幽霊少女と高跳び少年
校庭に一人、私はいる。
昼も夜も、ずっとここで過ごすようになってからどれくらい経つのだろうか。
私は眺めている。
ふわふわと宙に浮かびながら。
それほど高く浮かべるわけではない。
この校庭から出られるわけでもない。
勿論、この姿が誰かに見られるわけでもない。
幽霊とは不思議なもので、一体自分が何に縛られているのかがわからないのだ。
あるのは、ただそこに縛られて移動を制限されているという事実だけ。
生前の事も覚えていない。
どうして命を落とし、何故に幽霊となったのか。
けれど、今の私は確かにここにいて、確かに何かを探している。
その探し物が見つからない事は、特別苦にはならない。
ここから遠くには行けないだけで、身体の自由が効かないわけではないし、私を蝕んでいく何かがあるわけでもないのだから。
唯一不満があるとすれば、日々繰り返される退屈な日常。
校庭という狭い世界の中で起きる事は限りがあって、私にとってそれは常に退屈な事だった。
でも、もうそろそろ成仏しないと…と、思いつつあったその矢先。
このところ、少し変わった事が起きている。
ここ数日、放課後になると必ず一人の少年が現れる。
外見年齢という意味でも、ここが学校の敷地内という意味でも、きっと私と同い年くらい。
でも、私より幾分も背丈の低いその少年は、今日も一人、走り高跳びの練習をしていた。
使われなくなった古い走り高跳びの道具。
他の部活動の邪魔にならないよう、彼は校庭の片隅で練習に励んでいた。
その様子を私はこのところ、ずっと眺めていた。
それは特別変わった事とはいえないかもしれないし、退屈な事には違いない。
だけど、たった一人でこんな事を試みる者は今までいなかった。
それだけに、私の中では「少し変わった事」として、ここ数日の興味の対象となっている。
幽霊だから視える事はない。
だから私は安心して彼を眺める事が出来た。
少年は黙々と練習に励んでいた。
地面と平行に設置された棒の高さは1メートル50センチ。
「彼が跳べたら成仏しよう」
最後のつもりで私はそう決めた。
跳ぼうとしている1メートル50センチという高さは、彼自身の背丈に迫るほどに高い。
正直に言って、跳べるはずがない。
少年はまた走り始めた。
ほら、やっぱり。
結果が見えてしまった私は、跳ぶ前に目を瞑った。
ガシャン
身体が棒にぶつかる音。
地面に棒が落ちる音。
目を閉じていてもわかるのだ。
苦しそうな彼の息遣いが、悔しそうに喉を鳴らすその音が、私の耳に飛び込んでくる。
何故?
これを跳んだからといって何になるのか。
私にはわからないけれど、その姿に私は目を奪われた。
失敗した。失敗して失敗して失敗した。
それでも彼の眼差しは変わらない。
彼のその目はただ成功する事だけを見据えて、再び駆け出すのだ。
何度も。何度も。
来る日も来る日も、私は彼が跳ぼうとする様を眺め続けた。
少しずつ惹かれていた。そのひたむきな姿に。
このままずっと観ていたい。
不謹慎だけど、そう思ってしまった。
それはつまり、彼がこのままずっとこの高さを超えられないという事なのに。
しかし、ついにその日はやってきた。
少しだけ力強くなった助走。
思い切った踏み込みからのジャンプ。
明らかに最初とは違う。
私より小さな彼の身体は鮮やかに宙を舞い、そのまま横たわる棒を飛び越えた。
背中を掠めた棒に、私は祈ってしまった。
でも、微かに揺れたその棒が地面に落ちる事はなかった。
ついに彼は跳び越えたのだ。
あぁ、終わったんだな……
「成仏しなきゃ……」
いつの間にか未練を感じていた。
退屈で仕方がなかった日々のはずなのに。
気付けば今ここで、こうして彼を観るこの時間が楽しみになっていた。
でも……
決めた事なのだ。
「最期に素敵な物を見れた。これから……」
そう思ったその時、彼はまたも信じられない行動に出た。
1メートル55センチ。
彼は棒を横たえる高さを5センチだけ引き上げたのだ。
何故?
理解できなかった。
あれほど苦労して跳び越えた高さ、歯を食いしばりながらようやく跳び越えた高さだったはずなのに。
いざ、跳ぶ事が出来たら、すぐに次の高さを見据えるなんて。
そして。
彼はきっと跳べるのだろう。
いくら時間がかかっても、何度失敗しても、いつか彼はきっと跳ぶ。
そうして彼は一歩一歩、未来を切り拓いていくのだ。
高さにしてみれば、たった5センチかもしれない。
けど、その5センチは確かに、彼の努力、彼の成長の証で。
それは私には出来ない事、今の私には叶わない事だった。
幽霊は成長しない。
今出来る事が全てで、新しく何かが出来るようになる事はない。
幽霊の未来とは、成仏して消えるか、未来永劫そのままか、そのどちらかなのだから。
だから羨ましかったのだ。
少しだけ妬いてしまったのだ。
そして、見惚れてしまったのだ。
彼はまた跳び続けた。
私の好きな時間がまた始まった。
夢のような時間はもう少しだけ続いた。
1メートル55センチ、1メートル60センチ、1メートル65センチ。
彼は1つ1つ跳び越えていった。
応援する気持ちと、終わりを惜しむ気持ち。
2つの気持ちを抱えながら、私は彼が跳ぶ様を見つめ続けた。
そうして、1メートル70センチ。
彼が跳んだ高さが。私の背丈を少し追い越した時、彼と私の目が合った。
そういえば……
今まで目を合わせた事はなかったな。
同い年のやんちゃな男の子達と比べれば、少しおとなしそうな顔立ち。
ニコリと微笑んだ彼の笑顔が眩しかった。
思わず見惚れてしまっているうちに、彼は気恥ずかしそうに目線を落とした。
「僕も……」
それは突然の事だった。
顔を赤らめた彼は、俯いたまま口にした。
「君に良いところを見せたかったんだ」
そうなんだ……
私に……
……!?
視えていたんだ。私の事を。
えーと……あ……あの……
慌てる気持ちを無理やりに押さえつける。
髪は乱れてない? 変なところはないかな?
まさか視えていたなんて、ちっとも思わなかった。
彼が私を見ていたなんて考えもせず、私は彼の事を見つめ続けてしまっていたのだ。
来る日も来る日も、私は彼の事を見ていた。
視えていないと安心しきっていたけれど、その時の私は一体どんな顔をしていたのだろう。
駄目だ。私の顔は今、きっと真っ赤で大変な事になっている。
「ごめんね、君に黙ってて」
照れくさそうに頭をかきながら、彼は言った。
「君の存在に気付いてからはさ」
「君の背丈を跳び越えられたら君に話しかけようって、そう決めてたんだ」
どうしてだろう?
素朴な疑問が頭に浮かんだ。
「何の関係もないのに。馬鹿だよね、僕」
彼は本当に恥ずかしそうだった。
全然そんな事はないのに。
「君、幽霊だろう?」
恐れる事もなく、馬鹿にするのでもなく、静かに彼は口にした。
「君は時々、凄く悲しい顔をしてた」
気付いてた?と、まるで促すような彼の優しい眼差しが私を包んだ。
「君はきっと、君自身に縛られてる」
彼の言葉が心に刺さる。
それは心の何処かで感じていた事だったから。
「だから、僕には君を縛る君自身よりも高く跳べる力があるんだって、納得できる結果が欲しかったんだ」
「そんな顔をする君を助けたいと思ったから」
あぁ……
駄目だな、これは。
成仏は出来そうにない。
私は見つけてしまった。
ずっと見失っていた探し物を見つけてしまった。
私はまだ生きたかったのだ。
成長したかったのだ。
たくさん失敗しても、泣いても立ち止まっても、諦める事だけはしないで。
今、目の前にいる彼のように、少しずつでも何かを成し遂げていきたかった。
もっとたくさんの世界を見たかった。
そして今、新しい願い事が出来てしまった。
願わくば、この人と。
この人に色々な場所に連れて行ってほしい。
この人と日々を積み重ねたい。
でもそれは、この校庭に縛られる私には叶わない夢。
思わず涙が溢れてきた。
ぽろぽろと零れる涙が、私の足下を濡らしていった。
彼はそれをどう受け止めたのか。
「僕は……」
「どうすれば君を助けられるのかな?」
少し困ったように彼が問いかけてきた。
実は1つだけ方法が無い事はない。
そもそも幽霊とは、何かしらに憑き縛られる存在。
それならば、憑き縛られる「モノ」を変えればいい。
要はこの「場所」に憑き縛られるか、それとも「誰か」に憑き縛られるか、その違いだ。
だから……
――あなたに憑依させてほしい
……なんて言えない。
だって、彼がそれを拒むはずがないと。
その真剣な眼差しを見て、私は確信出来てしまったから。
だからこそ、そんな不躾で自分勝手なお願いをする事は、私には出来なかった。
そもそも、憑依するという事は、その間の全ての時間を彼と共にするという事。
そんなのいい迷惑に決まっているのだから。
ただ、彼の優しさだけは身に染みてわかってしまったから。
何も言えずに、私は小さくうずくまってぎゅっと目を閉じた。
「それなら、代わりのお願いがあるんだけど」
「いいかな?」
心地よく降りかかってきたその言葉。
「僕、君の名前を知りたいな」
その声色はとても暖かかった。
「これからもよろしくね」
初めまして。お読みいただきありがとうございます。いぐすと申します。
かの有名な「小説家になろう」様への初投稿、緊張しつつも何とか書き上げる事が出来ました。
「幽霊の少女と走り高跳びをする少年」
そんなお題を耳にした結果、いつの間にかこんなお話が出来ました。
自分はどうやら、お題を与えられた方が筆が進むタイプのようです。
この後、二人はどうなっていくのか。
そこは皆さまのご想像にお任せしたいと思います。
それでは改めて、拙作をお読みいただきありがとうございました。