11魔 西方守護伯付き魔女の告白
ガウェインの反応は早かった。
すぐに緊急時用に配備されている水鏡から王宮に連絡を飛ばし、自分は親衛隊を根こそぎ連れて国境へと駆けた。軍馬で駆け続けて半日と半分。日が赤く染まる頃には国境壁へと辿りついた。
ミルにとっては初めて見る景色だった。
壁と表現される要塞に埋まった、王宮に認められた魔女達が貼った完璧な結界が、同じ魔女の目で視える。幾度も貼りなおされ、度重なる進軍に耐えてきた結界。破られたのは一度きり、二十年も前の話だ。あの悪夢が再来しようとしていた。
泡めき立つ兵士達は、投擲台の横に集結した面々を見て慌てて敬礼を取った。誰もそれに応える余裕がない。食い入るように遥か地上を見ていた。
「何だ、これは」
思わず零れたのは物静かなヴァナージュの声だった。他の面々も愕然としていた。
視界に広がる限り敵兵がいる。奥で虫のように蠢いているのが人間だ。ならば手前を埋め尽くすあれは。
「魔物っ……!」
人のように二本足でありながら、人とは決定的に違う生き物の群れ。
その上空に立つ人影が全部で二十弱。この世で空を飛べる生き物は、鳥と、魔女だけだ。
魔女の血統はほとんどがウイザリテに収まっている。辿りつけなかった者は既に処刑されたはずだ。それでも残っていたのか。魔女の楽園に属さない魔女が。それらがグエッサルについたというのか。嘗て、魔女が望み、夢見、迫害の末に見つけた楽園を、魔女が壊そうというのか。
ミルレオの中に明確な感情が湧き上がった。爆発的で凶暴な、怒りだ。
ふざけるな。ここはウイザリテだ。
迫害を受けて尚、生きる事を諦めなかった魔女と、故国を捨てても魔女と共に生きようとした人間の国。吹けば飛ぶような脆い土台で、世界中から生を否定されて、それでも彼らは国を創った。建国七百年。意志継ぐ末裔として、この地に生きる民として、この国を壊させるわけにはいかない。ウイザリテの未来を、よりにもよって魔女が阻むなど、許せよう筈もない。
ミルレオは魔女だ。嘗て彼らが望んだ『生きることを許される場所』を守る責務を負って産まれてきた。
ミルレオは王族だ。民守り、国守り、歴史を紡ぐ義務を刻んで生きてきた。
ここは誇り高き魔女の国。魔女が守護するのは自身ではない。ウイザリテの全てだ。
ガウェインはすぐに立ち直った。国境壁の防衛責任者の顎鬚逞しい男を向き直る。
「王宮からの返答は」
「は! 明日には王宮付魔女が到着、三日後に王軍到着とのことであります!」
「明日……士気が低いな」
戦い慣れているはずの兵士達が青褪めている。魔物の大群など初めて見るのだから当然といえば当然だ。しかし、士気が低い戦は必ず負ける。第一軍団長ヴァナージュ、第二軍団長キルヴィック、親衛隊隊長ジョン。他の団も軍団長だけなら士気の有無に捉われない。だが、兵士は別だ。どうしたって士気の高さに左右される。
「投擲確認! 総員衝撃に備えろ──!」
見張り台の兵士が声を枯らした。
空を埋め尽くさんばかりの火矢と石が国境壁に降り注ぐ。全てを防いだ結界が揺れたタイミングを見計らい、魔女の業火が視界を覆った。咄嗟に両手で顔を守る。結界が生きている内は被害はないけれど、熱さは届く。ちりちりと焦げるような熱が頬を焼いた。
魔女がいない西方軍に、他国が魔女で仕掛けてくる滑稽さを、笑える人はいなかった。
魔女はウイザリテの専売特許だった。魔術が自分達を向いたことなどないのだ。兵士の衝撃は当然だった。ガウェインでさえ、顔に出さないだけで動揺は避けられない。軍団長達もそうだろう。
食い入るようにグエッサルの魔女を見つめているミルを、ガウェインはちらりと見下ろした。
駄目だ。
一人魔女が付いたからと言っても兵の士気は上がらない。西方唯一の魔女は、今でさえなければ西方の希望と成っただろう。しかし、この状況下では一人の新米魔女が現れても兵の救いにはならない。
ミルの頭上に菱形の術式が現れた。敵の攻撃かと身構えた周囲を手で制す。
「母の、水鏡です」
繋がったのは声だけだ。緊急だからか、こちらへの配慮か。どちらにしても人目を憚らず強制的に繋げてきたのは、覚悟を決めろということだ。
『ミル、こちらでダグラス・リューバーを捕えたわ。偽姫様の外見に詳しすぎるとの報告ありがとう。おかげで狙いが絞りやすかったわ』
ダグラス・リューバー大臣。現宰相引退を機に幾人かの候補が選抜されたと聞く。その中の一人だ。新宰相はミルも知っている男である。勉強がしたいと、貴族の嫡男でありながら跡目を弟に譲り、十年以上他国を回っていた。彼が帰ってきたのは一年前。遊学から帰ってすぐに王宮に顔を出した男は激怒した。一体どうして王家の威信がこれほどまでに軽んじられている、と。女官がミルの入浴剤を捨てた現場を一緒に見てしまったのだ。宥めるのが大変だった。
元々男はひどく優秀で、子どもの頃から不気味がられるほど頭が良かった。二十代の若手でありながら、帰国後あっという間に宰相の座に納まってしまった。前任者に甚く気にいられたとか、前任者を痛く脅したとか噂は耐えなかったが。
『リューバーが白状しました。グエッサルに情報を提供し、内で混乱を起こした間に秘蔵の魔女で魔物の軍をぶつけるつもりだったとか。あなたが早々に偽物を見破ってしまったから、作戦を変えたのでしょうね。偽者の捜索で結局目が内を向いた隙にと』
西は魔女がいない。しかし豪族が幅を利かせ、隊群の力任せの進軍もハルバート将軍に打ち破られている。敵からすれば魔女を相手取るより厄介と判断され、長らく大きな戦をしていなかった。『人外の化け物』に負けるのと、同じ人間に敗れるのでは大きな違いがある。西への進軍が敗戦に終わって彼らに齎される影響は、兵の士気では留まらず、国民自体にも及ぶだろう。
「お母様、呪い解けました。隊長の、ガウェイン様のおかげです」
『そう』
「ありがとうございます、お母様。私に、私の世界をくださったのですね」
『与えて、そして奪うのだけれど』
ミルは見えないと分かっていても首を振った。
「いいえ。いいえ、お母様」
世界なら最初から貰っていた。ミルレオの名を貰った時から、産まれた時から。
それに気づかず他者の世界に縋ったのは自分だ。仮令ミルを失っても、ミルレオがいるならミルは消えない。今はそれでいいのだ。母がくれて、ガウェインが気づかせてくれた世界があるなら、ミルレオは。私は。
「お母様から頂いた服が破けてしまうかもしれません。ごめんなさい」
『そんな物幾らでも縫ってあげるわよ。……そうね、一年あれば……かろうじて』
いえ二年? と小さく聞こえてきた気がする。きっと気のせいだろう。
レオリカはふっと笑った。
『大丈夫よ。あなたにはちゃんと服があるでしょう?』
何を指しての言葉かすぐに分かり、ミルレオも微笑んだ。深い黒の軍服を折り込んで折り込んで、分かれた上着の裾が風に靡く。指には失うかもしれない世界の証。黒い指輪はガウェインのようで、とっても好きだった。
『ミル、初陣ね。あなたにする助言なんて、実はもうないの。言いたかっただけ。いってらっしゃいって』
怪我をしないで、死んでは駄目よ。きっと言いたかったのはそんな言葉。けれど母は飲み込んだ。
これは女王との謁見ではない。なら、ミルが言うべきことは一つだけだ。
「いってきます」
私は私の世界を連れて、世界の果てで戦います。
兵はいつでも出陣する準備が整っている。
いつまでも結界へ攻撃をさせるわけにはいかない。受ければ受けるほど消耗するのは人も術も同じだ。第一軍団から第十三軍団まで乱れなく整列したまま守護伯の命令を待っている。
なのにいつまで経っても守護伯は姿を現さない。軍団長であり側近のヴァナージュ、キルヴィックも事情を聞かされていない。腹心であるトーマスさえもだ。
猛攻を受ける爆音が響く中、兵士達は命令を待った。偶に衝撃で破片が落ちてくるのを不安げに見上げつつも誰も文句は言わない。彼らは守護伯に確かな信頼を持っていた。確実な命令、癒着なき人事、誇りある采配、傲慢なき言動。共に泥を跳ねながら戦場を駆ける若当主を、魔女がいない軍人だけの西方守護軍が嫌うはずがなかった。
不安げに視線を揺らしながらも、彼らはじっと待った。
守護伯は小柄な少年を連れて近くの部屋に篭っていた。物置に使われている部屋は小さく、雑多に詰まれたどれにも座ろうとせず、ガウェインは引っ張り込んだミルをじっと見ていた。
「……ミル・ヴァリテ。お前は誰だ?」
ミルの母からという水鏡の会話。大臣を捕えたなど重要な情報を事も無げに言ってのける『女』。
女性高官は少なく、そのどれも年嵩の者が多いはずだ。なのにミルの母の声は若い。どう聞いても五十、六十代には聞こえない。そしてミルは散々母親に似ていると褒められている。銀青に金紫の若く美しい、母親。条件に当て嵌まる者は極端に少ない。
ミルはぐっと息を飲み、深く吐いた。いま自分が守らなければならないものは何か。保身ではないはずだ。優先事項を履き違えるなと自分に言い聞かせる。
無言で変化を解く。頭の天辺から引っ張られるように、重心は中心に、顎を僅かに引く。自らの立ち位置を意識し続けろ。教育係に耳がタコになるほど言われた姿勢。
光沢のある濃紺のドレスの裾を持ち、ミルレオは深く頭を下げた。
「ミルレオ・リーテ・ウイザリテでございます」
王女として名乗るのにこの礼はおかしい。守護伯はあくまで伯爵だ。伯爵に頭を下げる王女は相応しくない。でも。
無言で膝をつこうとしたガウェインを制す。
「でも、ミルなんです。ミルもミルレオも私です、隊長」
先に膝をついたのはミルレオだった。
「ですから、上官である貴方に名を偽った事、私は赦しを請わねばなりません。隊長、如何様にも罰を受けます。ですがどうか、戦の後に」
深く下げられた頭から揺れるのは長い銀青。俯いて見えない顔は、『ミル』の弟が描いたという『ミルレオ王女』。偽王女が分かったのは当たり前だ。当人がここにいるのに『姫様』が現れて酷く驚いただろう。
ガウェインは何かを言おうとした。けれど何を言いたいのか自分でも分からなかった。戦場で迷いは命取り以外の何者でも無い。迷いを蹴飛ばして生き延びてきたガウェインを酷く惑わす当人は、じっと沙汰を待っている。風も無いのに髪が光を弾いて揺れていると気づく。華奢な肩が小刻みに揺れていた。
これは『ミル』だ。かちりと何かが嵌るように擦り合わせが完了した途端、急に力が抜けた。
「顔を上げてくれ。話も出来ん」
『いつもの』口調にミルレオは弾かれたように顔を上げた。少し困ったような苦笑は、さっきまでの強張った他人行儀の目ではない。思わず泣きかけた。
ガウェインは口を開けて、困ったように噤んだ。
「どう呼べばいいんだ……」
「あ、あのお好きなようにお呼び頂ければ。ミルでもミルレオでもチビでもカモでも!」
「……後半は明らかに西方での悪影響だよなぁあああああ!」
両手で顔を覆って叫んだガウェインに、ミルレオはびくっと一歩逃げた。ガウェインは後ろにあった木箱に無造作に座った。
「勘弁してくれ……俺は大恩ある姫様に不埒な真似した狼藉者か」
「え、不埒……あ……」
ぼんっと音を出してミルレオが茹で上がった。呼吸が交じり合う感触を思い出して、両手をわたわた振る。うーだの、あーだの、みーだの唸り、真っ赤に潤んだ顔でいきなりガウェインに詰め寄った。激しい落ち込みで反応が遅れた顔を両手で掴み、いきなり唇を重ねた。
唖然と動きを止めたガウェインを至近距離で見つめ、死にそうなほど赤い顔でミルレオは叫んだ。
「わ、私が、の、の、望んでしたので! 狼藉者ではないです!」
こいつ死ぬんじゃないかと思うほど赤い顔に、ガウェインは逆に落ち着いてきてしまった。どんな状況でも自分より凄い人を見ると落ち着くのは変わらない。思わず吹き出す。
「分かった。分かったから、あまり可愛いことをしてくれるな。新生物ミル・ヴァリテ」
「産まれた時から人類ですが!?」
「両性類か…………」
「一応女に生を受けて十六年です!」
確かに自分は魔女だが、人類枠から外されるのはあんまりだ。女枠から外されるのも悲しい。キルヴィックの前でだけ外してください。
「わっ!?」
いきなり腰を引かれてバランスを崩した。座ったガウェインの足を跨るように倒れこんでしまい、慌てて離れようとしたら更に密着した。何故!? 世の中って不思議がいっぱい! 隊長って不思議がいっぱい!
「た、隊長?」
肩口に埋まった頭で、髪と呼吸が当たってくすぐったい、異常に恥ずかしい。恐る恐る呼ぶと余計に力が強まった。
「……参った。姫様に拝謁叶えば何を言おうかとずっと考えていたのにな……望まれるままに何でも献上したいと思ってたのに、見せたのはジョン達の筋肉……」
「人生は何事も経験だと思わせて頂きます……」
「その経験はいらんだろう」
もっともだ。
「王女でなくてもいらんだろう」
重ね重ねもっともだ。
「…………俺は姫様を、お前を……戦の道具にするんだな」
肺が空になるくらい深く深く吐かれた呼吸が肩から身体に染み渡る。恥ずかしいのにもっと傍にいきたくなった。既に隙間なんてないくらい密着しているのに。ミルは、赤くなりすぎてだろうか、熱に浮かされたような心地でそっとガウェインの肩に頬を寄せた。
母は勿論、病弱で薄い身体をした父とも違う、軍人の中では群を抜いて細身に見えるが筋肉が張った硬い身体に抱きしめられているのに、不思議と痛くはない。温かくて、とても安心する。このまま眠ってしまいたいくらいだ。
「……いま必要なのはミルじゃありません。風評や事実がどうであれ、王族が戦場にいることですよね。隊長、ミルレオでもお傍で戦わせてください。王女としても、ミルとしても、私は戦場に出ます。私がそうしたいんです」
自分に自信なんてパン屑ほどもない。それでも王女として受けた厳しい教育は身を結んでいるのだろう。国を守る。仮令この身が滅びても、ウイザリテの魔女は屈しない。
日常の何気ない物事にはびくびくするのに、こういう時のミルは揺るがないとガウェインは知っていた。一つ嘆息する。
「お前は、小動物の癖に肝が据わってるからな」
「……人間です」
「分かってる分かってる。人間の、可愛い女の子だもんな?」
いつの間にかこっちを向いていたガウェインの吐息が直接耳を擽り、ミルは悲鳴をあげて飛び起きた。それを許さず、腰に手を回したまま片手が頬に触れる。鼻先が触れるほど至近距離で向き合い、どうしたらいいか分からず段々潤んできた瞳に、ガウェインは降参を掲げた。
「本当に参った……手離せんぞ。おい、ミル、その目をやめてくれ」
「ど、どの目ですか」
「それだ」
困りきって逃げ場を探す金紫が次の瞬間大きく見開かれた。重なった唇から吐息が漏れる。反射的に逃げようと下がる頭は大きな掌に塞がれている。硬直していると唇は一度止まった。唇が触れたままガウェインが喋る。
「嫌か?」
ミルは震えと間違いそうなほど小さく首を振った。嫌ではない。全く。しかし猛烈に恥ずかしい。
「顎様に触られたときはとにかく離れてほしかったけれど、隊長は嫌じゃありません」
落ち着こうと自分の鼓動を数え、逆に呼吸困難を起こしそうになっている間に、何故かガウェインの目が座った。
「……ほ―。で、どこを触られた?」
「え?」
急に低くなった声音に慌てて距離を取る。取ったといっても、腰を掴む手は全然緩まないので、上半身を反っただけに終わった。半眼になった目つきはいつも以上に悪い。で、はどこに掛っているのだろう。勉強不足だから分からない。
「……待て、どこまでされた?」
「どこまで、ですか? あの、最初はどこでしょう」
きょとんと首を傾げる。分からないことは分からないままでおいてはいけない。王女教育は厳しいのだ。
「……俺が、教えるのか?」
どこか困った様子で顔を覆ったガウェインは、意を決したように耳に唇を寄せ、ぽそりと呟いた。瞬間、白い首筋は朱色の絵の具も真っ青に茹であがった。
「あの時は男の子でしたから!」
「関係あるか」
「ないんですか!?」
サラの元恋人といい、顎様といい、世の中って知らないことでいっぱいだ。
真顔で詰めてくる距離に焦る。
「あ、あの隊長! そろそろ行かないと!」
さっきから断続的に聞こえてくる攻撃の音が激しさを増している。誰も呼びに来ないのはガウェインへの信頼の証だ。応えるのが上に立つ者の務めだ。……舌打ちが聞こえた。
「終わったら覚悟しとけよ」
「こ、怖いこと言わないでください……隊長ぉ……」
「だからそういう顔をするな。お前、可愛い顔して魔性の女だな」
「ま、魔女ですから!」
意味を分かっていない真面目な返しに、ガウェインは堪らず吹きだした。屈んで素早く口付ける。
「我らが西方は、守護四方唯一、王の血とは縁遠い守護地だ」
何が起こったか今更理解したミルレオは羞恥に身悶えた。
「女王陛下は辺境の軍人と縁続きになる気はあるだろうか」
「え…………?」
いつの間にか黒い指輪が抜き取られていた。恭しく跪き、左手に口付けられる。まるで小説の主人公になった気分だが、これは現実だ。王子様は金色でなく黒色で、優しい目つきはちょっと鋭くて、指輪はダイヤでなくて黒だ。なのにミルレオは『お姫様』だった。
「王女と知った今でも、参った、お前が可愛くてならん」
「隊長……これ」
「色気も浪漫もなくて悪いな」
黒い指輪は左手の薬指に嵌めなおされた。その意味が分からないほど子どもではない。ミルレオは両手で口元を覆った。
「あ、あの、隊長!」
決死の覚悟で大きな両手を握りしめる。
「好きです!」
「……だからそういう顔をするなと」
再度振ってきた口付けは、今度はちょっと長かった。