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9魔 西方守護伯付き魔女と西方守護伯





 荷物のように担がれて辿りついたのはガウェインの私室だ。初めて入る殿方の部屋に動揺など感じる暇もなく、寝台の上に放りだされた。何故寝台かは一目瞭然だ。本当に睡眠だけに使われていると一目で分かる部屋だ。座れる物が他にない。寝台以外で座れるものは空気しかなさそうだ。空気椅子は、とてもつらい。


「……座れ」

「は、はい」


 クッションの効いた広い寝台に正座する。うまく安定できないでぐらぐらしながら向き合い、ミルは両手を付いた。


「申し訳ございませんでした! ひふはわはひはんはらほひへまへんでひは! ひえまふ!」

「窓を見るな、消えるな! 言えないのは分かったから、とりあえず落ち着け!」


 呪いで呂律がおぼつかない。必死に紡ごうとすればするほど自分でも何を言っているのか分からなくなってしまう。身の内で顎が開きかけて両手で口を押さえてもがき、ようやく部屋は静まった。

 ガウェインもぐったり壁に頭をつけていた。疲れきったと背中が語っている。ますます申し訳なくなって縮こまった。呪われている事を伝えられれば、性差はあんまり重要でないと思っていたから、積極的に伝えようとしていなかった自分の落ち度だ。結果的に皆を騙した事になる。


「申し訳ございませんっ……」


 嫌われたくない。

 よくやったと言ってくれた。お荷物のように押し付けられた出来損ないの魔女を信用して、優しくもしてくれた。ここにいさせてくれたこの人に、嫌悪の瞳を向けられたら、きっと死にたくなる。



「何でもします。お役に立ちます。消えろと仰るならば消えます。ですが、ですがっ……」


 消え入りそうな声にガウェインははっと顔を上げた。寝台の上で頭を下げている小柄な『彼』は、まるで土下座しているようだった。


「……馬鹿だな。俺は怒ってなんていないし、そんなこと言うわけないだろ? 少し、かなり、多大に、びっくりしただけだ」


 蔑んだ視線を向けられるどころか、優しげな声と共に大きな手が頭を覆った。ぽんっと乗せただけなのに、彼の手が大きいのかこっちが小さいのか、すっぽり収まってしまった。


「そうか、女の子だったのか。実はな、俺はお前の母親は血も涙もないのか思っていたが、そんなことはなかったんだな。確かに軍属になるのにお前くらいの年頃の女の子は危ない。お母上なりの優しさかもしれんな……直属の上司に正体を教えておいてさえくれたらな」


 ミルは恐る恐る顔を上げた。金紫の瞳は、もういっぱいいっぱいだと見るだけで分かる。


「お母様は血も涙も情もあります。情け容赦がないだけなんです!」


 検討外れの方向に飛んだ母への援護に、本人も何かおかしいと首を捻った。


「でも、ここを出されたら顎四つ様と結婚は本当です……私が相手の方を選ぶなんておこがましいのでしょうが、けれど、隊長、顎様が私の夫……僕の、わ、わたくしの、ぼ、わ」

「落ち着け! 追い出したりせんから落ち着け!」







 虚ろに空笑いを始めた姿に慌てて言葉を遮る。ガウェインは深々と息を吐いた。華奢で小柄で肌白い少年だ。一人でこそこそ着替えて、こそこそ風呂に入っていると報告された時も、からかわれるのを避ける為に風呂場の時間をずらしているのだと思っていた。ましてジョン達が仲間だ。腕は確かなのにいつまでもガキ大将が群を作っているようにしか見えないのは何故なんだろう。

 着任当初は子どもが迷い込んできたようだった。所在無げにびくびくして、目の前でジョン達が脱いだ時は悲鳴を上げない代わりに卒倒した。王女と懇意にするほど高位の令嬢に、男でもむさいと思う男達の裸体はさぞやきつかっただろう。魔女の役目が力仕事でないのと、薬草の管理や調合のためを考えて専用の部屋があることだけが幸いだった。



「で、だ。情報を整理するとだな、お前は十六歳。変わらないな?」

「は、はい。あ、けれどもう少し背が高いです。ヒールもあるでしょうけど、何だか色々貧弱な気がします。私もガウェイン様のようにしっかりとした腕がよかったです。羨ましいです。後は大して変わらないので、せめてこんな時くらいいつもと違ったらと」

「やめとけやめとけ。女の子が俺のように生まれたら哀れでならん。しかし、こうなった以上少し考えないと駄目だな。男ならともかく令嬢を戦線に出すわけには」


 ミルが西方にいるのは一時的な処置だとガウェインは思っている。王家と懇意にある上流貴族の子どもが、戦時には最前線となる守護地に配属された自体が異例なのだ。荒くれ共の中にいて上品さを失わない令嬢に、色々と取り返しが付かない物を見せてしまった後にいうのもなんだが、傷をつけずに返すが無難だろう。


「嫌です!」


 細い指が必死に腕を掴んできた。溺れる人間が何かに縋るように、息をしようともがくように。





「私は魔女です、魔女は人の為に在ります!」


 西方守護伯付き魔女。右手の中指に嵌る黒細工の指輪。ここにいていい証だ。大きな手でくしゃりと頭を撫でてくれた。転んだら、どんくさいと笑って手を貸してくれた。ミルレオでは経験した事のない全てがここにある。母を知らない人達。比べない人。ミルだけを見て、ミルだけで判断してくれる場所。王宮にいるときより何倍も伸びやかな魔法を使える気がする。

 何より、この人の役に立てるのが嬉しかった。厳めしい顔をして書類に向かうのに、お茶を運んだら気づいて頭を撫でてくれる。成り上がりと厳しい周囲の目にも怯まない瞳をもって、きちりと伸びた背で責務を果たす強い人。彼を尊敬した。


「私は貴方の魔女です! 貴方のお役に立ちたいんです! ガウェイン様、お願いします。お傍に、いさせてください」


 必死に言い募るミルをしばし見つめ、ガウェインは息を吐いた。呆れられたとショックを受ける様に違うと手が揺れる。


「お前、あまりそういうことを気軽に言うなよ?」

「私、ガウェイン様にしか申しておりません!」

「男だと思ってた時に言われてもくすぐったいのに、お前が女だと知ったら、どうも、妙な気分になる」

「妙……気持ち悪くてすみません……」

「……はっ! 消えるなよ!?」


 しゅんと肩を落として見つめる先が壁だったので安心していたが、そういえばミルは壁から入ってこられる。ということはだ。出ても行けるということだ。


「……とにかく、だ。今日から風呂は俺の個人風呂を使え」


 ミルは落ち込んでいたのも忘れて飛び上がる。


「駄目です! 私、今までと同じく時間をずらして入りますから。大丈夫です。だって今は男の子ですもの!」


 ミルは胸を張った。


「駄目だ」


 きっぱりすっぱり切られた。後は幾ら言っても取り付く島もなかったのである。








 役に立ちたいならやっぱり呪い持ちは体裁が悪い。

 解除に費やす時間を増やそうと、夜も明けきらぬ内に起床し、薬草や手持ちの薬のチェックと手入れを終える。

 王女だった時はここからが長い。髪、ドレス、爪、化粧、それぞれ違う女官が取り掛かり、終わる頃にはぴかぴかの王女が出来上がる。中身は朝からぐったりしていたりするが。

 その点ミルは楽なものである。顔を洗い、短い髪が跳ねてないかチェックするだけで事足りてしまう。大変なのは隊服を折って折って折るくらいだ。裾を直せば事足りるが、如何せんミルは刺繍以外の裁縫をやった事がない。母は手ずから作ったドレスを贈ってくれたりしたのに。



 夜勤と交代の兵士が動き出すにも早い時間、一人で廊下を歩く。そのまま壁から出ても良かったけれど、少し考えたかった。

 ガウェインにはその日に報告したが、先日の偽王女の一件に関った魔女がいる。その魔女はかなりの手練れだと思われた。

 大抵の貴族の屋敷には魔法探査の陣が張られている。しかし、バリルージャの屋敷にはそれがなかった。誰にも気づかれず破られていたのだ。次いで魔物の強襲だ。進んできたと思われる道に食い荒らされた形跡がないのなら、何者かが食料を与えていた事になる。

 オーガ、ゴブリン、トロール。どれも人間を見たら獲物と思って襲ってくる獰猛な魔物だ。幻惑系の魔術もあるが、洗脳や幻術は魔物に効きづらい。彼らの意識が決定的に人間と違うからだろう。


 あれだけの数を連れ回し、尚且つ誰にも気づかれずにここまでやってこられた。つまり、あの魔物達は飼い馴らされていたのだ。そんなことが出来るはずはないのに、現に魔物は群れをなして突如姿を現した。

 由々しき事態だ。魔物を人が『使う』なんてあってはならない。魔物の数がそのまま軍事力のバランスを崩してしまう。既に母には報告済みだ。先日捕えたインプは野生のものが使役されていて、放った魔女に繋がる物は何もなかった。使役を解いて逃がしてやった。インプは元々臆病な魔物で、極力人里には関らない地に生息しているからだ。



 ここは、未熟な自分を鍛える為に放り込まれた場所だ。けれど今のミルにはそう思えない。何ヶ月も経っていないのに一から自分を作り直している気分なのだ。

 母と比べて嘆息する人も失望する人もいない、王女のしがらみもない。あるのは西方守護伯付魔女としての責務と、ただミルとしてだけの行動で評価される少年一人。息をするにも評価が付きまとう王宮とは何もかもが違う場所。

 これは逃げだろうか。出来ない自分が批難されるのは当然なのに、それが重くて逃げ出して楽になっただけなのだろうか。それでも。

 ミルはぐっと唇を噛んで顔を上げた。それでも、出来ることはあるはずだ。


「ちょ、っと!」


 角から突然誰かが飛び出して立ち塞がった。よく見ると真っ赤な顔をした赤茶色の髪をした少女だ。メイドのお仕着せではない、寝巻きに上着を羽織っただけの姿のサラだった。


「あ、おはようございます」

「畏まらないでくれない!?」

「お、はよう」

「おはよう!」


 サラは朝から元気だ。しかし、まだ早いとはいえ人目に触れるのはあまり好ましくない格好である。


「これ!」


 こっちの髪が揺れる勢いで突き出されたのは、昨日ザルークに渡した入浴剤だ。女の子が好みそうな細工の瓶にいれていて、この西方では珍しいのですぐに分かった。


「ありがとう!」

「わざわざ言いに来てくれたんですか。こちらこそありがとうござ……ありがとう」


 もしかしたら気に入らなくてつき返されるのかと思っただけに嬉しさも一入だ。メイドの寝所から見える渡廊下を通った姿に気づいて、わざわざ追いかけてきてくれたのだろう。


「良ければまた受け取ってくださ……れたら嬉しいな、幾らでもあるから、いつでも言ってくださいね。人にあげた事もあるんだけど、後で捨てられていて申し訳なかったので、いっぱい手元に残っているんだ」


 侍女がいい匂いですねと言ってくれたから嬉しくなって渡した。後日、偶然廊下で談笑している彼女を見つけた。手に持っていたのはミルレオが渡した入浴剤で、まるで汚い物を持つように指で挟み、皆で笑っていた。そして、通りすがったゴミ集めの男の袋に放り込んだ。王都にはたくさんの職人がいる。その中で素人の作った入浴剤などいらなかったのだろう。

 嬉しさを隠しきれずにこにこ笑って言えば、何故かサラの顔に激怒が現れた。

 何!? 何か変なこと言った!? やっぱり気にいらなかったけどお世辞で言ってくれたのを私が真に受けたから!? 自信のなさには自信がある!

 ネガティブな方向にはどこまでもポジティブになれるミルは、どんどんへこんでいく。


「あなた、そんなにタダで人に物をあげるなんて馬鹿じゃないの!? これ、絶対お金取れるわよ! すっごくお肌すべすべになったもの!」


 夜遅くまで続いたらしい宴会の後の早起きでも、サラの肌の調子は抜群だ。褒めてもらえたと嬉しくなったミルの笑顔に苛立ったサラは、瓶を持っていない手を突きつけた。


「幾らでも作れるなら、幾らでも作って、持ってる分も全部あたしに渡しなさい!」


 怒声にびっくりしていたら早く取りに戻れー! と更に追い討ちがかかる。慌てて壁をすり抜けて、文字通り飛んで帰った。

 再びサラの前に降り立ち、趣味で作っていた為に結構な量を渡した。彼女はふんっと鼻を鳴らして胸を添った。


「あたしが売り捌いて、これがどれだけ価値があるか目に見える形で証明してやるわ! 覚悟しろ! ざまあみろ!」


 威勢よく吐き捨て、踵を返して走り去ってしまった。反応出来ずに見送ってしまい、はたと気づく。送るべき、だったような気がするが、今付いていくと怒られる。絶対だ。







 早朝なのをいいことに、東に作られた庭園を一人占めする。職人が端整こめて作った花の中で朝露に濡れて一番芳香を出すのは薔薇だ。


 調子を見る為に簡単な術を使っていく。低い位置を飛び回り、朝露を浮かべて弾く。色と光が種類を増し、まるで硝子細工の中で踊っているようだ。生き物が寝静まった時間独特の雰囲気が溶け込んでいるのか、吸い込む空気まで昼間と違う。ミルは最後に大きく水を跳ね上げ、色取り取りの光を弾いて虹を作った。


 ダンスが楽しいと思ったのは昨日が初めてだ。

 王女として恥ずかしくないよう、王女として相応しく、どの令嬢よりも優れて当然である。だって貴女は女王の娘。幾度となく降り注いだ言葉を思い返し、ミルは苦笑した。


「中身はこんなにどうしようもないのですよ、大臣殿」


 嗜みであるダンス一つ楽しむ余裕のない娘なのだ。次第に表に出される事も少なくなった。女王の恥となる、と。それならそれで構わなかった。今のような催し用の術一つ、人前では成功させられなかったのだから。


 でもここでお飾りとして奥に入れられるのはつらい。あの人の役に立ちたいのだ。拙い魔法一つでわっと喜んでくれたここの人達に報いたい。女王の為でなく、王女としての義務でなく、そう思うのだ。



 さらりと流れる感触にはっとなる。長い銀青が風に靡いていた。以前は当たり前でいた感触が妙に感慨深く感じる。呪いはもしかしたらとても簡単に解けるのかもしれない。

 母の怒声はいつも同じ。未熟者とミルレオを叱る。未熟者の魔女、ではない。ミルレオ自身が未熟者だと叱るのだ。あれだけ解呪を失敗した。なのに何でもない術を使った後に呪いが揺らいでいる。


「……ミル?」


 静かな声にびくぅと身体が跳ねる。早朝とも呼べない時間はいつの間にか過ぎていても、やっぱりまだ早い。そんな時間に一体誰だと髪を押さえてあたふた振り返った。

 そこにいたのはガウェインだった。隊服ではなくラフな私服でいつもの剣を差している。


「ああ、いや、驚かせてすまない。鍛錬帰りに偶然見かけただけだ。早いな、お前は」


 ほっとして髪を自由に流す。それにしてもガウェインも一体いつ寝ているのだろう。いつも遅くまで部屋に明かりが着いているし、朝は早くから鍛錬を終えて仕事をしていた。





「おはようございます」

「ああ、おはよう」


 ガウェインは、どこまでも丁寧に腰を折ったミルをまじまじと見下ろした。

 長い銀青がとてつもなく美しい。貴族の令嬢は髪に命を懸けると聞くが、あまり頓着してないように見える。それなのに思わず目を引かれて足を止めてしまったのだ。




 当たり前のように伸びてきた手に髪を掬い取られて、ミルは動きを止めた。挨拶で手を取られたり、手袋越しに口付けを受ける事は数知れなかったが、殿方に髪に触れられたのは初めてだ。何だろう。物凄く気恥ずかしい。居心地悪い思いで行き場のない両手を無意味に絡み合わせる。


「綺麗だな。男が褒められても嬉しくないだろうと思ったが、これを素直に褒められないのは少しきつかった」

「あ、ありがとうございま、す?」

「俺が女を褒めるのは珍しいそうだ。素直に受け取っとけ。お前はほんとに可愛いなぁ。貴族の令嬢はつんつんしてるのしか知らんからな」


 思ったより間近で言われて思わず咽る。






 細い首まで赤くなった様子にガウェインは首を傾げた。


「何だ? 社交界で言われ慣れてるだろう?」


 ガウェインは苦手の一言に尽きる社交の場では、歯が浮く割りに腹の足しにならない麗句が溢れかえっていた。外見家柄所作装飾品出世趣味。よくもまあそんなに褒めるところがあるものだと逆に感心したものだ。ガウェインにがさすが祖父の孫だという今一喜べない褒め言葉だったが。

 こんなに綺麗な髪で、ミル自体も見た目はあまり変わらないというからには可愛らしい少女の姿だろう。性格だって果てしなく自信がない以外は、すれてなくて可愛いと純粋に思う。

 それが下町の子どもだって平気な一言で茹だりあがりそうになっている。しかも見ているこっちが可哀相になるくらい狼狽えて。


「え、や、だ、だって、そんなこと言って頂けたの、は、初めてです……」

「あ?」

「は、恥ずかしい……」


 美辞麗句のあしらいを嗜みにしている貴族社会の中でこいつ本当にやっていけてるのか。ガウェインは心の底から心配になった。


「褒められたことくらいあるだろう?」

「お、お母様に似てきたとはよく……けれど、そんな、か、可愛いだなんて、そ、なこと、ない、です」





 一方ミルは経験した事のない羞恥を持て余して消え入りそうになっていた。人前で盛大に転んだ時より恥ずかしい。余裕がないと余計に慌てて転ぶんだよなと関係ないことで和もうにも、髪がまだガウェインの手の中にある。

 鍛錬後で暑いのか、はたまた隊服ではないからか、手袋もしていない素手だ。ごつごつとした筋張って硬そうなのに、すらりと長い指で無骨さは感じない。病がちで白く細い父の手とは全然違う。

 反応に困ってあたふたしていると、静かな嘆息が聞こえた。呆れられたと今度は青褪めていく。手に取るように分かるミルの反応に、ガウェインは違う違うと笑った。


「姫様にお返しするより先にはどうかとも思ったが、どうにもお前が可愛くて堪らん」


 訳が分からず傾げた頭に手が回り、再度首を傾げようとして、ぐっと引き寄せられた。鎧もつけてないのに硬い胸筋で鼻を打った。痛い。


「前に姫様にお会いした事があると言ったな。覚えてるか?」

「は、はい。勿論です」


 忘れるわけがない。この人と昔会っていたなんて聞いて、忘れられるはずがない。会ったのは忘れていたけれど。







「あの頃は俺も多少は素直な時期でな。母親が死んで身よりも無しで、さてどうやって生きていくかと思ったところに実の父親が登場した。引き取ってもらえて、飢えも寒さも無い暮らしを与えられて、だったら役に立とうと思うだろ。今の俺は思わんかもしれんが、あの頃の俺はそう思ったわけだ。けどな、そしたら祖父の名が上にいるんだ」


 剣術に優れれば流石ハルバート将軍のお孫様。勉学に励めばお爺さまのような立派な方になられませ。何をしても何があっても繋がるのは祖父への評価だ。そして歪んでいったのは父子関係だった。


「どうして、ですか? お父様も同じご苦労をなさったのでは」

「だからだろうな。親父殿は子供の目から見ても『とても優秀』な人ではなかったから」


 暗愚ではなかった。けれど英雄にもなれない、至って普通の男だった。いつだって父親であるハルバートと比べられ、とっくの昔に呆れられた男だった。

 そんな男が下町の娘との間に作った落胤が、ハルバートの再来と呼ばれる才能を発揮したらどうなるだろう。嫉妬なのか羨望なのかよく分からない中に、唯一の実子である跡取り息子への愛情と父親のプライドが交じり合い、ひたすら混沌とした感情が出来上がった。


「俺が結果を出すと、親父殿はいつも困った顔で誇らしげに俺を褒めるんだ。多分自分でもよく分かってなかったんだろう。俺もどうしていいか分からなかったから、周囲が望むままに祖父のようになろうと努力し、余計に親父殿は捻れていった」


 引き取られて数年、正式な跡取りとして登城する頃には、ガウェインはすっかり参っていた。下町では大人相手にも負け知らずで通っていた悪童。迂遠な言い回しも嫌味も性に合わない。独特の貴族だけの世界に急に慣れろという方が無理な話だった。



 登城した先で繰り返される宴。そこで繰り返される値踏みと蔑みと、祖父への畏敬の念。地方の豪族と蔑まれてきた西方を、侵略より守った英雄地とした偉大な男。彼のようになれたなら、彼のようであれたなら、誰にも文句なんて言わせないのに。自分も、西方も、父に対しても。

 連日続く夜会の疲れがあっても眠れぬ夜が続いた。早く西方に帰りたい。昨夜も散々当てこすられ、終いには父に向かってお可哀想にと締められた。跡取りの息子が将軍の再来では貴方はあまりに憐れで立つ瀬がありませんな、と。

 目の前で嘲笑された父親は、穏やかに笑っていた。






 浅い眠りの中で目を覚ましたガウェインは、今では慣れた絹の寝巻きを脱ぎ捨て、窓から外に出た。廊下を通ってまたうるさく言われるのは面倒だったし、貴族達が空気のように無視している衛兵や侍女にも、誰にも会いたくなかった。



 冬に入ろうとしている季節にも花々が咲き誇る庭園は、国の威信と庭師の誇りを懸けた、目も見張るような美しさと芳香を纏っていた。

 ぼんやりと庭園を歩いて回った。何も考えたくなかったガウェインには、現を忘れるように咲き乱れる色が心地良かった。闇は駄目だ。うるさい声が止まない。何も考えたくないときこそ闇から離れなければならない。



 今思えば限界だったのだ。誰も気に止めなかったし、自分でも初めての経験で気づかなかったが、慣れぬ生活と必要以上に重い気負いは、少年のガウェインが平然と受け流すには早すぎた。


 朝露が花弁を伝って落ちる様を何とはなしに見ていた視界に、光が舞った。驚いて顔を上げれば、円形に作られた花壇の真ん中で少女が楽しげに回っていた。



 長い銀青を自由に靡かせ、花壇より多くの色の光を弾いて、一人でくるくる浮いている。光が弾いて銀青を揺らし、幼い少女は花と水と光を供に笑っていた。


 本気で花の精かと思った。よく見ると花の精はレースとフリルがたっぷりついた寝巻きで、足に至っては靴さえ履いていなかった。汚れていないのは少女が浮いているからだ。

 魔女だ。

 ガウェインはごくりと唾を飲み込んだ。西方で魔女はとても珍しい。当然魔女による演出やパフォーマンスも見慣れない。代わりに西方では花火職人が多く、技術はウイザリテ一を誇る裏話があるけれど、それは今関係ないだろう。


 声を掛けていいものかしばし迷う。声を掛けた瞬間、少女は消えてしまうかもしれない。呆然と見惚れていたのも束の間、今度は別の意味で唾を飲み込んだ。

 あの少女は『誰』だ。

 ここは貴人が寝泊りする部屋の庭園だ。ならば集まった何処かの令嬢か。しかし見た覚えがない。あんなに美しい髪と瞳、愛らしい容貌ならきっと注目の的だったはずなのに。同じ年頃の少女達は幾度も見たが、女王を髣髴とさせる少女は一度も見なかった。


 確か女王の一人娘があれくらいの年の頃だったはずだ。外見も女王と似ていてとても美しいと。一度だけ謁見した事のある女王を思い出して照らし合わせる。確かに、似ている。


 このまま気づかれない内に去るべきだろう。けれど仮に本当に姫様だとして、一人にしていいのだろうか。それともどこかにこっそり付き人が……いなかった。


 悶々と悩んでいたら少女がガウェインに気がついた。子どもまで腹で何を考えているか分からない貴族風な笑顔の中で、少女だけが本当に笑って近寄ってきた。


「どなた?」


 にこりと微笑まれる。臣下の礼を取るべきか考えている間に少女が勝手に名乗った。


「ミルね、ミルレオってもうします。あなたはどなた?」


 やっぱり王女だ。慌てて膝をつく。


「ガウェイン・ウェルズでございます」

「あのね、ミルね、きょうからおかあさまのおべんきょうします」

 

 王女はガウェインの口上を遮って目をきらきらさせていた。


「たのしみで早おきしました。みな、すばらしいおかあさまをおならいなさいませというから、だからね、ミルね、きょうからそのおべんきょうをします」


 稀代の王と呼ばれたレオリカの治世。一人娘は外見もよく似た、魔女。希望に満ちた幼い金紫を見ていられなくて、ガウェインは目を逸らした。彼女なら上手くやっていけるのだろうか。幼いながら見事に魔法を操っている彼女なら。


「……俺は、お爺さまのようにはなれない」

「え?」


 今思うと王女に、しかも自分より随分幼い、とどめに初対面の相手に何を言っているのかと思うが、それくらい限界だったのだ。堪えていた何かが音をたてて切れた。次から次へと溢れ出すのは憎悪なのか諦めなのか分からない。

 案の定王女はきょとんとしていた。不意に、小さな両手でガウェインの頬を挟み、まじまじと息がかかるほど近い距離で見つめてくる。


「おじいさまになるのですか? ガウェインが?」

「……そう、なれなかったんだ。俺は」

「どうして?」


 心底分からないと大きな瞳が言う。


「だって、おじいさまはもういるのに、どうしてガウェインがおじいさまになるの?」


 きょとりと王女は言った。


「ガウェインがおじいさまになったら、ガウェインにはだれがなるの? おじいさま?」


 迂遠な物言いも腹に何かを含んでいるでもなく、ミルレオが発したのは純粋な疑問だった。











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