決戦の日~エレノアの場合2
「エレノアとハロルドがいない・・・」
エレノアの姿がアイリーンとともに消えた侍女の中にも、王宮に待機していた侍女の中にもいないことが確認されたのは、深夜のことだった。
ファレルは険しい顔でジゼルの言葉を思い出す。
「エレノアはあのとき、まだ会議から戻っておりませんでした。いつもなら戻っていてもおかしくない時間だったのですが・・・」
ジゼルの言葉どおり、タガードの別邸で見つかった侍女は、ジゼルと、文官達と共に廊下を戻ってくる途中だったもう1人だけだった。それで再度王宮に戻り、待機中の人間をくまなく確認したのだが、そちらにもエレノアは居なかったのだ。
「クリス。ホールデンとハーディを呼べ」
すぐにとんできた2人は、報せを聞いて目を見開いた。
「私は先に部屋を出たので」
そう言ってホールデンに視線を送られ、ハーディは昼前にエレノアが内宮へ戻ったことを証言した。
それから彼ははっとしたように顔を険しくした。
「そういえば、今日はジリアンに送らせたんだ・・・おい、ジリアンはどこだ?!」
その少し前のこと。
消えた2人とジリアンは、暗い部屋の中にいた。
「お望み通りハロルド、君からだ」
ジリアンは無感動に、精霊に合図を送った。
餌となる魔力を求めて、精霊が再び近づいてくる。
我に返ったエレノアが叫ぼうとすると、ハロルドは彼女の目も耳も塞ぐように、硬く抱きしめ直した。
それでエレノアの感覚は、全てハロルドに占められた。
声は全てハロルドの胸に吸い取られていく。
精霊が今どこにいるのかも、ジリアンが何をしているのかも分からないまま、ただただハロルドの鼓動と、香りと、熱いくらいの体温を感じていた。
けれど、それも長くは続かなかった。
自分を守るように抱き締めたハロルドの体から、徐々に熱が引いていくのをエレノアは感じた。
顔を上げさせまいと後頭部を抑えていた手の力が弱まったので、エレノアは拘束を抜け出してハロルドの顔を見上げた。
彼は彼女の視線に気付いて気丈にも微笑んで見せたが、その顔はすでに紙のように白かった。
「嫌、ハロルド。駄目、駄目よ」
膝をついたハロルドに迫る濃厚な死の気配を、エレノアは首を降って否定した。しかし、それが何の意味ももたないことは分かっていた。
とうとう、ハロルドの身体が石の床に崩れ落ちた。後ろ手に縛られているエレノアは、彼を支えるすべもなく見つめるだけだ。
こうなることを避けられるなら、彼は最初から避けていた。精霊の力を知っていて、避けられないと判断したから、自分の身を先に差し出したのだ。
何のために。決まっている。いくら鈍いエレノアでも、それが自分を守ろうという彼のあがきだということは分かる。
ハロルドはエレノアが助かる万に一つの可能性に身を投じたのだ。
ならば自分も万に一つの可能性を諦めることはできない。
「・・・死なせないわ」
エレノアは、縛られた両手をハロルドの胸に押し当てようとした。この魔法陣が魔力の具現化を防ぐものならば、魔力をそのまま身体から流し込む治癒は可能かも知れないと思ったのだ。
けれど縛られたままでは上手くいかず、焦って向き直る。
すでに顔色は青黒く、ハロルドの命の残り火が幾ばくもないことを知らせてくる。いくら彼が人並み外れた魔力量の持ち主でも、もうこれ以上は保たない。
赤いはずの唇が白く乾いてくる。
それを一時凝視し、エレノアはおもむろに、自分の唇を押し当てた。
震える唇から、魔力を細く細く送り込む。手かざしでしか使ったことのない治癒魔法だが、指先よりも繊細な唇の感覚が代わりを果たしてくれた。
冷たいハロルドの身体に自分の熱を分け与えるように、呼吸の浅い彼の身体を自分の吐息で満たすように、エレノアは治癒を施す。
やがてジリアンも、エレノアの意図に気付いた。
「あれ、またそんな無駄なことをしようとしてるの?どうせ二人とも餌になるからいいけど、無駄に苦しみたいみたいだね」
ハロルドを治癒することをジリアンは黙認した。
しかし、それは確かに苦しみの始まりだった。
治癒するはしから、ハロルドは魔力を抜かれていく。
ハロルドの身体は若く、また魔力も並外れて多い。しかし治癒魔法は急ぐということができないし、それ以前にエレノアの限界というものもある。
このままでは、ハロルドの身体が限界を迎えるのが先か、エレノアの魔力がつきるのが先か。
どちらにしても何の解決策もない状況で、終焉は時間の問題だった。
エレノアはひどい耳鳴りと頭痛の中で、治癒を続けた。
視界がぐんぐん白茶けていく。
身体が冷たくなってくる。
全身の悪寒に、震えが止まらない。
それでもエレノアは、死なせはしない、と歯を食い縛った。
もはや、ハロルドの魂は死の淵にあった。その身体はほとんどエレノアの魔力で満たされているだろう。
永遠にも一瞬にも思える時間は、終わりを迎えつつあった。
「そろそろおしまいかな?」
ジリアンの声も、もうエレノアには聞こえていなかった。
そのとき、地面が激しく揺れた。
「なんだ?!」
動揺したジリアンの声を聞きながら、エレノアは必死でハロルドの身体の上に覆い被さった。
壁際のがらくたが崩れ落ちる音がする。
埃が舞い上がる。
埃と貧血とで白く霞む視界に、ぼんやりと黒い影が映った気がした。
これ以上ないほど凍え、震えていたはずの身体が、さらに寒気を感じてぶるりと動く。
そしてエレノアはぞっとするような声を聞いた。
・・・痴れ者が・・・
エレノアは驚いた。その声は、忘れようにも忘れられないものだった。
・・・我が契約者に手を出すとは、身の程知らずよ・・・
「誰だ!?一体、何なんだ!この部屋には誰も入れないはずなのに・・・」
・・・ガーラントの末の魔力は、我が契約のもとにある。先に成された契約を覆さんとするならば、いかに不干渉の我らとて黙ってはおれぬ・・・
ジリアンの言葉を無視して話し続けるのは、ガーラントの森のあの精霊だった。どうやら、ジリアンの精霊に話しているようだとエレノアは気付いた。
決して森から出ないと思えた精霊がこの場に現れたことに、エレノアも驚いていた。ガーラントの森の精霊はあの森に依拠した存在なのだと勝手に思っていたのだが、むしろガーラントの家に依拠していたらしい。
・・・精霊が同じ精霊の話にも応じぬとは・・・己が言葉も縛られたか。哀れなものよ・・・
精霊はそれから、ジリアンへと意識を向けたらしかった。
・・・精霊使役などという不埒なことを考えた愚か者はお前か・・・
「お前も、精霊なのか・・・?」
ジリアンは動揺しつつも、上位を保とうとしているようだった。
「知らなかった。この国に2体も精霊がいるなんて」
話しながらじりじりと後退し、壁際の本に手を伸ばす。古びた粗末なその本に、エレノアは何故か不穏なものを感じた。
しかし彼女が警告を発するより早く、精霊が低く笑った。
・・・我を縛ろうとしても無駄なこと。我はすでにガーラントの末と契約を結んでいる・・・
精霊の言葉に、ジリアンはぴたりと動きを止めた。
そして彼は、血走った目をかっと見開いてエレノアを睨んだ。
「お前が・・・お前がまた俺の邪魔をするのか!?」
エレノアは答えられなかった。また、と言われた意味が分からなかったのだ。
訳も分からず、立ちあがる力さえないエレノアは、なすすべなくジリアンを見つめた。
彼が水の刃を自分に向けたのを見て、無感動に、ああ彼はハロルドと同じ水の技を使うのだと思う。
極限の疲労は、一度集中の糸が切れた今、エレノアの全ての感覚を鈍らせていた。
その刃がエレノアに襲いかかる前に、黒い影がすっと動いた。
するとどうしたことか、ジリアンの身体がひっくり返る。
「うわあ・・・!」
叫び声をあげてのたうつ彼の腕は、枯れ木のようにしなびていた。
・・・我が契約者に手を出すのならば容赦はせぬ・・・
ガーラントの精霊は笑うようにそう言うと、今度はぐるりと反転した。
・・・精霊も契約もろとも、消してしまうか・・・
もはや救世主なのか悪の親玉なのか怪しいところだ。
その何とも物騒な発言に、エレノアはようやく我に返り、慌てて声を振り絞った。
「駄目です、殺さないで!」
目の前で人死にを見たくなかったなどという優しい理由ではない。ここで精霊もジリアンも死んでしまえば、下手をするとエレノアとハロルドが疑われる。エレノアの端的な説明によって、ガーラントの精霊はしぶしぶ死なない程度に魔力を奪うことを了承した。




