Opening
この小説は、私が若い時――すなわち、格闘ゲームが大好きで大好きで、しかも小説家を目指していた頃に書き上げた作品です。
西暦2011年頃でしょうか。
あの頃はまだ、スマホがそんなに普及していなくて。
E-スポーツの概念もそこまで浸透していなくて。
格闘ゲームのプロと呼べる人たちは、ほんの一握りでした。
この作品は、私にとっての青春と同義です。
読んで懐かしい気持ちになっていただけたなら、楽しい気持ちになっていただけたなら、涙がこぼれそうになっていただけたなら、それ以上に嬉しいことはありません。
かつてゲーセンで笑い合った、名前もろくに知らないみなさん。
あの頃のことを、覚えていますか?
私はみなさんのことを、よく覚えています。
ああだこうだと言い合いながら、一つの筐体に群がって語り合った日のことを。
ゲーセンが大好きだ
ゲームが大好きだ。
格闘ゲームが大好きだ。
本作は、そんな気持ちだけで出来ています。
願わくば、かつて私の抱いた思いが、かつて画面越しに心を通わせあった仲間たちに届きますように。
小足入ってから小パン、中パン、強波號。別の言い方をすれば(表記法を変えればとも言えるが)【屈弱K>屈弱P>屈中P>強波號拳】。
何を言っているのか、わかるだろうか?
いや、わからずとも良い。今この瞬間において大事なのは、理解不能な語群の意味ではなく――
乙波咲弥がそれを使って、敵にダメージを与えたという事実だ。
「またコンボ入ったぞ!」
「あの野郎、普通にコンボできてるじゃねーか! これで確反からのリターンが増えて……わかんなくなってきたんじゃね!?」
一変した状況に、会場のギャラリーが沸き立つ。
皆、壁際の巨大モニターに注目していた。
モニターの下には、四人の人物と二つの筐体。
高さ一メートル五〇センチ、幅一メートルほどの筐体には、大きな画面が一つと、レバーが一つ、ボタンが複数。その筐体が二つ、シンメトリーになる形で向かい合って並んでいる。
それは、電子ゲームの対戦台だ。
各対戦台に設置された椅子に、それぞれプレイヤーが腰掛ける。画面越しに相手を睨みながら、左手でレバーを、右手でボタンを操作してゲームに興じる、という仕組みの機械。いや、対戦者たちにとってはリングだろう。
詳しく説明するならば、今まさに、咲弥が片方の椅子に腰掛けているそれは――
2D対戦格闘ゲーム、と呼ばれるジャンルのプログラムをインプットした、どこのゲームセンターにもある普遍的なタイプの筐体だった。
そして、その筐体のゲーム画面が、各種ケーブルとPCを通し、背後の特大ワイドモニターに表示されているという案配だ。
「いいよ、さく兄! そのままやっちゃえ!」
「がんばって……がんばって!」
観衆の中から、咲弥に一際大きな声援を送る小柄な少女と、長い三つ編みの女性。
咲弥はそれに――応える。
応えるために、集中する。
画面に映った自分のキャラを、己が手足と同等に扱うため、深い意識の中、濃く濃く融合する。
2D対戦格闘ゲームは――
互いに好きなキャラを選択し、それを画面上で戦わせて、先に相手の体力をゼロにした者が勝つ、という、至極わかりやすい構図のゲームだ。
だが今、咲弥の操るキャラクターは、敵のキャラクターの猛烈な攻撃に翻弄されていた。
先ほど攻勢に転じることができたのは、束の間の出来事。
体力も残り僅かとなっており、咲弥にとって芳しくない状況が続いている。
しかし――
「大丈夫」
小刻みにレバーを動かし、素早くボタンを指で弾く咲弥の傍ら。
赤いキャップを被った少女が、小さく呟いた。
周囲のどよめきに掻き消されてしまうほどの、ほのかな囁きである。
おそらくは、誰の耳にも届いていない。
だがそれは、少女が咲弥に宛てた、歴としたメッセージだった。
「あなたなら、大丈夫」
少女は画面からしばし目を離し、真剣な表情で筐体に向き合う咲弥の背を見つめる。
そして、言う。
「ここに来れば、誰だってヒーローになれる」
それは――
「あなたが教えてくれたこと。あなたが示してくれたこと」
だから――
「私はあなたを信じている」
赤いキャップの少女は、一点の曇りも無い双眸を咲弥に向けながら、確かな口調で言った。
この戦いには、咲弥の命運が賭けられている。
いや、命運などという言葉では軽いかもしれない。
この戦いに負けた場合、咲弥が失うモノはあまりにも大きい。
それは金品などの、物理的かつ即物的なモノではなくて。
彼の人生――
彼の矜恃――
彼の将来――
彼の約束――
そういった、自身の存在意義に直結する重大な概念を賭けて、咲弥は勝負に望んでいる。
無論、それは相手も承知だ。これが単なるゲームの勝負でない、もっと別の何かにシフトしていることは、充分理解している。咲弥がこれに負ければあとが無いことも、ここに至るまでの流れとして把握している。
だがそれでいて、相手も咲弥を打ち負かそうと必死だった。
なぜなら相手もまた、賭けているのだから。
己のプライドや、それ以上の何かを。
つまるところこの勝負は――聖戦。
格闘ゲームという媒体を通して表現される、神聖なる戦い。
負ければ失い、勝てば……いや。
勝たなくてはならないのだ。咲弥は。絶対に。
負けるわけにはいかないのだ。
自分を応援してくれる者たちのために。
そして何より、自分自身の明日のために。
(以下同文……)
逼迫した勝負の最中、咲弥は思う。
かつて決心したこと。
しかし、一度折れてしまった心。
だが、信頼できる者たちの力を借りて、また蘇った闘志。
(以下同文だ。やるべきことは、変わってない)
自分は今、何をやっている? ――格闘ゲームだ。
これは負けていい戦いなのか? ――そんなわけがない。
だったらもう、出し切るだけ。
己のすべてを――乙波咲弥という存在を、余すことなく対戦で表現するだけ。
だが、もう一つ大事なことがある。
咲弥はもう一度だけ、己の胸に問うた。
今――おまえは楽しんでいるか?
そして、気づく。
己の表情に、一欠片も楽しそうな要素が含まれていないことに。
違う、と咲弥は思う。
これではダメだ。絶対に勝てない。
状況は依然ピンチのままだが、これではいけない。
咲弥はそれを知っている。
これまでの人生の中で、知りすぎるほどに理解している。
ではこんな時、自分が物語の主人公だったなら、どんな表情を浮かべたらいい?
「さく兄?」
「咲弥さん?」
観衆の少女と女性が、軽く目を見張る。
咲弥は唇の端を吊り上げて、不敵な、それでいて無垢な、楽しそうな笑みを形作っていた。
状況にひるんだわけでも、諦めたわけでもない。
それは、己の逆転を信じて疑わない、一人の英雄の表情だ。
「ああ――」
咲弥の表情に気付いた赤いキャップの少女は、呟く。
瞳を潤ませながら、口にする。
それは、やはり誰にも聞こえない声であったが、しかし少女は、はっきりと言った。
「お帰りなさい。Sakuyaさん」
ここは、誰もがヒーローになれる場所。
ゲームセンターと、人は呼ぶ。
これは、ゲーマーという存在が一つの職業に昇華した世界で、己のすべてを賭けて聖戦に臨む者たちの、熱き血潮の物語である。
最後までお読みいただきありがとうございました。
最近、小説はあまり書いておりませんが、よろしければ「妻と私とネズミ(https://tsu-wa-ne.com)」にお越しください。
始めたばかりのブログですが、どうぞよろしくお願いいたします。