人の油断をさそうもの~エレノアの場合
少し負傷する場面があります。
血や怪我がとても苦手、という方は本文をとばして後書きへお進みください。
【人の油断をさそうもの
人は親しい相手、場所において気を緩めるものである。
相手と親しくなる、または相手が親しんでいる場所や食べ物などを用意することができれば、相手の油断を誘える。それが無理でも、呼称や外見などで親しさを錯覚させることは可能である。
また、心身が弱っているときには少なからず油断をしてしまうものである。そのため、油断を避けるためにはまず心身の健康に留意する必要がある。】
結果的に、エレノアの警戒心には穴があいていたと言っていい。
エレノアは守備に絞って魔力を開発している。
おかげで、茶を沸かすにもジゼルに『遅い』と急かされる程度のささやかな火力しかない。代わりに、常人より優れた危機察知能力と鉄壁の防御壁を手に入れ、普段から偶然を装ってかけられる熱いお茶や降ってくる植木鉢には反射的に対応できていたのだ。
しかしこのとき、このエレノアの守備能力は全く役に立たなかった。
アイリーンの周囲は親王派貴族の相次ぐ突然死を受けて警戒態勢がしかれ、ホールデンの提案の方も順調に審議が進んでいる。侍女の仕事の合間を縫って魔法省へ出向くエレノアもなかなか忙しかった。
そのため、魔法省の建物を出たエレノアは、淑女として許されるぎりぎりの速度で王宮へと急いでいた。
そのせいもあったかもしれない。
また、魔法省から出て国土の若者への警戒を解いた直後だったこともあるかもしれない。
ともかくエレノアは、前方から歩いてくる質素なドレスの令嬢に、何の警戒ももたなかった。
あれはシンシアかしら、とエレノアは思った。
接触され『亀』の発動ができなくなるまで、エレノアは突然現れた妹に声をかけようとしていたのだ。
そのためはっと気付いたときには腕を掴まれており、驚いて見上げた令嬢の顔を見てさらに目を丸くした。
そこにいたのはシンシアなどではなかった。
あの文官ウォーカーの娘、イザベラだったのだ。
「エレノア・ガーラント。貴女にはこれがお似合いよ」
イザベラは意地悪く歪んだ笑みを浮かべるとエレノアに小瓶を投げつけた。
至近距離での出来事に、避けることも叶わなかった。
その華奢な瓶はあやまたずエレノアの胸に当たって割れた。
ガラス片と液体が場違いにきらきらと飛び散るのをエレノアは見た。
「うっ・・・!」
瞬間、じゅっと焦げるような音と鼻をついた匂いがした。
しかしすぐにそんなことは分からなくなった。
首から胸元までに、焼けるような痛みが走ったのだ。
エレノアはその場に崩れ落ち、痛みに身体を丸めた。
悲鳴すら出なかった。
ただ苦しいのと、熱いのと、恐ろしいのを堪えるためにうずくまっていた。
周りの状況もイザベラのことも、全てがエレノアの中から消え去っていた。
それでも痛みはどんどん酷くなり、しだいに意識まで薄れていく。
もう無理。
もう駄目。
経験したことのない凶悪な痛みに、エレノアは意識を手放そうとした。
「エレノア!」
その声に、痛みに飛びそうになっていた意識が引き戻された。一緒に戻った痛みにエレノアはさらに悶絶したが、すでに気絶の好機は逃してしまったらしかった。
ハロルド、と呟いたつもりだったが、声にはならなかった。
「何てこと・・・」
彼はしゃがみ込むと、苦しそうに声を詰まらせた。それで、エレノアは自分の痛みが酷い傷を負ったためであると客観視した。
さらに、周囲に人が集まっていることにも気付いた。
「大丈夫か」
「何があったんだ」
「侍女が襲われたらしい」
「おい、誰かその女をつかまえろ!」
「酷い匂いだ・・・火傷か」
「若い娘なのに、むごいな・・・」
たくさんの人間の注目を集めていることに気付き、エレノアは必死で気持ちを奮い立たせた。
「エレノア、医務室に運ぶから、少しだけ我慢して」
ハロルドが抱き上げようとして声をかけたが、それにうっかり首を振ろうとして猛烈な痛みに呻く。
「大丈夫!?」
心配するハロルドに手を上げて応え、生理的に出た涙をぐっと堪える。
「・・・大丈夫、自分で、治すから・・・」
「エレノア、無茶しないで」
確かに飛びそうな意識を気力でつなぎ止めているこの状態で、繊細な魔力の制御は困難だ。しかしエレノアは頑なに言い張った。これだけの人間が見ている中でただただ医務室に運ばれることだけはしたくないと思ったのだ。
自分はアイリーン王女の侍女として治癒魔法に携わっている人間だ、とエレノアは奥歯を食いしばった。ここで人形のように運ばれて、計画を邪魔したい人間に治癒魔法など役に立たないと言う材料を与えることは、どうしても許せなかった。
「大丈夫、大丈夫よ」
頑として抱き上げられようとしないエレノアに、ハロルドは困り果てたように黙りこむと、首の火傷に触れないよう、彼女にそっと上着をかけた。
「治る・・・大丈夫、治るわ・・・」
エレノアは小声で囁きながら、自分の傷に手を翳した。
普段は声など出さない。けれど、途切れそうになる意識を集中させ自分に治癒をイメージさせるため、声を出した。
熱いを涼しいに、苦しい、痛いを楽に、と意識して魔力を集めていく。
自分の傷を治したことなど無かったし、震える手と魔力はなかなかいうことを聞かなかったが、それでも少しずつ痛みが引いていく。
「おお・・・火傷が」
「嘘だろ・・・」
人垣から上がった声は、エレノアには聞こえなかった。
エレノアはひたすら集中して傷を癒し続けた。
そして彼女が何とか丸まっていた上体を起こせるようになると、すかさずハロルドが上着を掛け直し、問答無用で抱き上げた。
「ハロルド?もう、歩けるわ」
抱き上げられてそう言ったものの、ハロルドは全く聞く気がないといった硬い表情をしており、それにエレノア自身体力の限界だったので、それ以上の拒絶はしなかった。
「無茶したねエレノア」
すぐ側の部屋に運ばれると、騒ぎを聞いて駆け付けていたらしいハーディがエレノアの魔力と体力を回復させてくれた。
「ありがとうございます」
泥のように重かった身体が少し軽くなり、エレノアはほっと息をついた。これならば、本当にもう歩けそうだと思った。それでアイリーンのもとへ歩いて戻ろうと考えたのだが、そんな彼女の考えを見透かしたようにハロルドが首を振った。
「ちゃんと、王宮の医者にも診せた方がいい」
「大丈夫よ。たしかにまだ皮膚の奥は炎症が残っているかもしれないけれど、それも自分で暇を見て治すから」
「駄目だ」
「エレノア、僕も医者に診せるのは賛成だよ。治癒魔法は万能じゃないし、万能でなくてはいけないわけでもない。分かっているだろ?」
ハーディに冷静な指摘をされ、エレノアはしぶしぶ頷いた。
「ともあれ、エレノアが頑張ったおかげで治癒魔法の効果はかなり知れ渡ったね」
「ハーディ様!」
「誉めたのに」
ハロルドの抗議の声にも悪気のないハーディは軽く肩をすくめるだけで、それじゃあと手を振って部屋を出て行った。
入れ代わりに誰かが呼んだらしく医者やジゼルなどが入ってきた。
医師の診察を受け、内部の傷からくる熱を防ぐための薬などを処方されると、エレノアはジゼルが持ってきてくれた服に着替えた。
エレノアの着ていたお仕着せは、薬物で襟から腹部までが溶けたように焼けただれていたのだ。診察を受けたときに初めてそのことに気付いて、エレノアはようやくハロルドが上着を貸してくれた理由を悟った。
「これ、どうもありがとう・・・少し土がついてしまってごめんなさい」
「気にしない」
ハロルドは無表情にそう言うと、上着を羽織った。魔法省の魔法使いであることを示すその黒い上着は夏向きとは言えないが、王宮での身分証代わりなのだ。
「ハロルド殿、急がせて申し訳ありませんが、アイリーン王女と殿下が事情を聞きたいとお呼びです」
クリスがそう言ったので、ハロルドが自分の様子を見るために待っていたのだとエレノアは知る。
続けてクリスは、エレノアは医務室で休むようにと言ったが、彼女は首を横に振った。
「もう大丈夫です。事情は私が話します」
頑固に言い張った彼女が先に立って歩き出したので、ハロルドはため息をついた。
エレノアは内心少し怯えた。昔から彼のため息が苦手だったが、彼に嫌われるのを恐れる気持ちが、再び怯えを生んでいた。
しかし、彼はすっと隣に並ぶと腕を差しだした。
「どうせ、医務室に運んでも這っていく気でしょ」
せめて寄りかかれというように差し出された腕を、エレノアはみつめた。
掴んではいけない、ともう一人の自分が言った。この腕は自分のものではなく、寄りかかってその優しさに慣れてしまったら自分はもう彼を諦められなくなってしまうと。
けれど、エレノアの疲れた心は誘惑に勝てなかった。
今だけ、この一回だけ、と自分に言い訳をしながら、エレノアは恐る恐る彼の腕を掴んだ。
その体温を感じた途端、エレノアの身体は震えた。
指先から広がった幸福感と、治ったはずの胸に生じた痛みを、エレノアは俯いて噛みしめた。
エレノアがイザベラ・ウォーカーに襲撃され、負傷しました。
酷い怪我で意識が飛びかけますが、なんとか自力で治し、報告のため王女のもとへ向かいます。




