったのです。さく兄も聞いてみる?」
「ん? 何を?」
「だから、タミーの新曲」
そう言って、みちえは咲弥にヘッドフォンを差し出す。
「……ゲリラライブで新曲披露したのって、昨日なんだよな?」
「うん、そうだよ」
「それがもう、市場に出回ってるもんなのか?」
「ああ、違う違う」
みちえは笑いながら、ポケットからケータイを取り出した。
「ダウンロードストアで買ったりしたわけじゃないよ。まだ売ってないしね。いやぁー、『つぶやいたー』と『nixi』で友達になった人の中に、たまたまゲリラライブに参戦できて、しかもたまたまレコーダー持ってる人がいてさぁ」
みちえは右手でケータイを操作し、左手でテーブル上のスマートフォンをタッチし、それぞれ別の文章を器用に打ち込んでいった。つぶやいたーで何かを呟きながら、タミーへの賛辞をニクシィのマイページに書き込んでいるようだ。
二刀流で、しかも恐ろしく早い。テレビ出演の依頼が来ても不思議でない特技だが、咲弥にとっては見慣れた光景だった。
「みっちぇはその人を助けたことがあったから、なんと、他のみんなには絶対内緒という条件で、録音した新譜のファイルを譲ってもらうことができたのです」
えっへんと胸を張るみちえ。
ニュースはエンタメコーナーに移っており、ちょうど、タミーが行ったゲリラライブのことを扱っていた。同時に、新曲の販売は翌週のイベントに合わせて、と報じられていた。
咲弥は苦笑する。
そして、思いついたように話題を振った。
「なぁみちえ。ドコゾが4Gネットワークの拡張予定エリアを発表したらしいんだ」
「知ってる知ってる。LTEの範囲が広がるんだよね? だけど、やっぱりまだ首都圏寄りになってるみたいだし、全国制覇には時間がかかりそうだね」
「プロゲーマーのレッドが帰国したらしいな」
「知ってる知ってる。聖地祭の遠征から見事凱旋! って感じだよね。いやぁー、ニマニマ動画にうpされてた桃原とレッドの対戦見たんだけどさぁ、神だね! ほんともう神! 格ゲー界を揺るがす神を二人も生んでしまうなんて、日本は罪作りな国だなぁ」
咲弥はもう、笑うしかなかった。
情報強者。
この鐘鳴みちえという二つ年下の女の子は、昔からそうなのだ。
いつもケータイとスマートフォンを持ち歩いており、常にネットの海にダイブしている。言わば、二十四時間オンライン。
流行モノが好きなみちえは、常に情報の更新を怠らない。あらゆるサイトを巡り、チャットに顔を出し、コミュに紛れ込み、情報を審議し、適切な取捨選択を行う。
中学三年生にして、みちえの情報収集能力――情報リテラシーはかなりのレベルに達していた。
また、みちえはネット上において『みっちぇ』を名乗り、つぶやいたーやニクシィ、facelookを始めとする、様々なSNSコミュに参加している。
そこで作った友人、知人の数は、どのSNSでもカンスト、あるいはカンストすれすれになるほどの規模に上るらしい。
みちえは世界中に存在するこれらの仲間たちの間で、『情報屋』あるいは『仲介屋』として崇められていた。
情報屋というのは、そのままの意味だ。ただし、お金やお礼を要求することはなく、みちえは自分の知っている情報が誰かのために役立つならば(それが誰かの迷惑になるなら話は別だが)惜しみなく情報を与える。
もう一つの仲介屋は、本人曰く『人と人との縁を繋ぐ活動』とのこと。
例えばみちえのネッ友Aが何かに困って、そのことをみちえに相談する。しかし、みちえにはそれを解決する手段が無い。
そういった場合、みちえは膨大な数に上るネッ友の中から、Aの問題を解決する力を持ったネッ友Bに連絡を取る。そうしてうまくAとBの折り合いを付け、事態を好転させる。
それは、今までみちえが何十何百とこなしてきた、縁結びの斡旋だった。ただ単にその場しのぎの措置を図るだけではなく、今後のことも踏まえた上で、当事者にとって一番喜ばしい結末へと持っていく。
みちえに感謝する者は多い。いつもお礼の話をされるのだが、みちえはそれを頑なに断っていた。その代わり、こう言うのだ。
『もしもみっちぇが困ったり、みっちぇの他の友達が困ってたりしたら、力を貸してあげてちょん。それがみっちぇにとって、一番の恩返しになるナリ☆』
そうしてみちえは築いていった。
人と人との繋がりという、ある意味では金の上をいく大切な財産を。
「おまえはすごいな。将来、何になるつもりだ?」
「んー……まだ漠然としてるけど、ネットに関わりのある仕事がしたいな。世界はどんどんユビキタスチックになってるし、その分野で何か新しいことができたらなって思うの」
「そうか」
「ね、今のみっちぇってば、もしかしてチョーかっこよかった?」
「その台詞がなきゃ最高だったよ」
あと、ユビキタスチックなどという言い方はしない。
なんだかんだで、みちえはまだ中学生だった。
「おっと、朝ご飯の用意しなきゃね」
「すまん。頼む」
鐘鳴家に母はいない。次女のみちえをこの世に産み落として、命を失ってしまったのだ。
故に、働き手である父――鐘鳴氏が出張で不在の今、朝食はみちえの担当となる。
咲弥は高校入学時から、鐘鳴家に下宿させてもらっていた。
理由は主に二つで、まず、咲弥の通う恋森東高等学校が、鐘鳴家から徒歩十五分程度の場所にあること。
これにより、足の不自由な咲弥でも、高校への徒歩通学が可能となっている。咲弥の実家からでは電車を乗り継ぐ必要があり、道中四十分以上も歩かなければならないため不便なのだ。
もう一つは、鐘鳴氏から懇願されたこと。
かつて妻に先立たれ、あまつさえ、交通事故で長女をも失ってしまった鐘鳴氏。彼はもちろん悲しんだが、残されたみちえのことも考えなければならなかった。
みちえはとても偉い子である。事故から数日は涙を流し続けていたが、姉――恋人を失って取り乱す咲弥や、家族を失う事件を二度も経験した父を見て、自分がしっかりしなければと、己の悲しみを押し殺してまで、周囲の手助けを始めたのだ。
そんなみちえを、鐘鳴氏はたまらなく心配した。
いくら表面上は立ち直っているとはいえ、やはりみちえだって、姉の死に傷付いているはずなのだ。
英語が扱える鐘鳴氏は、海外企業や支社との折衝役として、会社の中で重宝されている。そのため出張が多く、長期的に家を空けるのが日常茶飯事だった。
みちえのそばに、いてやれない。
休暇をもらい数ヶ月は一緒にいてやれたが、それがずっと続けられるわけではない。
そんな時、咲弥が復活する。
だから、咲弥のことを以前より信頼していた鐘鳴氏は、頼んだ。
どうかみちえの助けになってやってくれないか? と。
咲弥には断る理由などなかった。社会復帰するにあたり、鐘鳴氏やみちえにさんざん迷惑をかけたという意識があったし、凋落した自分でも何かの役に立てるなら、という想いがあった。
こうして咲弥とみちえは今、ほとんど二人きりで暮らすような生活を送っている。そこには男女の意味など存在せず、寄り添うようにして、助け合って、生きている。
まるで本当の兄妹のように。
姉/恋人がいなくなって生まれた空白を埋めたい――というわけではないのだけれど。
もう、悲しみに暮れる日々は過ぎ去っているのだけれど。
親しい者の死によって生まれた紐帯が、咲弥とみちえを結びつけていた。
『はい、まだまだエンタメ続きますよー? 続いてはこちら……ドン! 格闘ゲームプロプレイヤーのレッドさんが、昨日の夜に帰国しました』
画面が切り替わり、女性キャスターの解説に合わせ、国内の空港が映し出された。
セキュリティゲートから吐き出され、三々五々に散っていく人々の中心。
カメラ中央に捉えられたのは、少女。
りぃん――と。
そんな風に澄み切った音を、錯覚させてしまうかのよう。
凜として、凜。どこまでも凜。
その少女は、冬空のような気配を湛えていた。
年の頃は十五、六。
切りそろえられたセミロングの黒髪と、目深に被った赤いキャップ。
スパッツとショートパンツの重ね穿きに、プリントTシャツと裾長パーカー。ローソックスにスニーカー。
どうしてだろう、と咲弥は思う。
少女の姿を見て、なぜか、炎を連想する。
画面越しに伝わってくる気配は間違いなく凍えていて、それはもう、深夜に降り積もる粉雪のように静かなのに。
だが彼女は、間違いなく秘めていた。
その心に、火を。
その瞳に、赤を。
咲弥には、直感的にそれがわかった。
炎が燃える理由までは、さすがにわかるはずもなかったが。
――聖地祭のセルⅣ(フォー)第三位、おめでとうございます!
『ありがとうございます』
――世界第三位という結果について、ご自身ではどうお考えですか?
『正直、嬉しいよりも悔しいが勝っています』
昨日、空港で録画されたのであろう、レッドへのインタビューが流れている。
レッドは高くもなく低くもない声で、特に表情を作らぬまま、淡々と取材者の質問に答え続けていた。
今年の二月。レッドはアメリカで開催された聖地祭において、格闘ゲーム部門の種目として選ばれた『セルリードファイターⅣ ザ・スーパー』に出場し、第三位という優れた成績を収めていた。
日本人がセルⅣで入賞するのは、史上二人目というとんでもない快挙だ。レッドは聖地祭初出場ということも考えれば、充分すぎる結果である。
ちなみに優勝者は、数年前に史上一人目をやってのけた現コンテニュエイション・チャンピオン――桃原(Momohara)だった。
『今回は運が良かったというのもあります。次回は桃原さんにも負けないよう、全力を尽くしたいです』
――セルⅣ2オン2への出場は?
『パートナーがいないので当分は無理かと。ですが、2オン2にも出場したいという意志はあります。目標とするのは世界初の2オン2CCT……コンテニュエイション・チャンピオン・チームです』
――ずいぶん具体的ですね。もしや既に相方の目星が?
『はい。今はまだお話できませんが、一人、心に決めている人がいます。その人となら、どんな強敵にでも打ち勝てる。私はそう信じています』
――ひょっとして桃原さんですか?
『今はまだ、お答えすることができません』
インタビュー映像は、その言葉で締めくくられた。
画面が再びスタジオを映し出す。
『うーん、思わせぶりなコメントでしたねぇ。レッドさんは今後しばらく、日本国内で活動を続けられるそうです。ちなみに優勝した桃原さんは、翌週開催される全米ミニトーナメントに出場されるため、来月の帰国と――』
「ねぇ、さく兄」
「ん?」
咲弥がニュースを見ている間に、朝食の準備は整っていた。
ご飯と味噌汁、目玉焼き、焼いたソーセージ、作り置きのポテトサラダときんぴらゴボウ。すべてみちえが作ったものだ。
エプロンを外して咲弥の正面に腰掛けながら、みちえは上目遣いで聞いた。
「さく兄はひょっとして、格闘ゲームに興味があったりする?」
先ほどまでの溌剌とした勢いが、ほんの少しだけ削がれている。
遠慮がちに、しかし期待を込めて、勇気を出して行った、健気な質問。
咲弥はその問いに――
「いや」
苦笑しながらそう答えた。
途端、みちえの目に落胆の色が浮かぶ。だがそれは、一瞬のことだった。
「そう。朝からレッドの話題を振ってきたし、ニュースも一生懸命見てたし、もしかひょっとしたらさく兄は、格ゲーをやりたいのかなー、なーんて思っちゃったりして」
「俺はもう、ゲームはしない」
「どうして?」
「勉強しなくちゃいけないからだ」
咲弥は視線を落とし、テーブル越しに自分の左足へ視線を送る。
「俺は将来、体で稼ぐ仕事はできそうもない。だから、今のうちにちゃんと学を付けとかないと、あとで困る。世話になった人たちに恩返しできなくなっちまう」
「そんなの気にしなくていいよ」
「そういうわけにはいかん」
「じゃあ勉強なんかするよりも、また何かゲームを始めて世界一になればいいじゃん」
「冗談」
「みっちぇは本気だよ?」
みちえはテーブルに身を乗り出し、真摯な瞳を咲弥に向けた。
「やっぱりみっちぇ、ゲームやってるさく兄が一番好きだもん。きよ姉だってそう言ってた」
「俺も、ゲームやってる俺が一番好きだったよ」
「じゃあ――」
「無理だ」
諭すように、咲弥はそう言った。
「どれだけがんばっても、俺は、一番好きだった俺にはもう戻れない」
「足のこと言ってるの? だったらジャンレボじゃなくて、何か他のゲームをやればいいじゃん」
「今からじゃ間に合わないさ。俺がジャンレボで世界一になれたのは、他にめぼしい有力選手がいなかったからだ。ジャンレボは聖地祭の種目に選ばれて、わりと年が浅かったからな。それに、俺自身が小さな頃からジャンレボをやり込めてたのもある」
「……それって、結局どうゆうこと?」
「今から新しくゲームを始めても、既存の上位のプレイヤーにはかなわないってことだよ。ちょっとやそっと……それこそ何年か練習したぐらいで傾いてくれるほど、世界は甘くない」
「やってみなきゃわかんないじゃん!」
「その通りだな。でも、俺にそんな気力は無い……いや、自信が無い。もう一度、あの聖地の舞台に立つってイメージが、まったく湧いてこない」
「さく兄……後ろ向きだよぉ」
「違う。現実を見てるだけだ」
みちえはとても悲しそうな目で、咲弥を見ていた。
咲弥はそれ以上、何も喋らず、無言のまま朝食を摂り続けた。
変わるもんだな、と咲弥は思う。
昔の自分は、こんなにネガティブではなかった。
ジャンレボができなくなったなら、今度は別のゲームで世界一になればいい――と、それぐらいのことは平気で考えたはずだ。
だが、今の咲弥は違う。
自分が世界一になれたのは、偶然の産物だったと考えているし。
今から他のゲームをやり込んだって、上級者にかなうはずがないと思っているし。
みちえには話さなかったが――
再び何かに一生懸命打ち込んで、それが無に帰してしまうのが、怖いし。
もしもまた、事故などに遭ってしまったらどうする?
そうでなくても、結果が出なかったらどうする?
プロになれないなら、将来は別の手段で食べていかなければならない。
プロゲーマーの壁は、高く堅牢だ。
ちょっとやそっとの努力で認めてもらえるほど、甘くはない。
そんな風に、次から次へと暗い考えが浮かんでしまう。
別に、ゲームが嫌いになったわけではないのだ。みちえには内緒にしているが、咲弥は未だにアーケードゲーム専用雑誌を購読し続けているし、おもしろそうだな、やってみたいなと思うゲームもいくつかある。やったことのない格闘ゲーム――セルⅣにだって興味はある。
だが、それと同時に、そんなことをしても無駄だと。
心のどこかでそう思ってしまっている。
どうせ今から始めたって、間に合わない。
結果を残すことなんて、できやしない。
だったら最初から、やらなければいい。
素直に、学生らしく、勉強でもしていればいい。
自分は一度、人生という名の山から転がり落ちた。
もうあんな思いはしたくないし、失敗するわけにはいかない。
そう考えてしまっている。
「……ねぇ、さく兄」
「なんだ?」
咲弥は視線を上げぬまま応えた。
「もしもだよ? もしも、レッドぐらいすごいゲーマーが突然さく兄の前に現れて、『一緒に格ゲーのプロを目指そう』なんて言われたら、どうする?」
「なんだそりゃ?」
ずいぶんと脈絡のない話だ、と咲弥は思う。
だが、言葉を放つみちえの顔は、真剣そのものだった。
「今、ニュースにレッドが出たからそう思ったの。レッド言ってたじゃん。いつかはセルⅣ2オン2にも出場して、世界初の連覇を成し遂げたいって。……もしもさく兄が、レッドにパートナーとして選ばれたらどうする? もう一度、格ゲーで聖地祭を目指してみようとは思わない?」
「いやいやいや、俺がパートナーに選ばれるわけないだろ」
格ゲーなど、まともにプレイしたこともないのだ。イフの話にしたって無理がある。
だいたいにおいて、レッドは自分の存在など知らないだろう。
いや、レッドだけではない。
世間は数年前のジャンレボチャンピオンなんて、とっくの昔に忘れている。
自分はもう、周囲に期待されることもなくて。
自分でも、自分に期待することなんかなくて。
だから咲弥は、普通の学生をやろうと思った。
もう一度ゲームをやってほしい、と正面切って言ってくれるのはみちえぐらいのものだ。
「だから、もしもの話。『私のパートナーになってほしい』ってレッドから言われたら、どうする? セルⅣ始める? 聖地祭に行こうって思う?」
「……」
もしも、そんなことがあったなら。
「……思う、かもな」
「え?」
「格ゲーやってみようかなって、思うかもな。あと、聖地祭に行こうとも」
「ほんとに?」
「ああ。でも――」
「?」
「思うだけだ」
咲弥の瞳に、どこか悲しそうな色が映った。
「思うだけなら簡単なんだよ。始めるだけなら誰にだってできるんだよ。でも、頂点を目指すなら話は別だ。……さっきも言ったが、俺はもう一度聖地祭に行く自信なんて、これっぽっちも無い。レッドぐらいのプレイヤーにそこまで言われたら、それなりに心は躍るかもしれんが、結局のところ断るんだろうよ、俺は」
足手まといになるのは、目に見えてるから。
何もできずに再びゲームの世界から去っていく自分が、容易に想像できるから。
「さく兄……」
「ごちそうさま。そろそろ出発しないと遅刻だ」
「うん……」
みちえは不満そう、というよりも、咲弥の言葉に寂しそうな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。
二人は食器を片付けて、身だしなみを整えてから玄関に向かう。
「あ、ごめん、忘れ物」
そう言って、みちえは二階へと続く階段を上っていった。
咲弥はその間に、制服の裾を捲ってロングブーツを履く。不自由な左足の足首を固定して、無駄な転倒を避けるために。
「格ゲーね……」
別に、嫌いなわけではないのだ。
足の自由を失ってしまった咲弥にもプレイ可能なジャンルであるし、雑誌を読む限りおもしろそうなタイトルが目白押しだし、いやむしろ、もう半分ぐらいはやってみたいと思っている。
だが――
「以下同文だ」
やりたい……だが頂点には立てない……ならやらない……以下同文……以下同文……。
特に、こだわりのある言葉というわけではないのだけれど。
事故に遭ってしばらくしてから、咲弥はこの『以下同文』が口癖になっていた。
ネガティブな思考のループに陥ってしまいそうな時、自然と口を突いて出る。益体のない否定的な考えの連鎖を、この言葉で無理矢理振り振り払っているのだ。
と――その時。
ピーンポーンと。誰もが聞いたことのあるおなじみのあの音が、鐘鳴家に鳴り響いた。
咲弥は怪訝に思う。
今のは間違いなく、誰かの来宅を告げるチャイムの音だ。しかしこんな朝早くからいったい誰が?
ちょうどブーツを履き終えていた咲弥は、出かける際に愛用している杖――昔、みちえと琴葉からプレゼントしてもらった杖を右手に持ち、そっと、ドアスコープで外の様子を窺った。
途端――
「……は?」
疑わなければならなくなる。
自分は寝ぼけているのではなかろうかと。
まだ、布団の中から抜け出せていないのではなかろうかと。
なぜならそこに、ありえない人物が立っていたから。
「んなアホな」
そう呟いて瞬きなどしてみても、現状は変わらない。
その人物は、ドア越しに、確かに存在していた。
そして、咲弥が見ている前ですぅと右手を伸ばし、ピンポーン。
もう一度、明確に来訪の意志を継げた。
「マジかよ……」
若干、乾いた口調で呟きながら、咲弥はドアを開ける。二度もチャイムを鳴らされてしまっては、開けざるを得ない。
「朝早くからごめんなさい」
りぃん――と。
そんな風に澄み切った音を、錯覚させてしまうかのよう。
凜として、凜。どこまでも凜。
その少女は、冬空のような気配を湛えていた。
年の頃は十五、六。
身長は、咲弥よりも頭一つ低い。
切りそろえられたセミロングの黒髪と、目深に被った赤いキャップ。
スパッツとショートパンツの重ね穿きに、プリントTシャツと裾長パーカー。ローソックスにスニーカー。
どうしてだろう、と咲弥は思う。
少女の姿を見て、なぜか、炎を連想する。
気配は間違いなく凍えていて、それはもう、深夜に降り積もる粉雪のように静かなのに。
だが彼女は、間違いなく秘めていた。
その心に、火を。
その瞳に、赤を。
咲弥には、直感的にそれがわかった。
炎が燃える理由までは、さすがにわかるはずもなかったが。
「乙波咲弥、よね?」
「そう、ですが、何か?」
「私は格闘ゲームのプレイヤーをさせてもらっている――」
「いや、知ってるから」
ついさっき、ニュースで見たばかりなのだ。
そう――
そこに、レッドがいた。
咲弥の住む、鐘鳴家の玄関先に。
なんてことないように、クールな表情を浮かべたレッドがいた。
何かの冗談かと思いたかったが、しかし、現実にレッドが現れた以上、冗談とかそういう次元の話ではなくなっている。
「……で、なんの用だ?」
咲弥は驚きながらも、かろうじてそれだけ質問する。
その問いに、レッドはまず、にこりと笑顔を浮かべた。
唐突なその笑みに、咲弥は面食らう。先ほどテレビで見て、そして今、リアルに感じたクールな印象とは、あまりにもかけ離れていたから。
「ん? どうしたの? 目がまん丸よ?」
「いや……」
「テレビで見る私とイメージが違うかしら?」
自覚はあるらしい。
「こっちが素よ。クールな私はメディア向けのキャラ付け。ちゃーんと笑いもするし、泣きもするんだから」
「はあ」
「あんまり愛想良くしすぎると、すぐに格ゲーとは関係ない依頼がやってくるのよね。ドラマとか映画とか。芸能事務所もウザったいし」
「……」
咲弥は混乱した。
唐突にレッドが現れたと思ったら、ドライな仮面を脱ぎ捨てて、笑顔でフレンドリーに話し始めたのだ。これはいったい、どういう現象なのか?
(こいつはいったい何がしたいんだ……じゃなくて、だから――)
どうしてこんなところにレッドが?
彼女は下手なタレントなどより、ずっと名の知れた存在――世界トップクラスのプロ格闘ゲーマーである。
それがなぜ、こんなところにやって来て、自分に笑顔を晒す?
「あっと、前置きが長くなったわね。そろそろ本題に入りましょうか」
「本題って――」
咲弥の言葉が止まる。
急に真剣味を帯びた、レッドの凜とした表情を見て。
「今日は、あなたに頼みたいことがあって来た」
「俺に? 頼みたいこと? ……なんだ?」
レッドは咲弥の瞳をまっすぐに見つめながら、言った。
「私のパートナーになって、一緒に聖地祭を目指してほしい」
最後までお読みいただきありがとうございました。
最近、小説はあまり書いておりませんが、よろしければ「妻と私とネズミ(https://tsu-wa-ne.com)」にお越しください。
始めたばかりのブログですが、どうぞよろしくお願いいたします。