人の気持ちを知るために~エレノアの場合
【人の気持ちを知る方法
手を観察することもまた、相手の気持ちを知るために有効である。
例えば手のひらを相手に見せているならば、相手のことを受け入れている状態といえる。
逆に、握りしめて拳にしていたり、机の下に手を置いたりしていれば、相手は話を受け入れていないか、心を開いていない場合がほとんどだ。】
王都の夏は暑い。くぼんだ平地に湿った空気が滞留し、地面の熱で暖められるため、歩けばじっとりと肌が汗ばむ。
そんな一年でもっとも過ごしにくい時期にも関わらず、王都にはこの時期、社交のために国中の貴族が集まってくる。
エレノアは王都の蒸し暑さが苦手な上に、あまり社交の場にいい思い出がないため、毎年必要最小限の会にしか出席していなかった。それこそ、出席日数を計算する不真面目な生徒のように、子爵家の娘としての面目がぎりぎり保てる数を精選していた。
しかしこの夏、エレノアは社交界にも勢力的に参戦した。ただしこれはエレノアの意思でというより、ホールデンの意思による。彼はある日の会議で、机上に招待状をずらりと並べて治癒魔法の宣伝活動に行くよ、と宣言したのだ。
居合わせたハロルドは当然エレノアの身の安全を気にした。しかしちょうどファレルから機能を改良した腕輪が戻ってきていたことと、『僕らの実力じゃあ物足りないって言うのかな?』とホールデンとハーディがからかい混じりに彼女の警護を請け負ったことで、しぶしぶ納得した。しかし、絶対に酒を飲まないという約束はさせられたが。
そういうわけで、エレノアはホールデンやハーディとともに夜会を飛び歩いた。
この面子で気になるのはカーラの反応だったが、成り行きを話して詫びたエレノアに、カーラはいつものように頬に手を当ててこう言った。
「それはうらやましすぎるわね」
「ご、ごめんなさい」
「本当にそう思う?」
「本当に決まっているではないの」
やや声を大きくして主張したエレノアに、カーラはにっこりと微笑んだ。
「それじゃあ、情報提供をよろしくね。具体的な項目は後で一覧にして渡すから」
どうやら許してくれるらしいとほっとしたエレノアだったが、後日渡された細密な一覧表を見てしばし呆然とした。ホールデンのその日の髪型、シャツの色、タイの色、辺りはいいとして、彼に熱い視線を送ってきた令嬢の名前や彼女らへのホールデンの反応、靴下の素材などは、どうしろというのだろう。
やや引きつった笑顔で善処することを告げるとカーラは、期待しているわ、とまたにっこり笑ったのだが、これはやはり若干怒っているのだろうかと思ったエレノアだった。
そうして宣伝活動と情報収集に勤しんだ結果はというと、
「エレノアって僕より社交下手だね」
というハーディの言葉と残念なものを見るような目だった。
エレノアとて、立派な仕事の虫として、侍女のもつべき完璧な所作や微笑みは身に付けている。また、学生時代の杵柄でダンスのステップもばっちりだ。
ただいかんせん、エレノアには会話の中での本音の探り合いというものができなかった。
ただのガーラント家令嬢としての会話ならばなんとかなってきた。本当に何も考えずにその場の雰囲気で会話をするのなら、相手の服装の話や、家族の様子、会のすばらしさなどでお茶を濁せばよいのだから。
しかし、今回のように勢力争いのための会話となると、その一見フワフワとした会話の裏で相手の本音を探ったり、こちらの意図を匂わせたりしなくてはならない。そうなると、表も裏も上手に使い分けられないエレノアの口は鉛のように重くなってしまうのだった。
それでもホールデンとハーディがエレノアを連れ出すことを止めなかったのは、やはり以前言われたように彼女の存在自体が治癒魔法の旗印であり、一種の宣伝となっているからだった。ホールデンたちが主導する会話も、エレノアがいれば自然と治癒魔法のことに入りやすくなるし、逆に相手から『おや彼女はもしかして』というように触れられることもあった。
こうして毎回、エレノアの中には挫折感とホールデンについての豆知識だけがたまっていったが、計画全体としては概ね順調に宣伝活動が進んでいった。
そんなある日、比較的大きな夜会でのことだった。
この日エレノアは、ハーディと二人で参加していた。
予定していた有力者への挨拶を済ませ、あらかた仕事は終わったということでエレノアはハーディに断って少し休憩のため席を外すことにした。
化粧を直し、エレノアは会場に戻ろうと廊下を歩いていた。
ふとそこで、会場の方から歩いてくる薄紅色のドレスの少女に気付いた。イザベラの一件以来一人でいるときの人との接近にエレノアは過敏になっていた。そのため、逆光で顔も見えないうちから、エレノアは彼女の姿から目を離せなかった。
相手はやや俯いて歩いてきたが、エレノアはその髪の色に気付いて思わず足を止めた。
それはあの特徴的な蜂蜜色だった。
そして、近づくにつれてみえてきたその顔は、見間違えようもない、リリー・ホールデンのものだったのだ。
やがてリリーはふと顔を上げた。そしてエレノアに気付いたらしく、すぐに顔を強張らせてきゅっと両手を握った。
エレノアはその反応に大きな衝撃を受けつつ、仕方ないと自分に言い聞かせた。
エレノアはすっと姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
リリーはぎこちなくそれにお辞儀を返すと、くるりと背中を向けて行ってしまった。
去っていく背中で、白いリボンが揺れる。それを見送りながら、エレノアもぐっと指を握り込んで込み上げる何かに堪えた。
以前は、にこにこと寄ってきて話しかけてくれたのに。
くるくると手振りを交えて、ころころと表情を変えて。
しかし、それも仕方がないことだ。
リリーの立場ならば、恋人の過去に関わる女性の影など、目にしたいわけがないのだから。それに、エレノアの方もまだ和やかに談笑できる心境ではない。
エレノアは、リリーの愛らしい笑顔を思った。
可愛らしい、リリー。
蜂蜜色の輝く髪の、薄紅色のドレスがよく似合う子。
感じのよい笑顔で周りを明るくする子。
貴族の令嬢らしい育ちのよい朗らかさと、少女らしい天真爛漫さが魅力的な、リリー。
エレノアは、初めて会ったときからリリーを可愛いと思っていた。それは好ましい、というよりは羨みに近い感情で、相手は年下の少女なのに、エレノアは自分がもっていないものをうらやましく眺めていた。
アイリーンには抱いたことのないその感情は、ハロルドにからんだ嫉妬だったのだろう。ハロルドと踊っていた一対の人形のような姿を思い出せば、今もじりじりと胸が痛む。
リリーはハロルドと会うために王都へ来ていたのだろうか、とエレノアは考えた。
自分が昔、社交の季節だけ王都で婚約者と会えることを心待ちにしていたように。
どきどきと胸を高鳴らせてダンスをし、相手の顔も見られないような気恥ずかしさで頬を赤らめて。
過去の自分と同じようにリリーがハロルドとの恋をはぐくんでいくことを思い、エレノアは嫉妬に胸を焦がした。しかし同時に、そんな輝くような時間に自分が影を落としたことに、酷い罪悪感を感じた。
恋人達は、幸せであるべきだ。
特にそれが、大切なハロルドと、彼に似合いの相手ならば。
エレノアは改めて、自分の気持ちにきちんと蓋をしなくてはと、胸を押さえた。
そこへ、慌ただしく足音が近づいてきたので、エレノアは顔を上げた。
「ハーディ様」
「こんなところにいたの。戻ってこないから心配しちゃったよ」
ハーディの珍しく焦ったような声に、エレノアは我に返って謝った。
「申し訳ありません。少し、頭を冷やしていました」
ハーディは、え、と不思議そうに呟いた。今日の会場は風魔法で冷やしてあるので廊下よりよほど涼しいのだ。
「まさか飲んじゃった?」
「いいえ」
「頼むよ、僕のエスコートでエレノアが飲んじゃったなんて言ったらあのおっかない目でねちねち責められるんだからさ」
おっかない目というのが誰を差すのか大体分かったものの、エレノアは胸の蓋を動かさないように、敢えて触れずに答えた。
「飲んだりしませんわ。ああ、そういえばハーディ様。ホールデン先生の靴下の素材をご存じありません?」




