婚約者たちの冬~エレノアの場合
王都の冬は長い。
毎日のように降り、積もっていく雪を見ながら、人々は温かい家の中で語らって過ごす。この国の社交の季節が夏場なのは、多分にこの雪の影響を受けていると思われる。主な交通手段が馬車であるこの国で、雪深い冬場は、時間通りに予定の場所へたどり着くのも大仕事になるのだ。それが自然と人の腰を重くし、冬といえば貴族の中では、家族と暖炉のそばで語らう季節となっているのだ。
エレノアとハロルドもその例に漏れず、休日には、ガーラント家やイングラム家の屋敷でのんびりすごすことが多かった。
もう一つの理由としては、ハロルドのもはや全く人目を気にせず垂れ流される色を含んだ視線を、エレノアが気にしたせいでもある。
「エレノア」
名前を呼ぶたびにとろけるような笑みを浮かべて見つめられるものだから、エレノアは最近では王宮でハロルドに出会うたび、人に見られていやしないかと戦々恐々としている。
また、
「ハル」
と最近使い始めた愛称を呼べば、それだけで彼は何かを起動させてしまうようで、一度などあまりに執拗な口づけでエレノアは気絶しかけた。それ以来人前で愛称を呼ぶのは控えているのだが、うっかり外でそんなことにでもなったらと考えるだけで恐ろしい。
まだ『婚約』なので、本来ならばハロルドは夜になれば帰らなければならない。そこはもともとこの家の息子であったこともあって彼はしばしば自室に泊まっていくのだが、結婚まで決して手を出さないことをウィリアムから厳命されているし、部屋に張り付いている侍女のアンは、抑止力として彼に見える立ち位置を選んでいる。
エレノア自身はふれあうことが嫌なわけではないが、ただでさえ彼の言動にいちいち顔を真っ赤にしたり心臓を高鳴らせたりして、それを周囲に生温かい目で見守られているという状況である。
これ以上気まずい場面を妹のシンシアに見られるわけにはいかない。シンシアはうふふとうれしそうに笑っているのだが、姉の威厳を重視するエレノアは、アンの存在や父の厳命をありがたく盾にすることにした。
もちろん、エレノアも気にしてはいた。
もっと一緒にいたいという彼の思いを、自分が仕事を続けていることによって少なからず我慢させていることを。
結婚に伴って仕事を減らすにしても準備が必要で、それまでこの婚約期間という名の長い『待て』が続くことを。
ハロルドの涼しげなはずの瞳から伝わってくる熱は、徐々に大きく、温度を増してきている。
エレノアもそのことには気付いていたのだ。
休日だったこの日、エレノアはガーラントの屋敷でハロルドと共にお茶の時間を楽しんでいた。
茶葉は後味が爽やかなハロルド好みのもので、菓子はハロルドがディランからもらったと言って持ってきたチョコレートだ。
蓋を開ければ、ふわりと鼻をくすぐる香りとともに、様々なしつらえのチョコレートが宝石のように並んでいるのが目に入ってくる。果実の砂糖漬がのったもの、花をかたどったもの、ナッツがちりばめられたもの、どれもがうっとりするほど美味しそうだ。
大好物を前にして、エレノアは子どものようにわくわくしてしまう。
「ハロルドが頂いたものなのだから、先に選んで」
いつもハロルドはエレノアに先に選ばせてくれる。それが気になっていた彼女は、今日こそはと言った。
彼は少しエレノアの顔を見つめて、その決意のかたそうな様子を見て取ると、素直に頷いた。
「じゃあ、これ」
彼が手に取ったのは、エレノアも大好きなホワイトチョコレートのかかった一粒だった。エレノアはほんの少し羨みつつ、いつもハロルドは自分に譲ってくれていたのだなと申し訳なく思った。
ところが、ハロルドは指先で摘まんだそれを、すました顔でエレノアの皿に載せた。
驚いて彼の顔を見れば、にっこりと笑う。
「好きでしょ」
見事に一番食べたいものを当てられて危うく頷きそうになりつつも、エレノアは気付いて言い返した。
「だから、先に選んでと言っているの」
「選んだよ。それをエレノアが美味しそうに食べるところが見たい」
聞きようによっては若干変態じみた発言だったが、エレノアはそれよりも、彼が譲ってくれたという点にこだわっていた。
「じゃあ、じゃあせめて半分ずつ食べましょう!」
「その小さいのを?」
ハロルドがからかうように言ったので、エレノアはむきになってしまった。
「そうよ、アン、ナイフを持ってきて」
仕方のない主にはいと答えてアンが部屋を出ると、ハロルドは確認した。
「本当に半分ずつにするの?」
その顔は妙に淡々とすましてして見え、何かを隠しているときに似ていた。しかしすでに頑なになっていたエレノアは気付かなかった。
「そうよ」
エレノアが言い張ると、彼は分かったと頷いた。
そして先ほどの菓子をひょいと摘まむと、エレノアに差し出した。
「お先にどうぞ」
それを見た途端、ぶわりと顔に血が集まる。
頭をオレンジの記憶がよぎり、エレノアは何か間違えた気がしてきた。しかし、半分ずつなんでしょ、と微笑まれると、売り言葉に買い言葉でまた、
「そうよ」
と答えてしまう。
さらに、
「早く。溶けちゃうよ」
と急かされたので、エレノアは思い切って目を閉じてかぶり付いた。
しまったと気付いたのはその後で、口内にチョコレートではありえない弾力を感じたエレノアは、目を見開いた。
見えないままかじり付いたせいで、ハロルドの指を噛んでしまったのだ。
その上、半分と言いながらチョコレートはほとんどがエレノアの口に入ってしまっていた。
「ごめんなひゃい!」
慌てて口を抑えて謝ったエレノアにハロルドは怒ることなく、むしろ楽しそうに笑った。
「美味しい?」
聞かれても味など分かるわけがない。
ただただ口を抑えるエレノアに、ハロルドは彼女が噛んだ指からそのまま残りのチョコレートを舐めとり、その光景に真っ赤になるのをゆっくりと見つめたあと、あろうことか。
「半分には足りないな」
そう言ってエレノアの唇に吸い付いたのだ。
柔らかな唇の感触、それに混じってかすかに届くチョコレートの香り。
先程は分からなかったはずのその味が、彼を通して過敏になったエレノアの五感を刺激した。
甘さと、かすかな苦みと、豊かな香りと、それらを運んできたハロルドの体温と。
うっかりぼうっとしかけたエレノアは、唇を押し開けようとする彼の動きにはっとした。
「!・・・ハロルド!」
慌てて胸を押すと、彼はゆっくりと味わうようにもう一度口づけたのち、ようやく離れた。
「美味しかった」
その満足げな微笑みといったら。
彼の熱のこもった目を見れば、何が美味しかったのかなど、聞くまでもない。
けれど、エレノアは必死でチョコレートの話だと思い込もうとした。
廊下を足音が近づいてくる。アンが戻ってくるのだ。
こんな顔を見れば、付き合いの長い彼女には全て見透かされてしまうだろう。
熱くほてった頬を、上がった息を、どうすればいいのか。
エレノアは思わず両手で顔を覆った。
事態を引き起こした張本人であるハロルドは、焦る彼女の耳元に顔を寄せ、こうのたまった。
「もう半分こ、する?」
この後、案の定アンはエレノアの顔を見て事態を察した。
叱られたハロルドは、
「早く食べたかっただけ」
と肩をすくめたのだが、その食欲が真に向かう先を知っている優秀な侍女は、それ以来お茶の時間には常にテーブルナイフを用意するようになったとか。
後にこれはガーラント家の使用人に伝わる謎の伝統となるのだが、それはまた別の話。
エレノアに言わせれば、勝手に欲求を解消するハロルドを気にするだけ損だったとなり、ハロルドにとっては、愛する少女はチョコレートよりも甘かったという話になる、そんな冬の出来事だった。
ディランがハロルドにチョコレートを渡したのは、おめでとうと「この前は邪魔してごめん」の意味です。




