First Stage -Round 1-
【三年前――二〇〇八年 七月】
(酷い目に遭った……)
咲弥は満員電車のシートに深く身を埋め、先ほどの恐怖体験を脳内で反芻していた。
(武器が飛び出すとは思わなんだ……)
サイン会の終了直後である。
マネージャーに断って会場のトイレに向かった咲弥は、そこで、ファンを名乗る女性に遭遇した。
最初から、妙だなという予感はあった。
なぜならその女性が話しかけてきたのは、男子トイレの中だったのだ。
咲弥は面食らったものの、とりあえずは素の愛想の良さを発揮して、その女性と和やかに会話した。
しかし、途中で女性の様子が変化していき、咲弥はどうしてか、その女性と交際しなければならないことになっていた。いや、そう命令された。
そこでようやく、咲弥はこの女性が普通でないことに気付く。そして、自分がまだ中学生二年生であることと、既にカノジョがいることを理由にして、「じゃあお姉さん、そういうわけでまた!」と爽やかに去ろうとしたのだが、それは許されなかった。
咲弥が振り返ると、女性は右手にスタンガンを、左手にブラックジャック(ストッキングと湿らせた砂で作ったようだ)を構え、目を爛々と輝かせていた。
『Sakuyaくん……あなたってウブね。大丈夫、怖がらなくてもいいの』
無理な相談である。
その後、咲弥はなんとかマネージャーの元まで逃げ帰り、女性は会場の警備員たちに取り抑えられた。
だが、彼女は拘束されてなお、咲弥にラブコールを送る。
『大丈夫! 痛くしないから! ねぇ聞いてる!? Sakuyaくぅうううううううんっ!!』
(怖ぇ。最後の叫びが耳にこびり付いて離れん……)
今夜まともに眠れるか心配だ。
(まいっか、生き延びられたし。それに、前のストーカーほど酷くはなかったよな、うん)
咲弥は前向きにそう考えると、電車のリズムを体に感じつつ顔を上げた。
平日の午後。帰宅ラッシュ一歩手前の時間である今、車内は混み合っている。
なんとか席を確保していた咲弥だが――
「……あ、婆ちゃん、ここ座りなよ」
「あれまー、おおきにー」
駅の停車で老人が乗り込んできた瞬間に、ためらいなく譲る。
老婆が「よっこいしょ」と椅子に腰掛けるのを、咲弥は嬉しそうに眺めた。他の乗客から無機質な視線で注目されても、笑顔を崩さない。普通、彼ぐらいの年頃ならば、こういったことをするのは勇気がいるだろうに。
「おにいさん、見かけによらずええ人やねー」
「はは、そうだろ?」
見かけによらずというのは、おそらくサングラスのことを言っているのだろう。
咲弥は今、Tシャツにデニム生地の五分丈パンツという、ごく普通の私服姿だ。
だがその顔は、目深に被ったニット帽と、プラスチックフレームのサングラスで隠されていた。
「そんな野暮ったいメガネ、取ったほうがかっこええよー?」
「いや、これはなんというか……」
咲弥の趣味ではない。しかし、外すわけにもいかない。
なぜなら老婆と会話をする、咲弥のその頭上には――
『本気の《ほ》の字を知ってるか?』
そんなキャッチコピーと共に、ダンスのポージングを決める黒髪の少年――素顔の咲弥が写されていた。
それは電車の広告スペースにセットされた、日本ゲームセンター協会の中吊りだ。
また、咲弥の背後でサラリーマンが広げる新聞には――
『国内プロゲーマー人口、一万人突破』
という見出しが踊っていた。その記事の隅に、『国内最年少のプロゲーマー』として、海外のダンスゲーム大会でステップを刻む、咲弥の写真が載せられている。
西暦二〇〇〇年以降――
ある出来事をきっかけにして、世界は空前の電子ゲームブームを迎えていた。
咲弥と老婆がいる車内の、その半分ほどの乗客が、PXPやGSといった携帯型ゲーム機を所有し、それに没頭している。
学生、サラリーマン、主婦など、年齢層や職業は問わない。皆、一人で黙々と、あるいは仲間たちと楽しそうに、ゲームという媒体に臨んでいた――いや、遊んでいた。
わざわざ訂正したのには、わけがある。
なぜなら電子ゲームの加速的普及に伴い、ゲームをただ遊ぶだけでなく、それをプレイすることによって生計を立てる者たち――プロゲーマーと呼ばれる存在が、徐々に増えつつあるからだ。
プロゲーマー。
彼らの主な収入源は、各地で開催される大会の賞金、もしくは企業との契約金である。副次的なものとして、ゲームに関するメディアへの出演、執筆、指導などもある。しかし、ゲーム一本で食べていこうと思うなら、やはり大会での活躍は必須だ。
そのためプロのゲーマーになれる者は、ほんの一握り。年々肥大化の傾向にあるとはいえ、実力がモノを言うシビアな世界で生きていける猛者は、やはり少ない。
しかし――
乙波咲弥こと、ゲーマーネーム・Sakuyaは――
「な、昨日のジャンレボ中継見た?」「ああ。やっぱりSakuyaが頭一つ抜けてるよな」
「もうSakuyaくんかっこよすぎ! あぁ、私をさらってくれないかしら……」「あんた旦那いるでしょ」
トップレベルの実力を持つダンスゲームのプロとして、世界にその名を轟かせていた。
(よし、もう大丈夫)
勝巳という名のローカルな駅で降りた咲弥は、改札口を出て駐輪所に向かう。そして、自分のMTBの前に辿り着くと、サングラスとニット帽を取り払った。
ここは彼の地元だ。
咲弥のことはみんな昔から知っているし、Sakuyaとして名を馳せた今でも、その対応は変わらない。変装などしていても、笑い話の種にされるのがオチである。
(さてどうするか。きよらとの約束までは、まだ時間あるな)
となればやはり――
(ゲーセンだろう。今日は田野さんとこに行くかね)
咲弥はにんまり笑いながら、MTBに跨って、町の通りへ飛び出した。
力強くペダルを漕いで、何度か知り合いと挨拶を交わしながら、景色を次々と置き去りにしていく。
(この町にもゲーセンが増えてきたなぁ)
町の中心に行き着くまでに、四軒。
咲弥が小さな頃と比べれば、その密度は半端無く高まっている。都心部のように賞金付きの大会こそ開かれてはいないものの、アマチュアたちが鎬を削り合うには充分すぎる環境だ。
(あ、この空き地もゲーセンに変わるのか……)
また、新たな工事が行われている。
地元の景色がアーバンなものに変わっていくことを、少しばかり寂しく感じてしまう――ということも無かった。
(どんなゲームが入る? 当然オンライン環境だよな? あー、早くオープンしろー)
ゲームが――ゲーセンが大好きな咲弥にとって、店の増加は単純に嬉しいことでしかない。
咲弥は鼻歌と共に、シャッとペダルを漕いで、爽やかな風を感じるのだった。
(……ん?)
しばらくして、町の商店街付近に入ったその時。
咲弥はクリーニング屋とコンビニに挟まれたゲーセンの前に、人だかりができているのを発見した。
横断歩道で通りを越え、近付いてみる。
傍にMTBを止め、人だかりの最後列にいた少女に話しかけた。
「おい、ちー子。こりゃなんの騒ぎだ?」
「あ、咲弥じゃん。サイン会はもう終わったのか?」
「ああ。……で、こりゃなんだ?」
「格ゲーだよ。格ゲーの大会。ま、大会自体はさっき終わったんだけど」
「ん? どういうことだ?」
「なんでも大会にプロが参加してたんだと。……で、店長が調子に乗ってさぁ。一階にゲーム下ろしてプロ対アマの見せ試合なんか頼むもんだから、ご覧の有様」
「なるほど。この町じゃ俺以外のプロは珍しいもんな。しかしこんなに歩道が埋まっちまって……警察寄ってくるぞこれ」
「大丈夫じゃないか? ブチ太が出てきても、一緒に観戦するのがオチだって」
「あの人ゲーム好きだしなぁ。あり得る」
咲弥と少女はここにいない巡査を笑い、人混みに向き直った。
が――
「おちびのちー子ちゃん、おまえこれ見えてんのか?」
「おちび言うな! ……でもまぁ、実はまったく見えてない。咲弥は?」
「俺もさっぱり」
人が多すぎて、その背中ばかり鑑賞する羽目に。
ゲームの音楽や、ビシッ! バシッ! ぐはぁっ!? などという効果音は聞こえてくるのだが、映像が無ければ話にならない。
「対戦がちっとも見えん。……そうだ!」
「?」
咲弥は振り返り、歩道の柵に沿って置かれていたコンクリートブロック(のぼり旗を立てる用)を集め、それを組み上げて台のようなスペースを作った。
「あ!? ずりぃぞ咲弥!」
「ふっ、小学生には思いつかなかっただろ」
「勝手に店の旗を降ろすって発想が無かっただけだよ! わたしも上げろ!」
「いや、ここ狭いし」
「じゃあ肩車。おまえならできるだろ?」
「しゃあねぇなぁ。俺が足を滑らせて、後ろに倒れて、おまえを車道に放り出した瞬間に大型トラックがやってきても、絶対に恨むなよ?」
「そこまでされたら恨むわ!」
少女はぶつぶつ言いつつも、台から降りて屈んだ咲弥の首に、するりと跨る。彼の鍛え抜かれた足腰の筋肉が、一瞬だけグッと浮き上がり――
「よっ」
「あわっ!?」
「落ち着け、問題ない。そら乗るぞ」
いとも簡単に、少女の体を持ち上げた。
「おまえ軽いなぁ。ちゃんとメシ食ってんのか?」
「ほう、わたしは軽いか。いいことを言う。おまえへの好感度を上げてやろう」
「どうも」
「ほれ、美少女小学生ちー子さんの生太ももだぞ? すりすり」
「馬鹿やめろ! 俺がロリコンっぽくなる!」
「なっ!? このセクシーボディを捕まえてロリとはなんだぁ!」
即席の足場の上でギャーギャーグラグラ。
非常に危なっかしい光景だが、しかし、咲弥と少女が落ちることは無かった。
やがて――
「……すげぇな」
「……うん」
二人は心を奪われる。
ゲーセンの、開け放たれた自動ドアの奥――
一階フロア中央で展開されている、その勝負に。
『波號拳! ――波號拳!』
『せいっ! やあっ!』
対になった白いゲーム筐体。
その席には、髪を刈り上げた男性と、セーラー服姿で三つ編みメガネの少女(こちらが挑戦者であろう)が座っていた。
「ちー子、おまえ格ゲーやるか?」
「やるよ。ありゃセルゼロ3(スリー)だな」
「じゃあ教えてくれ。あのメガネの子が使ってる、エロい服着たキャラがピンチ……と俺には見えるんだが、合ってるか?」
「合ってる」
筐体の画面上では、少女の操る女性キャラが、プロの操る胴着のキャラに翻弄されていた。
「く……う……」
少女は必死にレバーを傾け、苦悩の表情を浮かべながら、プロの攻撃を凌いでいる。
(真剣だな)
まるで、実際に少女が戦っているかのようだ。
しかし、見事な連係で攻め立てる胴着のキャラが、やがて、女性キャラのガードをこじ開け――
《KOォォォゥッッ!》
「あっ!?」
勝負を決める必殺の一撃を、叩き込んだ。
「おお、プロが勝ったな」
「ま、そうなるだろうさ」
『はいぃっ、ありがとうございました! それでは次の挑戦者どうぞ!』
ゲーセンの店長がマイクで呼びかけ、バトルを進行させていく。
三つ編みメガネの少女は、次の挑戦者に席を譲り、筐体から離れて観戦の列に紛れ込む――と思いきや、人混みを突き抜けて、歩道側に――つまり、咲弥の目の前に現れた。
メガネ越しに向けられた少女の視線が、咲弥のそれとぶつかる。
「あ、えと……」
咲弥はとっさに――
「ナイスファイト。どんまいだ」
と、声をかけた。
なぜなら三つ編みメガネの少女は――
「……どうも」
傍から見てもわかってしまうほど、気落ちした様子だったから。
どう考えても、先ほどの試合に負けたことが原因だろう。
少女は軽く頭を下げて、咲弥らの前から去っていった。肩を落として、はぁと溜息を吐きながら、実に気怠そうに。
「なんだかなぁ……」
「おい咲弥、ちゃんと前を向け。首を曲げなきゃ試合が見えんじゃないか」
「いや、あの子が気になって」
徐々に小さくなっていく少女の背を眺めながら、咲弥は思う。
普通のプレイヤーなら、プロゲーマーに負けたところであそこまで落ち込むことはない。なぜなら彼女が戦った相手は、それで生活を営んでいる者――つまりプロで、負けて当然の相手だからだ。
そのため多くの者は、たとえプロに対戦で負けたとしても――
「ああやられた~! でもいい経験になったなー」「おまえら最初のほう見てた!? プロにコンボ決めたよオレ!?」「やっぱりプロは強いなぁ!」「プロってすげぇ!」
と、笑顔を浮かべる。
しかし、先ほどの少女はどうだろう?
まるで、何か大切な戦い――例えば甲子園を賭けた試合だとか、勝てば花園に行ける大勝負だとか――で負けてしまったかのような、尋常ならざる消沈具合だった。
「あの子が気になってぇー? 咲弥、とうとう堕ちたか。カノジョがいるというのにおまえというやつは……ああ……きよらがかわいそう」
「そういう意味じゃない。俺はきよら一筋だ」
変に色気付いたわけではなく。
咲弥はただ、一人のゲーマーとして気になったのだ。
少女がいったい、何を思ってプロと戦ったのか。
勝負に負けて、何を考えたのか。
と――
「!?」
遠くなった彼女の背。
それを目で追っていた咲弥は、見る。
少女が右手でメガネを取り、左手の袖で顔を拭うのを。
(あれは……泣いてる?)
なぜ? どうしてそこまで?
プロゲーマーの自分が言うのもなんだが、プロゲーマーは強いのだ。
勝って当然。つまり、アマは負かされてしかるべき。
それなのに、あの三つ編みの少女は涙を流す。
本当に、どうしてそこまで?
(……違うだろ)
少女はきっと、先ほどの勝負に本気で臨んでいた。だから、負けてあのように落胆した。別にそれ自体は、なんらまずいことではない。
だが、その背中に『ゲームを楽しんだ痕跡がまったく無い』ことが、咲弥を悲しませた。
咲弥にとってゲームとは、楽しいものだ。楽しむべきものだ。
負けて悔しくても、心のどこかに楽しんだ感情が残っていれば、ああはならない。自分を負かした相手に対する敬意や、更なる目標に向かう気概などもまた、敗者の心に熱を生み出す。
しかし、三つ編みメガネの少女は、冷として冷。
どこまでも、冷め切っていた。
ただ敗北という結果だけを胸に抱き、その目を、心を、凍らせていた。
(ゲームってのは……ゲームってのは――)
「うわっ!? おい咲弥!」
不意に、咲弥はコンクリートブロックの台から降りた。
追いかけなくてはならない、と思ったのだ。
一人のゲーマーとして、あの少女を見過ごすことができなかったのだ。
それに、自分がプロゲーマーであるという事実を抜きにしても、あの子のあの表情は――
「悪いなちー子」
「わ、とと……!?」
咲弥は台から降りてしゃがみ、肩の上に載せていた少女を歩道に立たせた。
「俺、ちょっと用事ができたわ。続きは一人で見てくれ」
「一人でっておまえ、わたし一人じゃ台に乗っても見えん」
「じゃあ台にのぼりを差して、その上によじ登れ。じゃあな」
「そんな雑伎団みたいな真似できるか――ってこら! 戻れぇ!」
咲弥はMTBに飛び乗り、見えなくなった三つ編みを追った。
(……いた!)
土地勘に任せて路地を爆走しまくり、咲弥はようやく目的の少女を見つけた。一時は見失ったかと思われたが、すれ違う町の人々に話を聞いて、なんとか足跡を辿れたのだ。
三つ編みメガネの少女。
その小さな背中が、通りの向かい側に電器店を臨む、先ほどとは違うゲーセンに吸い込まれていく。
咲弥は迷うことなく少女を追い、MTBを近くに止めた。そして自動ドアをくぐり、ゲーセンの喧噪に包まれる。
ここは、咲弥もよく訪れるゲーセンだ。
一階の大型アーケード筐体の影に、少女の姿は無い。店員がレースゲームの調整を行っており、その傍らで二、三人の客が談笑しているだけだ。
とするならば、少女がいるのは二階のビデオゲームコーナー、すなわち――
(格ゲーのとこかな?)
咲弥は鉄の螺旋階段をカンカンと登り、その場所へ辿り着く。
そこに――
「はぁ~……」
セルゼロ3をプレイしながら盛大な溜息を放つ、三つ編みメガネの少女がいた。
(ようやく追いついたか。……ん?)
ここに来て、咲弥は気付く。
衝動的に少女を追いかけたはいいものの、果たしてなんと話しかければよいのか、と。
(やべ、まったく何も考えてなかったな。でも……)
この少女と自分には、共通項がある。ゲームという名の、これ以上は願ってもない言語で繋がっている。
(きっと仲良くなれるさ)
それに、どうやって話しかけるかは迷ったが、何を伝えたいかは分かっている。
「なあ、そこのあんた」
だから咲弥は、ためらうことなく少女に声をかけた。
「……?」
自分と同い年かそれ以下の少女が、疲れた様子で振り返って、咲弥の姿を捉える。
咲弥は笑みを浮かべながら聞いた。
「さっき、小安さんとこのゲーセンでプロと試合してたろ?」
「え? ……あー、はい、さっき。……あれ?」
「ん?」
少女が片手でメガネの位置を調整し、目を細めながらじーっと咲弥を見る。
「なんだ? なんか付いてるか?」
「あ、いえ、凝視してしまってすみません……。ただ、あなたがその……プロゲーマーのSakuyaさんに似てるなぁと。よく言われませんか?」
「それは言われないなぁ」
なぜなら本人なのだから。
「そうですか。こんなに似てらっしゃるのに」
「……」
咲弥は一瞬、冗談かと思ったが、ふざけているわけではなさそうだ。
(変なやつ。ちょっとおもしろいかも)
似てるなどと言いつつも、本人だとは絶対に思わないところが。それに、地味な女学生ルックであるにもかかわらず、イメージにそぐわない格ゲーをプレイしている部分もユニークだ。
「な、あんた知ってるか? Sakuyaってここらへんに住んでるんだぜ?」
「知ってます。実は私の家、隣町なんですよね。だから、噂には聞いたことがあります」
「ちなみに俺も、ここらへんに住んでる」
「そうなんですか。それじゃSakuyaさんと同じ……あれ? Sakuyaさんと同じ土地に住んでる、Sakuyaさんにそっくりな人……?」
少女の頬を、一筋の汗が伝う。
少女は席を立ち、咲弥に向き直りながら聞いた。
「あの、もしかしてご本人様でしょうか?」
「やっと気付いたな。……うむ、初めまして。乙波咲弥ことSakuyaです。なんつって」
「うわぁ……」
「?」
咲弥がSakuyaであると気付いた瞬間の、少女のリアクション。
咲弥はそれを、不思議に思った。
限界まで目を見張り、その後すぐに落胆。
まるで、愛していた恋人が、決して結ばれることのない貴族だと気付いてしまったかのような――驚きと切なさが混じった、複雑奇怪な反応。
「なんだ? あんたひょっとして、アンチSakuyaだった?」
「ち、違います! むしろ尊敬してますよ!」
咲弥の問いかけに、少女はぶんぶん首を振って否定する。
「同じ中学生なのにプロゲーマーで、おまけに聖地祭のチャンピオン! 私なんかと全然違う人が目の前に、と思ってしまって……」
言って、少女は肩を落としながら下を向く。
咲弥はそんな少女を見て、頭を掻きながら「んー」と唸る。
(どうにもダウナーだな。今、かなりマイナスモード入ってるんじゃないか?)
そうなった原因は、先ほどのプロとの試合であろう。
ふと、少女が思い出したように言う。
「そう言えばその、Sakuyaさん――あ、乙波さんとお呼びしたほうがよろしいでしょうか?」
「咲弥でいい。で?」
「……咲弥さんは、私に何か用が?」
「ああ」
とても大事な用だ。
「同じゲーマーとして、ほっとけなかった」
「はい?」
「いや、まずは聞いとこうか」
そして、咲弥は言う。
「あんた、ゲームを楽しんでるか?」
「!」
咲弥が少女の目を見つめながら放った、シンプルなその質問。
少女は咲弥から――目を背けた。
それと同時に、背後の筐体から《KOォォォゥッッ!》と聞こえてくる。少女の放置していたキャラクターが、敵CPUに撃破されたのだ。
「私は――」
少女は声を震わせながら、言った。
「私は最近、あんまりゲームがおもしろくありません」
「うん、わかる」
あれでゲームを楽しんでるわけがない。
だが、ゲームの本質は楽しむことにこそある、と咲弥は思う。
この落ち込んだ少女は、ちゃんとゲームをできていない。ゲームをやっているように見えて、それはもう、ゲームではない。苦痛でしかない。
「まーその、なんだ。何があったか聞かせてみろとか、そんな大それた事は言えないが……」
咲弥は優しい笑みを浮かべながら、言う。
「ちょっと、気晴らしに俺と話してみないか? いい気分転換になると思うぜ?」
少女はその問いに――
「……」
無言の肯定を返した。
「なんのために格ゲーをやってるのか、わからなくなったんです」
害意の無い咲弥に少女が悩みを打ち明けるのは、すぐだった。
咲弥と少女は、店内のマガジンコーナーに置いてあるパイプ椅子に腰掛けて、ずらりと並ぶ筐体や、それで遊ぶ人々を眺めながら会話する。
「最初はただ、好きだったから始めたはずなのに。好きだったから強くなりたいと思ったはずなのに。でも、私は要領が悪いから、いつまで経っても下手なままで……。それでも強くなりたいと願うほどに、強さを求めてプレイするたびに、格ゲーが、楽しくなくなりました」
格ゲーは楽しくて、大好き。
大好きだから、強くなりたい。
強くなりたいのに、楽しくない。
この矛盾の輪に、少女は苦しめられた。
「今日、たまたまプロと試合する機会を得て、考えたんです。プロに、勝てるとまではいかなくても、どうにか健闘することができたら、もうちょっと格ゲーを続けてみようって。何も無いまま負けてしまったら、もう格ゲーはやめてしまおうって」
「だけどおまえ――」
咲弥がここに駆けつけた時、少女は溜息を吐きつつも、格ゲーをプレイしていた。
先ほどの試合で、あれだけボコボコにされていたとうのに。失礼ながら、健闘の『け』の字も窺えなかったというのに。
「はい、私は負けました。いいところなんて一つも無いままに、完敗しました。でも、それでも私は――」
少女は顔を上げて、正面にある格ゲーの筐体を見つめながら、言う。
「格ゲーを、諦められなかったんです」
まだ、やっていたいと思った。
青息吐息になっても、続けたいと思った。
「……おまえ、格ゲーが大好きなんだな」
「はい」
咲弥に言われ、少女は照れたように笑った。
しかし、その表情はすぐに曇ってしまう。
「でも、こんなに苦しい状態が続いてばっかりじゃ――」
「ばっかりじゃ?」
「好きでいるのも、ちょっと疲れてしまいますね」
「……」
少女が浮かべたそれは、本当に疲れた笑顔だった。
(こいつはマジで格ゲーが好きなんだろうなぁ。じゃなきゃ、こんな表情できるもんかよ)
悩んで、悩んで、悩んだのだろう。
憂いて、憂いて、憂いたのだろう。
だから今、彼女はこんなにも切なそうなのだ。
こんなにも、苦しそうなのだ。
(だったら――)
ここまで考えて、咲弥は思った。
(だったら逆に、こいつは大丈夫だ)
素質がある。
ゲーマーとして何よりも大事な要素を、この少女は持っている。
だが、それを伝える前に――
(重い空気が続いたな)
パッと、雰囲気を入れ換えよう。
こんなしみったれたオーラを蔓延させたままでは、伝わるモノも伝わらない。
だから咲弥は――
「……ていっ」
「ほわぁっ!?」
少女の鼻をつまんだ。
少女は驚きのあまり、パイプ椅子をガタリと撥ね飛ばしながら、勢いよく立ち上がった。
「うわ、ヌルリと来たぜこれ。おまえ、ちゃんとあぶらとり紙とか持ってるか?」
「な……な……!?」
咲弥は少女の鼻をつまむのに使った、右手の人差し指と親指を、開いたり閉じたりして弄ぶ。
「い、いきなり何するんですか!?」
「鼻をつまんだわけだが、見えなかったか?」
「見てましたよ!」
この反応、男性慣れしてないな、と咲弥は思う。
「って、そうか」
「はい?」
「どっかで見た制服だと思ったら、それ心正女子じゃん。心正女子大附属」
「え、ええ。そうですけど」
この町から電車で五駅ほど離れた場所にある、いわゆる『イイとこ』の女子中学校だ。
少女が男性慣れしていないのにも納得がいく。
「……ぷっ」
「?」
「あっはっはっはっは!」
「ちょ、ちょっと、なんで笑うんですか!?」
「いやいや、すまん」
別に、少女の何かが悪かったわけではない。
ただ咲弥は、おかしくなったのだ。
(あそこってお嬢様学校だろ? それがまぁ、こんなに格ゲーが好きで、いろいろ思い悩んじまってさ……。それに、ゲーセンに通い慣れてるなら、もうちょっとファッションのやり方ってもんがあるだろ。律儀に制服とか……たぶん、服に感心が無いんだろうなぁ)
変なやつ。
地味なやつ。
そう思った瞬間、咲弥の頭にピンと閃くものがあった。
「おい、おまえのあだ名を思いついたぞ」
「はいぃ? すみません、ちょっとさっきからついて行けないんですけど――」
「ジミヘン」
「え?」
「だから、ジミヘン。おまえのあだ名だよ」
地味で変な女の子だった。だから咲弥は、その少女にジミヘンというあだ名をつけてやった。
「ジミヘンってまた……そんなの嫌です。聞いただけで由来が分かりますもん」
そう言って少女――ジミヘンは、咲弥に遺憾の意を示した。
「私にもちゃんとした名前ぐらいあります。あ――」
「黙れジミ・ヘンナデッコス」
「ジ……え?」
「ジミヘンのフルバージョンだ。……で、なんだそのヘアピンの使い方は? おまえのでこはソーラーパネルにでもなってるのか? でこならぬエコってか? 貸してみろ」
「あ、ちょっと!?」
ジミヘンが飛び退く間も無く、咲弥は急接近。
彼女の前髪を支えていたヘアピンを取り去り、サイドに髪を梳いてからまた付け直した。
「これでいい。手鏡とか持ってないか?」
咲弥に促されて、ジミヘンはおずおずと、ポケットから小さな手鏡を取り出す。
それで自分の顔を覗き――目を見開いた。
「うわ……」
完璧だった。ただただヘアピンで留められていた前髪は適度なバランスで流され、寂寥感すら漂っていたおでこの平原はもう無い。
「そっちのほうがいいだろ?」
「……はい」
ジミヘンは驚いていた。
自分がやっても絶対こんな風にはならないのに、と。
「あとはだな、メガネと三つ編みも悪くないが、一回やめてみたらどうだ? おまえ綺麗な顔してるし、ガラっと印象変わると思うぜ?」
「私が、変わる? ……って、え? き、綺麗!?」
ジミヘンは、今度こそ咲弥から飛び退いた。ズササササと、ゲーセンの床を削り取らんばかりの勢いで。
「無防備なやつだな。パンツ見えそうになったぞ」
「パッ……!?」
ジミヘンは慌ててセーラー服のスカートを押さえる。今この瞬間においてはまったく意味の無い行為なのだが、そこは反射的に。
「き、綺麗とかパンツとか、からかわないでください!」
「別にからかってなんかない」
咲弥は本心で言っていた。
「なんでおまえ、そんなに自信無いんだ? もっと胸を張って堂々と生きてみろよ。背筋が曲がってる人間は、背中の傾斜角度分、人生を損してると思うぜ?」
「……咲弥さんにはわかりません」
ジミヘンの、声のトーンが変わった。
手鏡ごとスカートの裾を握り締めながら、俯いて言う。
「あなたみたいにゲームがうまい人には、へたくそな人の気持ちなんてわからないんです。どれだけ練習してもうまくならないし、人には馬鹿にされるし」
少女はそこで、震えるように深呼吸した。
「やっぱりプロと対戦なんて、するんじゃなかった……。ゲーセンに寄ったのも失敗……ううん、そもそもゲームなんて始めるんじゃ――」
「シャァラッッパッ!」
「っ!?」
どんどん曲がっていったジミヘンの背中を、咲弥の一喝がぴしゃりと垂直に戻した。
「ちょっとおまえ、来い」
「え? ……きゃ!?」
真剣な顔の咲弥に手を引かれ、ジミヘンは2D格ゲーがメインのビデオゲームコーナーを後にする。というより、咲弥に引きずられているので、強制的に階段を下りざるを得ない。
その尋常でない様子に、通り過ぎていく他の客も、何事かと二人を振り返るほどだ。
「な、何するんですか!?」
「ゲームに決まってんだろ? ここをどこと心得る?」
「ゲームって――」
「お、アスカたちがいるな。……ちーす!」
咲弥とジミヘンが辿り着いたのは、ゲーセンの一階奥――ジャンプ・ジャンプ・レボリューションが置いてある、音楽ゲームのコーナーだった。
ジャンプ・ジャンプ・レボリューション(JUMP JUMP REVOLUTION)――通称・ジャンレボは、主として一つの画面と八本の矢印スイッチからなる有名な音ゲーだ。
高さ×幅×奥行きはどれも二メートル前後。筐体の真正面にディスプレイがあり、ディスプレイの下には正方形のミニステージが二つ、横並びになっている。
各ミニステージには上下左右の方向に矢印が描かれており、プレイヤーはこれを、音楽に合わせてタイミングよく踏んでいかなければならない。どのタイミングでどの矢印を踏めばいいのかは、ディスプレイを眺めていればわかる。
プレイ人数は、一人から二人まで。一人で四本、もしくは八本の矢印を踏むように設定してもいいし、二人で仲良く四本ずつの矢印を担当してもいいというわけだ。
「咲ヤンじゃん。来てたんか」
「お久しぶりぃ!」
咲弥はジャンレボ付近にいた常連客と、親しげに挨拶を交わす。
若い男女二人組だった。
ピアスにB系ファッション――ジミヘンの友達にはまずいないであろう人種である。
だがジミヘンは、二人の人懐こい笑顔のせいか、不思議と恐怖を感じることはなかった。
「その子が噂のカノジョ?」
「へ!?」
急に話を振られ、しかもそれが予想だにしない内容だったため、ジミヘンは慌てた。
しかし、咲弥が冷静に訂正する。
「いや、さっき知り合いになった超マイナス思考少女。名前はジミヘン」
「ち、違いますよ!」
「そっか。よろしくな、ジミー」
「よろしくねっ!」
「違いますって!」
咲弥とこの二人組は、だいぶ親しいのだろう。咲弥の冗談にも即座に反応して、実にノリが良い。
「ちょっとやらせてもらうけど、いい?」
咲弥がジャンレボの筐体を親指で指しながら言う。
「どうぞどうぞ。てか、チャンピオンがなーに遠慮してんだよ」
「むしろ、ちょっと見せてもらっていいですかー? って感じだよねっ!」
「からかうなよ」
咲弥は苦笑しながら、ジャンレボのミニステージへ上り、左側に陣取る。それから筐体に百円玉を二枚投入し、難易度や曲を慣れた手つきで選択していく。
ジミヘンは、咲弥の意図がよくわからなかった。
ここまで自分を連れてきたのは、咲弥さんの――いや、聖地祭のジャンレボ連続王者である天才中学生ダンサー……Sakuyaさんのプレイを見ろ、ということなのだろうか?
などと考えていると――
「ほら、おまえはこっち」
「え?」
「何やってんだ、もう設定終わったぞ。ほら早く」
「ちょ!?」
咲弥はまたジミヘンの手を取り――
いつの間にかジミヘンは、咲弥と並んでジャンレボのステージに立たされていた。
「咲ヤン、ジミーはジャンレボやるの?」
「さぁ? どうなんだ?」
咲弥と男女から視線を向けられ、ジミヘンは顔を引きつらせる。
「や、やったことないです! ていうか無理ですよ無理! 私が好きなのは格ゲーであって、音ゲーはまったくの専門外で――」
「シャァラッッパッ!」
「っ……!」
「いいからとりあえずやってみろ。俺の百円玉を無駄にするな」
「そんな!?」
「始まるぞ」
「え、えぇっ!?」
間もなく、店内のBGMにも負けない音量で、筐体左右のスピーカーから軽快なポップスが流れ出す。
「な……な……な……」
ジミヘンは完璧に緊張していた。
というより、状況についていけず表情も体も固まっていた。
なにこれなにこれなにがどうしてこうなって――
なんで私のようなド素人が、世界のSakuyaさんと音ゲーを?
「最初は左が来るぞ」
咲弥の言葉でジミヘンは我に返った。
いつの間にか前奏が終了しており、咲弥の言った通りに、画面の下から、左方向の矢印がゆっくりとスクロールしてくる。
「わわっ!?」
ジミヘンは慌てて足下を確認し、左方向の矢印を勢いよく踏みつけた。
しかし、画面上に表示されたのは『Bad!!』の文字だった。おまけに曲のメロディも、明らかに調子外れなものとなってしまう。
「違う、矢印が現れたらすぐ踏むんじゃない。ほら、画面の上にタイミングバーがあるだろ? あれと矢印がスクロールして重なった瞬間に踏めばいいんだ」
「あ、なるほど」
「こんな風にな」
「うわぁ……」
ジミヘンは、思わず感嘆の呟きを漏らした。
ゆっくりと、曲のビートに合わせて上ってくる四方向の矢印。その矢印がバーと重なる完璧なタイミングで、咲弥はまったく危なげなく足下の矢印を踏んでいく。
しかも、ただ踏んでいるだけではない。
それらは歴とした、ダンスのステップだった。動かすのは下半身にとどまらず、上半身も見栄え良くまとまっている。
画面上に表示されるのは、『Perfect!!』の文字と、ミスをせずに連続で矢印を踏んでいる回数を示す『18 Combo!!』の注釈。しかもコンボの回数は、次々と増えていく。メロディも乱れることがなく、実に聞き心地が良い。
完璧で、流麗で、鮮やかで――すごいなと。
これがプロゲーマーなんだと、ジミヘンは感動する。
そして彼女は、何よりその笑顔に見惚れた。
楽しそう、なのだ。
画面を見つめながら、笑みを浮かべて踊る咲弥の姿は、この上なくゲームを楽しんでいるように見えるのだ。
ああこの人は、本当にジャンレボが好きなんだろうな――とわかる、そんな表情。
咲弥の胸元に下げられた、トップがト音記号のシルバーペンダント。それは咲弥が躍動するたびに、ライトの光を受けて煌めきながら弾んでいるけれど。
きっと咲弥の心も今、この音楽記号のように、煌めいて、弾んでいるのだろう。
ふと、ジミヘンは思う。
自分は最近、格ゲーをプレイしている最中に、このような表情を浮かべられたことがあっただろうか、と。
最初はただただ楽しいから始めたのに。今では親や友達の評価ばかり気にして、純粋に楽しめていなかったのではないだろうか? あまつさえ、目先の勝敗に一喜一憂し、一番大事なモノを失ってしまっているのではないだろうか?
「おい、見学はもういいだろ? おまえも踊れ」
「あ、はい!」
咲弥の声で、ジミヘンは自分もまたジャンレボをプレイ中だったことを思い出す。
「コツはだな、音楽をよく聞くことだ。矢印とバーが重なるタイミングは、曲の節目節目に合わせられてる。曲に乗れたら、足も自然と走り出すさ」
「はい!」
二つ連続で、上と下を向いた矢印がスクロールしてくる。
ジミヘンは言われた通り、画面よりもむしろ曲に傾注して――
「たん、たん?」
『Perfect!!』『Cool!!』
自分でリズムを取りながら、しっかりとしたタイミングで矢印を踏めた。
「うまいぞジミヘン! やるな!」
「あはっ、あははは……」
ジミヘンの顔に、自然と笑みが宿る。
なんだろうこれは?
こんなことは、初めてだ。
いや違う、思い出したのだ。
これはまさしく、自分が格ゲーに初めて触れたあの日――
楽しいモノと出会えた瞬間の、あの感情。
「次、アルペジオ来るぞ」
「はい!」
その後、ジミヘンは夢中だった。
曲に合わせて、踊って、舞って。
時には大失敗しながら、それでも大笑いして、大成功したら、また大笑いして。
そんなジミヘンを見て、咲弥もまた大笑いで。
あっという間に、咲弥とジミヘンは4曲を踊りきった。
「はぁ……はぁ……」
「ほれ」
「あ、ありがとう、ございまふ……」
二人がゲーセンを出たのは、夕日がビルの彼方に沈もうとする頃だった。
ぽつぽつ灯り始めた街の光に照らされる、ゲーセン店頭横の小さな休憩スペース。
ベンチで休むジミヘンに、咲弥が自販機でポカリンを買って手渡す。
ジミヘンはそれを一口豪快に飲んで、ぷはーと息をついた。
「ようやく落ち着きました……」
「お疲れさん」
「咲弥さんはすごいですねぇ。まったく息切れしてません」
「こう見えて鍛えてるからな」
いや、『こう見えて』などということはまったくないのだが。
Tシャツから伸びた腕などで、かなりのスペックであることが丸わかりである。
「あ、そういえばお金――」
「いらん」
「いえ、ゲームもジュースも――」
「いらんと言ったらいらん。それよりもだ」
咲弥はジミヘンの正面に立って、聞いた。
「おまえはさっき、楽しかったか?」
「……はい」
「そうか」
ジミヘンの返事を聞いて、咲弥は嬉しそうに笑う。
それからドカリと豪快に、ジミヘンの隣に腰掛けた。
そのまま足を組んで、目の前の道路を走る車や、帰途につく人々などをぼんやりと眺める。
その右手は、胸元のペンダントに添えられていた。
「なぁジミヘン、知ってるか? ゲーセンってのは、すごく楽しい場所なんだ」
そして――
「そこに行けば、誰だってヒーローになれる」
「……私でも、ですか?」
「ああ」
咲弥はゆっくりと、だが明瞭に頷く。
「あそこはな、ゲームを楽しむ場所なんだ。うまい下手なんてのは後からついてくる結果にしか過ぎない。楽しんで、楽しんで、これでもかってくらい楽しんだやつが勝ちなんだ。そうするとまぁ、俺みたいに世界チャンピオンになっちまう中学生もいるわけで」
「ぷっ」
咲弥のおどけた口調に、ジミヘンは笑顔を零した。
「俺は、ゲームの才能ってのは、ゲームを楽しむ才能のことだと思う。だからジミヘンは、そういった意味じゃ才能ありの人間だ」
「え? 私が、ですか?」
「ああ」
自分が好きな格ゲーについて、あれだけ悩めたのだ。ましてや彼女は、格ゲーがどんどん楽しくなくなっていくことを、ちゃんと問題視できていた。
それに気付けたなら、きっと楽しめる。
楽しめたなら、きっと強くなれる。
「珍しいよなほんと。付属中学のお嬢様が格ゲーだなんて。だけどそれは、楽しかったから始めたことなんだろ?」
「……はい」
「うん、だよな。俺もそうだ。俺も、ジャンレボが楽しくてしょうがなかった。いや、今もそうだ。そのうち大会があるって知って、一回戦で負けたのがすごく悔しくて、誰にも負けたくなくて……。練習はすごく大変だったけど、やっぱり好きなゲームだから楽しくて――」
「気がついたら聖地祭に?」
「ああ。招待状が届いた時はびっくりしたな」
二人のいる場所から、通りを挟んで真向かい――そこにある電器店のディスプレイには、今年の初めに海外で行われた聖地祭の結果と、活躍した日本人プレイヤーたちについての特番が流れていた。
聖地祭――アヴァロンズ・タイム(Avallons time)。
それは、今からおよそ八年前。西暦二〇〇〇年から毎年開催されている、世界最大規模の賞金付きゲーム大会だ。
主催は各国のゲーム好きな富豪たちによって構成される、聖地祭委員会。各地から招かれた実力のあるプレイヤーが、種目として選ばれたタイトルのゲームにて勝敗を競う、まさに電子ゲームのオリンピックである。
この大会が世界中で話題を呼び、ゲームやそれをプレイするゲーマー、ゲーム制作企業に世間の注目が集められるようになった。
以降、世界各地で賞金の用意されたゲーム大会が頻繁に開かれるようになり、これにより、電子ゲーム業界の売り上げは大幅に伸びた。
その利益はまた大会の運営に当てられ、プロゲーマーと呼ばれる者たちが現れ――と、ブームの連鎖はとどまるところを知らず、世界は今、空前の電子ゲーム時代を迎えている。
世の中にここまでエレクトロニックスポーツが定着したのは、間違いなく聖地祭の開催が発端であろう。
今や聖地祭は、すべてのプロゲーマーにとっての原風景であると同時に、この上ない憧れの舞台となっている。
そして咲弥は、聖地祭のジャンレボにおける最年少CC――コンテニュエイション・チャンピオン。世界が注目する、若きカリスマプロプレイヤー。
そうなった理由は、先ほど彼が述べた通り。
好きだったから。楽しかったから。
本当にただ、それだけのこと。
「俺は勉強苦手だし、他に取り柄とか無いけどさ……でも、ジャンレボが好きなのは誰にも負けない。ジャンレボを世界で一番楽しんでるのは俺だって、自信を持って言える」
「ゲーセンが――」
「ん?」
「ゲーセンが、誰もがヒーローになれる場所というなら、私も咲弥さんみたいになれるでしょうか?」
咲弥が隣に目をやると、ジミヘンは、思い詰めた表情で地面を見つめていた。ポカリンの缶を、両手でぎゅっと握り締めている。
「なれるよ」
咲弥はあっさりと、そう答えた。
「まずは、ゲームを楽しめ。直感的に、あるいは工夫して、時には運に身を任せて、とことん楽しめ。楽しんで、楽しんで、楽しむことのスペシャリストになれ。そしたら結果なんて、あとからいくらでもついてくる」
「はい」
ゲームを楽しむ。
ジミヘンはそれを思った瞬間、心の中の空洞に、何かがカチリとはまり込んだような、そんな音を聞いた。
今ならやれる――ような気がする。何をどうやれるのかはわからないが、今なら何かできそうな気がする。ああでも、やっぱりまだ自信が無い……。
「あと、その後ろ向きな性格も直したほうがいいな」
「う……」
見透かしたように咲弥が言う。
「俺のカノジョ――きよらって名前なんだけどさ。おまえは最初に会った頃のきよらにそっくりだ」
「え?」
「あ、きよらのほうが百倍美人だけどな」
「……」
「性格だよ。その妙にネガティブな感じがよく似てる」
「はあ」
今日、咲弥がジミヘンを追いかけたのには、そういった理由もあった。
カノジョの翳りを帯びた表情とジミヘンのそれが、ダブって見えたのだ。
「だが、きよらは俺の指導の元、特訓して前向きになったぞ? 今じゃ、俺が引っ張られるぐらいにパワーがある」
「へえ」
咲弥の話を聞き、ジミヘンは真顔になった。
自分の踏ん切りが付かない性格を自覚している彼女にとって、咲弥の恋人(昔は自分と性格が似ていた)がポジティブになったという話には、少なからず興味を引かれるものがある。
「ちなみにその特訓って、どんなのです?」
「簡単だ。朝起きたら、鏡に向かう」
「それで?」
「自分に言ってやれ。『私は変われる』。なりたい自分をイメージしながら何度でも。『私は変われる』。飽きるまで、時間が無くなるまでやればいい。『私は変われる』」
「……それだけですか?」
「それだけだ」
「は、はあ」
「半信半疑って顔だな。でもこれ、心理学とか、そっち系の本を読み漁ってやっと見つけた方法なんだぞ? 馬鹿らしいと思うかもしれんが、ちゃんと毎日、真剣に取り組んでみろ。そしたらきっと、なりたい自分になれる。人間のイメージの力ってのは、凄まじいんだ」
「……わかりました」
咲弥が嘘をついているようには見えない。
変わる。
この、何かにつけてネガティブな思考に陥ってしまう自分が、前向きで、堂々とした、明るい女の子に変わる。
本当なら、試してみる価値は充分にある。
「少しでも目標の自分に近づけたら、ちゃんと褒めてやれよ? 『今日はがんばったじゃん』みたいな感じで。……おお、そうだ」
咲弥はおもむろに立ち上がり、再びジミヘンの正面に立った。
そして、笑顔で言う。
「俺と約束しよう、ジミヘン。おまえは今日から格ゲーを楽しみまくって、自分を変えて、聖地祭の選手を目指すんだ」
「聖地祭? 私がですか?」
「アホ。おまえ以外に誰がいるよ。……んで、おまえはそのまま格ゲーの種目で、ゲームはなんでもいいから、とにかく入賞する。そしたら表彰式で、俺と会える。その時に――おまえの『ちゃんとした名前』を教えてもらおうか」
それは、ジミヘンにとって夢のような話だった。
数年前から格ゲーを数タイトルやり出したばかりの自分が、聖地祭で入賞。
両親は言うだろう。馬鹿げていると。
学友は言うだろう。冗談にもほどがあると。
だが――
まったくもって晴れやかな、咲弥の笑顔を見ていたら。
差し出された、大きな右手を見ていたら。
不思議とそれが、無理でないことのように感じた。
なんとかなりそうな、気がした。
だからジミヘンは、ゆっくりと立ち上がって――
「……はい」
咲弥の右手をしっかりと掴んだ。
「約束します。私は、あなたに、聖地祭の表彰式で、本当の名前を伝えます」
「よっしゃ、マジの約束だぞ? これで逃げ場はなし。……だからもう、ゲームを始めなきゃよかったなんて言うな。そういう台詞を聞くと、同じゲーマーとして悲しくなる」
「はい。もう言いません」
咲弥はもう一度ぐっと力を込めてから、ジミヘンの手を離した。
と、そのタイミングで、突如としてジャンレボの曲が公園に流れ始める。
咲弥のケータイの着信音だ。
「悪いなジミヘン。……もしもし? 終わったか。じゃ今から迎えに行く。……いや、チャリだ。……わかってる、二人乗りは無しだろ? お堅いやつめ。……違う、きよらを愛してると言った。……んがっ!? 素でそういうことを言うな! 照れるだろうが!」
その後、咲弥は二言、三言を交わし、少し上気した顔で通話を終えた。
「今のがカノジョ――きよらさんですか?」
ジミヘンが微笑みながら問いかける。
「ん、まあ」
どうも通話でやり込められたらしく、咲弥は言葉を濁した。
「ラブラブですね」
「認めたくはないが、尻に敷かれてる。……さて、おまえを家まで送ってやりたいところなんだが――」
「いいですよ。私の家、近いですし」
「そうか。悪いな」
「それより急いであげてください。きよらさん、待ってます」
「ああ。じゃ、またなジミヘン」
咲弥はジミヘンに背を向けて、近くに止めていたMTBの鍵を外し、跨った。
そのまま通りの曲がり角までペダルを漕ぎ――
「次は聖地祭で会おう!」
最後に振り返ってそう叫び、ジミヘンの視界から消えた。
「……近くに住んでるんだったら、またどこかのゲーセンで会えると思うけどな」
ジミヘンは、楽しそうに呟く。
まぁ、結果として、ジミヘンの言葉は外れることになるのだけれど。
ジミヘンは二度と、咲弥に会うことができなくなるのだけれど。
つまりこれが、先ほどの後ろ姿が――
ジミヘンが乙波咲弥を見た、最後の瞬間だったのだ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
最近、小説はあまり書いておりませんが、よろしければ「妻と私とネズミ(https://tsu-wa-ne.com)」にお越しください。
始めたばかりのブログですが、どうぞよろしくお願いいたします。




