読めない心とすれ違い~アイリーンの場合、ハロルドの場合
【相手の心を読むには~
「分からないこと」を読み取ろうとするときには、自分の経験や勘だけで判断してはいけない。
まず癖や習性をよく観察することだ。粘り強く見ることで、一定の行動や思考の傾向が見えてくる。
また、言外に含まれた意味にも注目する必要がある。
「お忙しいですか?」とは『相談したいことがある』という意味だ。言葉の意味に反応するのではなく、言外に含まれる意味をとらえることが、相手の真意への近道だ。】
親王派の貴族急死の知らせを受けた後、アイリーンは指示を出すジゼルを見ながら、考えていた。
この時期に暗殺を謀る人間の狙いは何かと。そうして、すぐに三人が貴族議会の重鎮でもあることを思いつく。
貴族議会で今後争議されるのは、文官の市民登用と治癒院設置についてだ。
もしそこが狙いなら、エレノアの妨害との関係はあるだろうか。
アイリーンはそこまで考えて首を横にふった。あの噂はエレノア一人を妨害するもので、計画自体への影響は小さい。飛躍しすぎだ、とアイリーンは自分をたしなめる。
冷静さを欠いてはならない。たとえ親しい人間が絡んでいようとも。
親しい人間だからといって、無条件に信用していいわけではないし、とそこまで考えてアイリーンは軽く額を抑えた。
数日前のカーラの報告を思い出したのだ。
「デール侯爵家のディランが、保守派のナサニエル伯爵の令嬢ネロリーと急接近している模様です」
それはアイリーンにとって、まさに青天の霹靂だった。
いや、本当は春にもそれらしき噂はあったし、このところのディランの様子はおかしかった。
建国祭の花が届かなかったことといい、ファレルたちが内々に会おうとしてもすれ違ってしまうことといい、これまでの彼には考えられないことだった。
けれど、まさかそんなことは、とうち消し続けてきたのだ。
「ネロリー嬢は、どんな方だったかしら」
アイリーンは、自分の声が妙にか細いことに気付いてしまった。
ディランが他の令嬢と浮き名を流していると聞いて、自分は腹を立てることすらできずにこんなに弱ってしまっている。女王になろうとしている人間がなんとふがいない、とアイリーンは自嘲したが、唇はかすかにも上がらなかった。
カーラが気遣わしげに見ながら、言った。
「ネロリー・ナサニエルは20才です。彼女は中等部にしか通っていないので、私たちと面識はないですが、ナサニエル家の末娘で伯爵のお気に入りだということです」
カーラが見ている。ジゼルも見ている。
それを意識しなければ、今にも口が勝手に動いて、彼女の容姿は、性格は、とはしたなくも政局と関係のないことを問い詰めそうだった。
カーラは親友だけれども、今アイリーンとカーラは王女とその侍女として話をしている。この報告はあくまでも王女を支える柱に欲しかった文官の動向を知らせるものにすぎない。
だから、ネロリー嬢が金髪か黒髪か、美人なのか可愛らしいのか、そんなことは今、関係のないことなのだ。
アイリーンは扇を広げ、その陰で大きく深呼吸した。
「・・・では、その女性と親しくしているということは、ナサニエル伯爵とも接触があるのかしら」
そう、聞きたいことは他に五万とあっても、今聞くべきなのはこういうことだ。ディラン・デールがすでに保守派に取り込まれているのか、それとも二十歳のネロリー嬢と浮き名を流しているに過ぎないのか。問題はそこだ、と自分に言い聞かせる。
「今のところ、ディランが接触しているのは、ネロリー嬢とその友人達だけのようです」
「・・・そう」
アイリーンは複雑な思いで頷いた。
それでは、ディランが保守派に取り込まれたわけではないということで、それは、ディランが個人的にネロリー・ナサニエルと交友を深めているということだ。
その衝撃は、微笑みを作り慣れたアイリーンでも1日中扇を閉じられないほどだった。
アイリーンは思い出しただけで、口角が震えそうになるのを感じて、素早く茶器で隠した。
「・・・甘いものが食べたいわ」
エレノアに頼んだチョコレート。
それはディランがよく届けてくれたチョコレートで・・・気に入ったと言ったらしつこいほど持ってきてくれていたその味を、アイリーンはここしばらく口にしていなかった。
それをゆっくりと食べて、その間に彼からなんの音沙汰もなかったら、そうしたらいよいよこちらから動こう。アイリーンは静かに決意を固めた。
ディランに、真意を問いただそうと。
エレノアの様子がおかしい。
ハロルドは思った。
そのことに気付いたのは数日前、引き上げの日のことだった。様子がおかしいこと自体は珍しくないが、その内容が気にかかっていた。
ハロルドが荷物を持つのを拒否したり、いつもよりわずかに距離が離れていたり、それから昨日も。
引き上げの翌朝、ハロルドはイングラム家から出勤した。
王宮の前で偶然エレノアに会うことができて、魔法省とエレノアの向かう通用門との道が分かれるまでを一緒に歩いたのだ。わずかな距離だが、朝から彼女の可愛らしい姿を見ることが出来て、ハロルドは幸運に感謝した。
「エレノア」
名前を呼べば、振り返った彼女の焦げ茶の髪が柔らかに額の上で動き、同じ色のまつげに囲まれた紫の瞳が見開かれた。
本人が昔から、「栗色ですらない焦げ茶色」に「碧眼と言えない紫色」だと嘆いていることは知っているが、ハロルドはこの色彩を好んでいる。黒より優しい焦げ茶の髪は彼女のうなじや額を一層白く見せるし、優しい紫の瞳は彼女の清楚な印象によく合っている。
しかし、この日、エレノアはぎくしゃくと微笑むとすぐにその瞳を伏せてしまった。
基本的にエレノアは、相手に含むところがありでもしなければまっすぐに目を見る子だ。その紫の瞳いっぱいに感情をたたえて見つめられると、ハロルドは幸福感に包まれる。幼少期に自分の至らなさから彼女に目を逸らされ続けていたことがあるからなおのこと、まっすぐ向けられるその目が心地よく、愛しいのだ。
それが、すぐに逸らされてしまったことに、ハロルドは密かに衝撃を受けていた。しかしそんな動揺を人前でさらすこともできず、平静を装って家族のことなどを話しながら歩いた。
そして大柄な騎士達が剣を持って側を通りすぎたときだった。
ハロルドはいつものようにエレノアを自分の陰にいれようとそっと肩に触れたのだが、そこで彼女がびくんと大きく震えたのだ。
こんなことは今までになく、以前うっかり嫉妬にかられてエレノアを壁に押しつけてしまったあとでも、彼女はわりとすぐにけろりとしていた。そのため、ハロルドはとても驚き、同時にこれはおかしい、との思いを強めた。
おまけに彼女はその後、白い頬を真っ赤に染めてこう言った。
「あの、あのね・・・私、もう子どもではないの」
「そう思っているけど」
ハロルドは何を突然、との思いで応えた。むしろ愛しい女性だからこそ、万が一にも武器にぶつからぬようにと思っているのに。
けれどエレノアはさらに続けた。
「だから、あの、気をつかわなくて、大丈夫よ」
「気をつかっているつもりはないけど」
「そう、なの?」
そう言った彼女はまるで渾身の一発が不発に終わった魔法使いのような顔で、ハロルドの中の疑惑はさらに深まった。
しかしそこで道が分かれ、ハロルドは彼女を問いただす時間がないことを残念に思いながらも仕事に向かわねばならなかった。
それから、1日考えた。
ハロルドの出した結論は、考えたくはないが、エレノアは自分を避けているのだろうというものだった。
そんな想定で物事を考えるのは非常に不本意だ。
それでもしかたなしに原因はなんだろうと考えれば、思い当たることはいくつかあった。
まず、あの夜会のことだ。エレノアは覚えていないといったが、それを思い出したとしたら。煽られたとはいえ、あれは無理矢理だった。無理矢理、恐らく初めてであろうエレノアにあんなふうに口づけてしまったのだ。間違いなく自分はひかれ、怖がられるだろう。
それとも、考えたくないが、他に気になる男ができてそれで自分を遠ざけたいのだろうか。
ぎり、と奥歯が鳴る。想像だけでこんなに気を高ぶらせてどうすると自分をたしなめるが、沸き上がる嫉妬はどうしようもなかった。
確かめるしかない、とハロルドは考えた。エレノアがおかしいのは、思い出したせいなのか・・・思う相手ができたのか。どちらにしても自分にとっては苦しい状況である。しかし、このまま理由がはっきりしないままにはしておけない。
幸い、彼女は隠し事が下手だ。
「早めに話しをしにいかないと」
ハロルドは、どうやってエレノアの真意を探ろうかと考えを巡らせた。
前回から、エレノアの愛読書が変わりました。




