告白~エレノアの場合
「まだ意識は戻りませんが、昨日よりも脈がしっかりしています。精神に損傷がなければ、そろそろ目覚めてもよいころでしょう」
「分かりました。どうもありがとうございます」
ファレルと話を終えて戻ったエレノアは、王宮付きの医師と入れ代わりに部屋に入った。
アイリーンらの計らいで病室はハロルドの1人部屋だ。漆黒の髪が白い布団に埋もれている。
「はあ・・・」
エレノアの口からため息が漏れた。
それは、聞く人のない室内でやけに大きく響いた。
エレノアは、魔法で壁際のランプに火を灯すと、眠るハロルドにそっと近づいた。
とても大事な話をしたのだから当然だが、ファレルとの先程の会話は、エレノアの神経を消耗させていた。疲れた神経は過敏になり、さらに口に出したことで自分の気持ちがはっきりしていた。
自分は、ハロルドがたとえ誰を思っていようと、彼のことが好きだ。
早く目を開けてほしい。
でも、どんな顔をして会えばよいのか分からない。
何しろ、エレノアはハロルドに口づけをしてしまったのだ。
昨夜王宮に戻り、この部屋でハロルドの穏やかな寝顔を見たあと、エレノアは急にそのことを思い出して1人悶絶した。
そばにいたい、けれど落ち着かない。
そんな感情から、忙しい後始末を手伝うべきではないかと一瞬思ったのだが、そんなこともアイリーンには見透かされていた。
夜の内にエレノアの無事の確認にやってきたアイリーンの使いはこう言った。
「アイリーン様からの伝言です。『命令を覚えているわね?ちなみにしばらく休養がてら休んでいいわ』とのことですわ」
退路は断たれていた。優秀な友人兼主は、エレノアの逃げ癖までしっかりお見通しだった。
エレノアはそんなわけで、現在職務上何の憂いも気兼ねもなくこうしてハロルドに付き添っている。
ハロルドの養父でもあるイングラムの祖父は、深夜職務の合間を縫って息子の顔を見に来たが、魔法省の重鎮である彼は後始末に忙しく、慌ただしく行ってしまった。領地にいる両親やイングラムの祖母が来るのは、早くても2日後だろう。王宮なので、まだ学生である妹のシンシアはエレノアという付き添いがいる今、ここへは入れない。
部屋には眠っているハロルドの他にはエレノアだけだ。
それでエレノアはずっと、枕元の椅子に腰掛けてハロルドを見つめては、赤面したり青ざめたりを繰り返しているのだ。
「ああ・・・」
知らずうめき声が漏れる。
こんなとき、どうすればいいのだろう。
頼りの小説は手元にない・・・そもそもあの本の主人公ユリアは悪役シーラに首を絞められ、涙を流しているところを恋人のフリアンに救われたのであって、エレノアのように逃げ隠れしなくてはいけない事情がどこにもなかった。どうも自分の場合は、そういう可愛らしい流れにならない。エレノアはため息をついた。
拐かされたのは、職業人として完全に失態だったし、その後助けに来てくれたハロルドに、救命のためとはいえ口づけをしてしまった。自分から、である。
思い返すとエレノアの頬も耳も、焼けるように熱くなる。
エレノアは、思わず指先で自分の唇をなぞった。
初めての口づけだった。
エレノアも人並みに、初めての口づけには漠然とした憧れを抱いていた。思いが通った暁には、恋人とそのようにして愛をかわすのだと思っていた。
それなのに。
現実は、甘くない。せめて相手からのものであれば、きっと愛の証として記憶できただろうに。自分から襲いかかるだなんて、そんな破廉恥なこと、と思うと泣きたくなる。
ハロルドが嫌だったと言ったら、どうしよう。考えると本当に涙が浮かんでくる。
「どうしよう・・・」
眠るハロルドの顔は青白く、微動だにしない様子は本当に生きているのか不安になる。
断罪を待つような緊張感と不安感。
ハロルドが目覚めないのではないかという恐怖。
そこに神経の疲労が加わり、不意にエレノアは恐慌に陥った。
ハロルドは起きたら何というのだろう。
ハロルドはちゃんと起きるのだろうか。
どうしよう。
お前なんて嫌だといわれたら。
ハロルドはいつ目を覚ますのか。
どうしよう。
もし目を覚まさなかったら。
「ハロルド、ハロルド・・・!」
どうしようどうしようどうしよう。
「ねえ、ハロルド、お願い、起きて、ハロルド」
エレノアは寝台の傍らに座りこみ、掛布にすがりつきながら顔をうずめた。
布団は清潔だがつんと消毒液の香りがして、それが病室であることを思い知らせるようで涙が込み上げてくる。
「ハロルド・・・!」
「エレノア、泣いているの」
耳に届いた声にエレノアは顔を上げ固まった。
ハロルドが目を開けていた。
「何かあったの」
かすれた声で聞く彼を、エレノアは涙に濡れた目を見開いたまま、ぼうっと見つめた。
その間に彼はゆっくりと身体を起こした。エレノアは慌ててそれに手をかしたが、すぐに間近に見たハロルドの瞳に驚いてあたふたと身を離した。ハロルドがどうやら無事に目覚めたことにほっとすると、再び自分がしてしまったことが思い出されてたまらなく恥ずかしくなったのだ。
彼は先程からじっとエレノアを見つめているが、それはあの人命救助を覚えていて、エレノアがどういう気だったのか読み取ろうとしているからなのか。それとも、覚えていないがエレノアの態度を不審がっているだけなのか。
いぶかしげに見るその目から逃れるように、カップに水を入れて差しだした。
彼はそれを素直に受け取ると飲み干した。
エレノアは彼の目が逸れている間に、慎重にその様子を観察し、問いかけた。
「身体は大丈夫?痛いところはない?」
「特にないよ」
「頭は?痛いとか、記憶がぼやけているとか・・・」
「いや、問題ないと思う」
どこもおかしくないと確認できると、彼女はほっとして笑った。
「お医者様を呼んでくるわ」
そう言って歩き出そうとした彼女の手を、ハロルドがつなぎ止めた。
そして、じっとエレノアの目を見つめて、こう言った。
「エレノアこそ、大丈夫?さっきも泣いていたでしょ」
今の今まで自分が意識なく横たわっていたくせに、目覚めたと思ったら人の心配だ。
本当に、この人は。
ハロルドは、どこまで、自分を大事にしてくれるのだろう。
エレノアは脱力して、糸が切れたようにすとんと座りこんでしまった。
この瞬間、それまでエレノアの頭の中で渦巻いていた様々な心配やわだかまりが、すっかり霧散した。羞恥心も不安感も、何もかもが消え去り、ただ目の前のハロルドの青い瞳を見上げる。
「エレノア?!」
驚いたように声を上げたハロルドにも、素直に言葉が突いて出た。
「ハロルドがこのまま目を覚まさないかと思っていたの」
ハロルドはふいと目を反らして、反則だと呟いたが、ぼんやりしていたエレノアは気付かなかった。
「エレノア?」
床に座ったまま呆けている彼女に、ハロルドが心配そうに声をかける。
「大丈夫?」
ハロルドが再度尋ねてくる。これ以上病み上がりの人間に心配をかけ続ける訳にはいかないと、エレノアは背筋を伸ばして頷いた。
寝台の白い布団の上に目を覗かせて、大丈夫よ、と小さく呟く。
そして、いくつか息を吸ってはき、呼吸を整えると、ハロルドを見つめた。
何を言えばいいのか、何を最初に、と考えるうち、意味が分からなくなってしまった。
頭に残ったのは、ただ、伝えるのだということ。
向き合うのだ。
誠実さを返すのだ。
言わず誤魔化して、そのくせ人を妬み恨むような道は選ぶまい。
エレノアの身体の中で急激な熱が生じる。頬も耳も熱く、喉がひりつき、普段感じることのない魔力の渦巻く様までありありと思い浮かぶ。
その熱に浮かされるようにして、気付いたときにはこう言っていた。
「好きです」
「え」
「ハロルドが、好きです」
床にぺたりと座り込んだ姿は、お世辞にも淑女らしいとは言えない。
潤んだ紫の瞳と真っ赤な頬を寝台の端から出して、目覚めたばかりの病人に唐突すぎることも、話に脈絡が全くないことも、後から思い返せばエレノアは確実にどっぷりと落ち込むに違いないが、ともかくこの時彼女は伝えることだけしか考えていなかった。




