3魔 西方守護伯付き魔女の撤退
怖い怖い香水怖い!
噎せ返る香りには薬草の調合で慣れているつもりだったが、甘かった。自分を際立たせ、相手を飲み込もうとする匂いはつける量も気迫も違う。王宮で開かれる夜会や茶会では嗅いだことのない匂いも多い。
それらすべてが混ざり合って頭がくらくらしてくる。甘く蕩けそうな声が耳元で囁いてびくりと振り向くと、同じ年頃の少女が真っ赤な口でにこりと笑った。夜会で胸元は出し慣れているものの、太股までスリットの入った服に顔が真っ赤になる。足は貴婦人の宝石。たとえ背や胸元を強調したドレスを着ようとも、足だけは出さないのが嗜みだ。ダンスの最中に足首をちらりと見せてやるのよと笑ったのは誰だったか。……お母様でした。
「あ、あの、僕は本当に、あの!」
必死に押しのけた手が寄せられた胸に押しつけられる。
「うふふー、真っ赤になって、か・わ・い・い」
「いいのよぉ、なぁんにもしなくて。あたし達が、全部して、あ・げ・る」
「あたし達と、大人になりましょお?」
男性のあしらい方を教えてくれたお母様は、女性から貞操を守る術は教えてくれなかった。ミルレオは半べそをかいて剥ぎ取られる服を必死で掻き合わせる。これはどうすればいいのだろう。幾ら本当は女とはいえ、否、女だからこそ何か大事なものを失う!
『四階の突き当りだよ! 左だからね!』
切羽詰った顔で何度も叫んでいたトーマスの顔が浮かんだ。和む純朴な顔が神に見えた。
「申し訳ありません――!」
目の前のやけに髪の量の多い少女を押しやり、転がるように逃げ出した。掴まれていたボタンが弾け飛んだ。怖い!
「ああん! 逃げたぁ!」
「追いかけましょぉ? あれ絶対」
「鴨がネギしょって鍋に入ってやってきたんだものね!」
怖い会話が後ろから追ってくる。
逃げ出したはいいが、ミルはおろおろと辺りを見回して、固まった。薄い紙張りの扉から光と影が漏れ出ている。ゆらゆらと揺れる影は意外とはっきりと中の様子を照らし出していた。流石にそういう知識はある。あるだけに居た堪れない。
「階段!」
転がるように手摺にしがみついて駆け上がる。今は二階なので二回上がればいいはずだ。二階分を駆けあがった。
下と同じような部屋が続くと思いきや、四階の様子は階下とはがらりと違っていた。
扉は板張りで間隔も広い。一部屋の大きさが違うのだ。音も静かで階下のように声が漏れる事も、廊下で人とすれ違う事もない。
「ミルさまぁ?」
「どちらにおいでですのぉ?」
「たのしいこと、し・ま・しょ?」
階下から影が伸びてひたひたと足音が聞こえてくる。幼い頃の寝物語に聞いた、捕まったら影に骨まで食べられるという怪談を思い出した。
ミルは慌てて左右を見回す。
「左の突き当たり……左ってどちらでしたっけ!?」
混乱もピークになれば左右を忘れる。ほぼ反射的に、かろうじて左に曲がったミルは、明かりの少ない廊下を走りぬけた。闇に紛れた扉が浮かび上がった時は神に感謝した。
ノックも忘れて飛び込む。廊下の暗さとは違い、意外と明るい部屋にほっとしてしゃがみこんだ。
「やっぱり来たな」
聞き慣れた声に、心臓が勢いよく跳ね出た気がしする。膝につけていた額も跳ね上げた先で、自分の上司が苦笑していた。
髪は乱れ、上着はどこかに落とし、シャツは裂け、ズボンも微妙に脱げているミルを見下ろし、ガウェインはしみじみ言った。
「酷い格好だな……お前、魔女じゃなかったか?」
肘を掴んで立ち上がらせる。ガウェインは指が回ってしまった細さに眉を顰めた。
「ま、魔法は人の為にあれ、です」
「魔女の金剛石の掟、か」
魔法を私利私欲で扱うなかれ。
一般人への攻撃は反撃のみが許される。
迫害を受け続けた魔女が決めた掟を魔女達は忠実に守っている。もしも掟を破ろうものなら、魔女による制裁が待ち受けている。魔女が魔女としてこの世にある為に、掟は絶対なのだ。
「あれは攻撃と見なしていいと思うけどな。ほら、立てるか?」
引っぱられるままに奥に進む。部屋の隅にひっそりと寝台はあるものの、使っていた様子はない。書類が台の上に散らばっている。どうやらここでも仕事をしていたようだ。しかし、さっきまでこんな書類を持っていなかった。
不思議に思ったミルだったが、すぐにはっとなった。聞いた事がある。こういった娼館は密会などに使われる事があると。守護伯を預かるガウェインも仕事中だったのだ。
「お、お仕事中に申し訳ありませんでした! 僕、すぐに撤収を致します!」
慌てて背を向けようとして、肘を掴まれたままなのに気づく。ガウェインは気にした風もなく、のんびり部屋の中に戻っていく。
「まあ待て。どうせなら手伝っていけ。毎度毎度新人をからかっては楽しんでるんだ、あいつらは。まじめに付き合ってやる必要はない」
なんて優しい! ミルは解放された手で、思わず口元を覆った。筋肉達と比べたらまるで天使のようだ! ちょっと目つき悪いけど。
ここは、下の部屋に比べるとどちらかというと居室に近い。ソファーやテーブルの応接セットも完備されている。テーブルの上に散らばっている書類を簡単に纏めていると、じっとこちらを見ている上司に気がついた。
「あの?」
「その書類の人物を知ってるか?」
渡された書類の一番上に書かれていた名前を見る。
「デューク・ウズベク様……フスマスティス家のご令嬢が嫁がれた家のご当主様ですね。この方がどうかなさったのですか?」
「いや、もしかすると近い内に城に来るかもしれなくてな。中々気難しいと聞いている。持て成すのも一苦労だ」
「そうですか……確か辛い物や苦い物がお好きではありませんので、お酒やお料理は甘めが、あ、葉巻もお嫌いですので、お話相手の方も吸われない方が宜しいと。後は……お付のヘンドリック様が少々変わった御方だと」
口ごもる様子にガウェインは得心したと頷いた。
「分かった。お前が貴族側の情報に敏くて助かる。どうもこの地はそういった情報から疎くてな」
城では貴族の情報を耳にすることが多い。望む望まざる関係なく、そういう話題しかないのだ。
ミルも全員知っているわけではない。それでも教育は受けているので目ぼしい貴族の情報は入っている。
何か書き込みながら書類に目を通していく速度は、慣れた人間にしか出せないものだ。腕が立つとは聞いていたが内政も不得手ではないのだろう。西方は彼が守護伯となってから少し豊かになったと聞く。
ミルは、邪魔にならないようタイミングを見計らい、そっと尋ねてみた。
「あの、伺っても宜しいでしょうか?」
この地にきてから少し経つけれど、今まであまり自分から積極的に話しかけてこなかったので、ちょっと驚いた顔をされる。
「別に構わんが、頼むからあんまり畏まった伺いを立てないでくれないか。俺は下町育ちでな。仕事でなら仕方ないが、私用でまでそれだと居心地が悪い」
苦笑したら何歳か幼く見えた。ガウェインは落胤と聞いたことがある。先々代のハルバートは西の英雄と呼ばれるほどの男だったと、チューターの授業で知ってはいた。
「申し訳ござ……ありませ……すみま……ご、ごめんなさい?」
礼儀を徹底的に叩き込まれているミルだ。畏まるなというほうが難しい。育ちの良さが前面に押し出されている魔女の様子に、ガウェインは苦笑した。
「お前は本当に育ちがいいな。放り込まれたとはいえ、それでここはつらいだろうに」
同情を篭めた大きな手が丸い頭を撫でる。細い首はかくんと揺れた。ガウェインを見上げる瞳は大きな金紫色だ。どんな宝玉よりも美しいと、柄にもなくガウェインは思った。
「いいえ、僕はちっともつらくなんてありませ……いえ、訂正します。ジョンさん達が全裸になるのはとてもつらいです」
「……それは、すまん。注意しても直らないんだ、あれは」
「でも、他は本当につらくなんてないんです。楽しいことばかりです。本当に恥ずかしいくらい世間知らずで、魔法も強くない役立たずに、皆様は本当に良くしてくださいます。分からなくても教えてくださいますし、魔女であることに何かを押し付けたりもなさいません。お母様は出来たのになんて言われる事、も…………失礼しました。些事を申しました。お忘れください」
すっと下げられた背と頭は見事な一礼だった。無駄な動きが一切ない美しい手本のような礼。金紫の瞳は隠され、表情は何も見えない。
再び頭に手が乗った。そのまま勢いよく掻き回される。一緒に目も回った。ぼさぼさにされて尚、ミルの髪はさらさらと触り心地の良いリネンのようだ。こんな扱いを受けたことがなくてどう反応したらいいか分からない。瞳にもありありと表れた困惑をガウェインは苦笑で流した。本当に幼子のお守りをしている気分だ。しかも、迷子の。
「ここは西の激戦区でな。昔はどこを見ても死体が転がっていたことからついた渾名がスケルトン地方だ。実際その辺掘ればしゃれこうべも出てくるだろう。しかしこの地方は魔女との相性がよくないのか、中々魔女が居つかない。国から派遣された者はすぐに死ぬという妙な伝説まで出来てしまった。西は最も魔女が少ない地域なんだ。だからここの奴らは魔女を見たことないのが多くてな。当然お前のお母様とやらも」
つらつらと流れる言葉は、もしかして励ましてくれているのだろうか。思い至った瞬間思わず吹き出した。口元を押さえてくすくす笑うミルに、ガウェインは少し罰が悪そうな顔になる。それが弟妹に重なって、ミルは余計におかしくなってしまった。
「申し訳ご……ごめんなさい。きっとお母様のようになれますよという励まし以外が珍しくて。隊長は本当にお優しいですね。だから僕をここに居させてくださったのですか?」
「だから畏まった言い方はよしてくれ。で、聞きたかったのはそれか?」
「申し……ご、ごめんなさい、鋭意努力致します」
生真面目な顔で決意を固めたミルに、ガウェインは苦笑した。
「理由は幾つかある。たとえ半人前だろうと魔女は魔女だ。西方守護地に居ついてもらえればありがたい。他の魔女が移住するきっかけになるかもしれないからな。魔女の医術は貴重だ。後は、さっきも言ったが俺は成り上がり者でな。成り上がり者には魔女もつかんと揶揄されるのも飽きた。俺の所為で西方全域が馬鹿にされると陳情してくる馬鹿もいる。何百年も西守護地に魔女がいないのは俺の所為か畜生」
色々大変なようだ。
しかし、ミルは尊敬をこめた瞳でガウェインを見た。
「ガウェイン様は、本当に素晴らしい方なのですね」
「ん?」
今の話をしてまさか自分を褒められると思っていなかったガウェインは、素直に首を傾げる。その様子に、ミルもきょとんと首を傾げた。
「他に貶す場所がないから、ご自身ではどうしようもないご出自を持ち出されるのですから、ガウェイン様は本当に凄い方なのです!」
ガウェインは一瞬ポカンと口を開けて、次いで噴き出した。ぐしゃぐしゃと頭を掻き回されて、また首が揺れる。
「あ――、笑った! お前、可愛いなぁ。お前は、まあ、呪い持ちの半人前で、育ちも良い感じだからやっていけないかとも思ったが、中々どうして馴染んでいるし、他の奴らもお前を気に入ってる。最大の理由はトーマスだが」
「トーマスさんですか?」
予想外の名前が出てきた。きょとんとしたミルの反応にガウェインはまた苦笑する。
「あいつは人を見る目があるんだ。あいつがどうにもしっくりこない奴は、何かしら問題を起こす。そんなあいつが一目で気に入ったお前だからな、大丈夫だろうと踏んだんだ。な? 正解だったろ?」
ガウェインは、副官であり従兄弟であるトーマスの事を公私共に信頼した右腕だと公言している。ガウェインが爵位を継ぐ際に、落胤を今更家に入れるくらいなら従兄弟であるトーマスを養子に取ればいいという意見も多かった。しかしトーマスは『僕は、僕が継いでもガウェインに首を垂れるよ』と言い放った。今でも、部下として友人として従兄弟として、彼の代わりはいない。
「まあ、こう言ったら俺が自画自賛のようで少々居心地悪いがな」
ミルは、二人の関係に素直に憧れた。
「お二人は、とても素敵なご関係なのですね」
純粋な大きな瞳で見つめられたガウェインは、段々やってもいない罪を白状したくなってきた。確か十六だと聞いていたが、見た目だけでなくどうにも幼い印象がある。丸い頭がそう思わせるのか。
「そうだ。ミル、呪いを解く取っ掛かりは掴めたのか?」
何気なしに聞けば、幼い子どものような笑顔が一瞬で絶望と化した。ただでさえ細い身体が一回り萎れたように見える。
「お、おい?」
「……お母様は、怖いんです」
「ま、まあ、気持ちは分からんでもない、が、お前も十六。子どもの時分よりはマシじゃないか?」
小さくて細い手をぎゅっと握りしめ、上げられた金紫の瞳は虚ろに彷徨った。
「………………隊長に励まして頂いたので頑張ります……」
「お、おう」
音をたてずに立ち上がる様さえ品があるように見える。反対に表情は役者でもしないような悲壮感溢れるものだった。心成しか小柄な身体が更に小さく見える。ミルは悲痛な顔で部屋の四隅を回り、ぽんぽんと叩いて何かを呟いていた。
「何してるんだ?」
「防音です……」
「なんだって?」
金紫が閉じられると銀青が翻る。両手を緩く開いた周りを、室内にも関わらず風が纏う。
「北に銀雨、東に緑華、西に雪彩、南に陽音。我が身を蝕みし呪いを退け!」
円形の術式がミルの足元に大きく展開した。
ガウェインは吸い込まれるように、光で描かれた術式に見入った。他方の魔女が魔術を使う様を見た経験はある。そのどれよりも緻密で繊細な、まるで雪の結晶のように美しい術式。
一際大きな風と同時に青い光が小柄な身体を包む。一瞬、銀青が波打って彼の背を覆ったように見えた。見間違いかと瞬きした瞬間、彼の表情が一気に強張る。ミルの身体を覆っていた風が急激に形を為し、鬼でさえもっと可愛いと反論したくなる形相で大きく口を開く。
『この未熟者がぁ!』
「ひいいいいいいいいいい!」
「うわああああああああああああああ!?」
地獄の底から飛び出したような声を出したそれはあっという間に霧散したが、がたがた震える身体を反射的に抱き返し、ガウェインは珍しく状況把握に時間がかかった。
「……あれが、母親、か?」
「ごめんなさいごめんなさい申し訳ございませんお母様ぁ!」
ぶるぶる震える十六歳の少年が、憐れな子兎に見えてしまったガウェインに罪はないだろう。あれは怖い。本当に怖い。戦で瀕した命の危機は可愛いものだったのだなと、ガウェインはしみじみ頷いた。