人の油断を誘うもの~エレノアの場合2
前話の続きですが、怪我の描写はありません。
向かったのはアイリーンの部屋で、すでにファレルも揃っていた。
「エレノア!」
アイリーンは立ち上がって駆け寄ってくると、エレノアの頬や身体を確認するようにぺたぺたと触った。
エレノアは治癒がすんだのでもう大丈夫だと説明したが、それでも問答無用で椅子に座らされた。
「傷はどうなった」
同じく立ち上がっていたファレルはそう言ってエレノアの前に来た。そしてかがみ込んで観察するようにエレノアを見たのだが、すぐに間に入った黒い影によって、彼の姿は見えなくなった。
エレノアが突然前に立ったハロルドに驚いている間に、黒い上着に閉ざされた視界の向こうで、
「ここぞとばかり見ない!」
という王女の声がした。続いてぱこんという小気味いい音がして、エレノアはそれで少し笑った。
そんなお決まりのやりとりでかなりエレノアの心は落ち着いたものの、まずは少し休むようにというアイリーンの指示で、エレノアとハロルドに茶が出された。厳命だと扇の先で差して命じられてしまったので、恐縮しながらも一口飲む。ふわりと広がる優しい香りが、嗅ぎなれたアイリーンの部屋特有のもので、エレノアの緊張した神経がほっとほぐれていく。
その間に、ハロルドがアイリーンとファレルへあらかたの事情を説明した。とはいえ、彼が来たのはエレノアが倒れて数分たった後のことだったので、その前のことは目撃証言を集めてきたクリスが補足した。
改めてことのあらましを聞きながら、エレノアは不思議に思ったことを口にした。
「どうしてなのか、あの直前、私は妹に会った気でいたのです」
しかし、シンシアとイザベラでは背格好も顔かたちも見間違える要素がない。
ハロルドは顎に指を添えて少し考えると、言った。
「水の魔法になら幻を見せるような技があるけれど」
これにはファレルが首を振る。
「イザベラ・ウォーカーに複雑な水の魔力が使えるはずがない。あの娘は火の属性だ」
結局、疲労や日差しなど偶然の産物だったのではないかと思うしかなかったが、エレノアには納得できないものが残った。
そこへ、報告を受けるため一度席を外していたクリスが戻ってきた。
「イザベラ・ウォーカーの聴取を進めたところ、気になることを言い出しました。どうも、彼女は何者かに悪知恵をつけられていたようです。相手が誰なのかは本人も知らないようですが、エレノアを害するならばと、あの時間と場所で腕を掴むよう指定されたとか」
嫉妬に狂った令嬢の浅はかな行動というならばいざ知らず、わざわざ王宮の真ん前でことを起こすなど、愚の極みだ。しかし、それが自分の仕掛けたことの結果を見届けたいだとか、エレノアが害される姿を多くの人間に見せつけたいといった心理から行われたのならばまた別となるだろう。
「それなら、他の水属性の人間が幻を見せた可能性もあるわね。何しろあの場所は魔法省の庭先だもの」
「国土の人間が手引きでもしたか」
二対の緑の目が見合わされ、ファレルの方が一つ頷いて立ち上がった。
「行くぞ、クリス」
アイリーンもクリスも、出て行く彼に何も問わなかった。エレノアが不思議そうに見送っていると、気付いたアイリーンが、魔力の痕跡がないか見に行くのだと説明してくれた。
「そそのかした張本人が残っているとなると厄介ね」
アイリーンの言葉に、ハロルドも頷く。
「はい。それに、犯人が無知で無謀な令嬢だけでないとなれば、『亀』が使えない状況を想定してやったと思った方がよいかと」
あのとき、イザベラは迷わず腕を掴んできた。そうでなければ、たとえいくら相手を見誤ったとしても、攻撃を受けた瞬間に『亀』を発動することができていたはずだ。
相手はエレノアを害するため、入念に調べた上でイザベラを仕掛けてきている。そのことにエレノアは改めて背筋にひやりとするものを感じた。
「犯人を捉えたとはいえ、エレノアの守りを考え直す必要があるわね」
アイリーンの視線を受け、ハロルドも頷いた。
「当分の間、エレノアが魔法省への出入りをしなくてすむようにして下さい」
「ハロルド」
これにはエレノアが制止をかけたが、ハロルドは振り返るどころかますます身を乗り出すようにして続けた。
「魔法省が現状、一番エレノアへ悪意をもった人間が多い場所です。それに王宮内と違って衛兵がいないため、事が起こしやすいでしょう」
「ハロルド!だって仕事があるのよ」
やや強くたしなめたエレノアに、ハロルドはようやく振り向いた。しかし底冷えするような青い目でエレノアを見ると、彼は表情の抜け落ちた顔で続けた。
「仕事は王宮にもたくさんあるでしょ。でも、エレノアの命は一つだ」
「犯人は捕まっているし、もう傷は治ったのよ」
「生ぬるい」
吐き捨てるようにハロルドが言ったので、エレノアは驚いた。
ハロルドは顔をしかめてはいなかった。しかし、その表情の消えた顔が白を通り越して青く見えることにエレノアはやっと気付いた。
「エレノアをあんな酷い目に合わせたんだ。犯人がまだ生きているのも許しがたい。あんな怪我を、またしたらどうする気なの。それだけじゃない、今回は運良く治せたけれど、次は跡が残るかもしれないし、怪我ですまないかもしれないんだ」
こんなに顔色の悪いハロルドを見るのは、初めてだった。彼は線の細さのわりに健康な子どもだったし、人前で顔色を変えることなどまずなかったから。
エレノアは、彼が直接火傷を見てしまったことを思い出す。いくら戦闘職とはいえ、実戦経験は浅いし、身近な人間の負傷は衝撃的だったのかもしれない、とエレノアは申し訳なく思った。
「ごめんなさい、気持ちの良くないものを見せて」
「何でエレノアが謝るの」
だって顔が青いわ、とは彼の高い自尊心を慮って言わなかった。
それでじっと彼を見上げて黙ってしまったエレノアの代わりに、いつの間にか戻っていたファレルが言った。
「お前、そんな顔して怒っているんだな」
「当たり前だ」
どうやらハロルドは表情が無くなるほど、怒っているらしい。
しかしそれほどの怒りを目にしても、ファレルは変な奴、とのたまった。すぐにアイリーンのスリッパが鋭く飛んでいったが、彼は器用にそれを手で捉えた。
「私だって怒っているわよ。私の大事なお友達に怪我をさせたなんて、許せないわ」
「もちろん、俺だって怒っている」
「ですから、もう治りました」
エレノアも口を挟んだのだが、少し黙っていて、と三人から言われ、仕方なく口をつぐむ。
「それで、そちらはどうだったの?」
結局話を変えて収拾をつけたのはアイリーンで、聞かれたファレルは珍しく難しい顔をした。
彼がこうした顔をするのは非常に珍しく、エレノアは軽く目をみはってしまった。
「痕跡は、あった」
「それなら」
再び乗り出しかけたハロルドを手で制し、彼は続けた。
「俺はあの魔力を知っている。でも、ありえないんだ」
どういう意味だろう、とエレノアは王子を見つめた。いつも無遠慮なほど単刀直入に物を言うファレルが、おかしなことだと。
彼はためらった後、口を開いた。
「あれは、死んだネビル伯爵の魔力だ」
建物の中、男は機嫌良く歩いていた。
あの娘は役に立ってくれた。
おかげで『亀』の発動についても仮説が証明できた。
人前で傷つけて、あわよくば再起不能にしてやろうという思惑は外れたが、と少しだけ男の顔に苦いものが浮かぶ。
エレノア・ガーラントがあの場で自分に治癒魔法をかけたことは予想外だった。泣いて叫んで気でも失っていればよかったものを。
まあ、いい。これで知りたいことは分かった。次の楽しみができたと思えばよいのだ。
エレノアを今度こそ医務室に送り届け、睡眠薬が処方されたのを見たあと、ハロルドはファレルの部屋に向かった。
王子は珍しく寝転がっていなかった。
彼を作業台から長椅子へ来させると、ハロルドは冷え冷えとした視線のまま言った。
「この件は、もとを正せばお前の不手際だ」
ハロルドの指摘にファレルは素直に非を認めた。
「分かっている」
エレノアを襲ったイザベラ・ウォーカーは、父と共に第二王子であるファレルにご執心だった。
実際問題、星の数ほどいる崇拝者を全て管理するのは不可能な話だ。しかし自分の崇拝者のせいでエレノアが負傷したとなればファレルは罪悪感を禁じ得ない。しかもイザベラは、ハロルドが事前に注意を促した要注意人物だった。
「そういうわけだから、文句は言わせない。エレノアの警護は俺がさせてもらうから」
ハロルドは目線だけで振り返ると、さっさと部屋を出ていった。
いつもならもう少し人目に配慮してファレルをたてる彼だ、クリスは眉をあげて、
「よほど腸が煮えくり返っているようですね」
と言った。
「本当なら俺のことも刺したいところだろう」
これがハロルドなりのぎりぎりの理性なのだろうと、ファレルは思った。
ファレル自身も大差はない。余裕をなくして感情的にふるまえばなおさら収拾が遅れるから、それこそ合わせる顔がないと感情を抑えているだけのこと。
やらなくてはならないこと、考えなければならないことは山ほどある。
誰が、何のためにエレノアを襲わせたのか。なぜ、死んだ人間の魔力が現場に残っていたのか。それに、このところ続いている親王派貴族の突然死の件も片付いていない。本来の仕事である治癒魔法の計画も大詰めだというのに、この有様だ。
ふう、とファレルは意識的に長い息を吐いて、苛立ちを逃がした。
「大人になりましたねえ」
こんなときにクリスがしみじみと言ったので、ファレルは斜め後ろを睨み上げた。
「仕方がないだろう。俺が感情的になって遅れをとれば、アイリーンやエレノアが自分で動きかねない」
ファレルの周りの少女たちは大変たくましいため、少しでもファレルの行動に隙があれば自分でその穴を埋めようと動き出す。
大変結構な志ではあるが、こちらが彼女らを守るために動こうというときもそうなのは困りものだ。実際、過去にもそういうことがあった。エレノアがやはりファレルの信望者に遭難させられたときに、ファレルが他国の要人相手に感情的に怒りをぶつけようとしたところで彼女は、自ら間に入って関係を繕ったのだ。
ファレルはその苦い経験から、自分を律しているだけだ。
かいつまんで説明すれば、クリスは再び感慨深げな顔をした。
「エレノアのお陰ですね」
ファレルはふんと鼻を鳴らすと、髪を乱暴にかき乱して小さな反抗をした。




