過去の人~エレノアの場合4
【過去の人・続き~
「シーラ様とフリアン様が、抱き合っていらしたらしいわ」
「まあ・・・やはり、フリアン様はあの方が忘れられないのね」
「シーラ様も今はお一人らしいし、今度こそ一緒になるのかしら」
噂は瞬く間に広がった。屋敷で働くユリアの耳にも、当然それは届いた。
キスをしてくれたのに。ご褒美だと、馬車でデートに連れ出してくれたのに。
あんなに甘いキスだったのに、情熱的な口づけをくれたのに、それも全部まやかしだったのだろうか。
いつか投げつけられた言葉が、ユリアの脳裏に蘇った。
「・・・私は、シーラ様の代わりだったの・・・?」
シーラの物憂げな美貌が浮かぶ。それだけでユリアの胸の中をどろどろとしたものが渦巻く。
シーラがフリアンの力強い腕に抱きしめられている姿を想像する。ユリアは心臓から血が吹き出すような痛みと、憎しみと、悲しみに、ただただ涙を流した。
「やめて、お願い。フリアン様を連れて行かないで・・・」】
翌日目を覚ましたエレノアは、酒を飲んだ後のことをほとんど覚えていなかった。ただ、なぜかあれ以来胸がおかしいことに困惑した。
「これが世に聞く、二日酔いというものかしら・・・」
エレノアは痛む胸を押さえた。
不思議なことに、胸の痛みはハロルドの姿を見ればさらにじくじくと強くなった。
そのため痛みに疲れたエレノアは、
「私、もう二度とお酒を飲まないわ」
とハロルドに宣言した。
彼は酷く複雑そうな顔をしたが、エレノアが記憶がないことを白状すると、がっかりしたようなほっとしたような、さらに不思議な顔になった。
そのわけを問いただしたいような気もしたが、エレノアの方も胸の痛みを堪えるのに忙しかった。
そして密かに、ハロルドと少し距離をとろう、と思っていた。
ちょうど、あと7日もすればこちらでの活動も終了し、一度王都に引き上げる。その頃にはこの二日酔いも治るはずだと、エレノアはそう思っていた。
残りの日々は慌ただしく過ぎていった。治癒院が一度閉院することを聞きつけた市民が治癒を求めて集まったこともあるし、皆やり残した仕事を片付けようとしていたこともある。
エレノアは唯一治癒魔法に成功した若者に、持続力をつけるため、効率良く魔力を制御する特訓を繰り返し行った。
その結果、最初はほんの少しの魔力回復を行うだけでへばっていた彼も、少しずつ治癒できる時間が延びてきた。
「練習次第で、まだまだ持続力が伸びると思います」
そう告げたエレノアに若者は嬉しそうに笑い、それから打ち明け話をするように口を開いた。
「私は国土でも使えない奴だといつも言われていたんです。だから、自分に出来ることが見つかって、本当に嬉しいです」
ありがとうございますと晴れやかな顔で言われ、エレノアは首を横に振った。礼を言いたいのはエレノアの方だった。
他の魔法使いたちが成功しない治癒魔法にやる気を失っていく中、彼だけはひたすら熱心に取り組んでいた。向き不向きも当然あるが、その根気がなければ成功もなかっただろう。
彼の成功はエレノアにとって希望だったし、その後の上達は普及計画全体にとっても大きな意味があった。治癒魔法に膨大な魔力はいらず、むしろ制御に成功した人間の魔力量が少なかろうと、それを効率よく使う特訓をすれば持続力を伸ばしていけることを示せたのだ。
若者はこれからも自主的に特訓を続けると宣言し、エレノアの最後の指導は終了した。
エレノア以外の人間も皆忙しく、領内の結界の最終点検に出ているハロルドなどは、夜会明けの朝以来ほとんど姿が見えない。エレノアは自分で避けようとしておきながら、こうしてすれ違う時間が長くなるとそれはそれでもやもやとしたものが込み上げるのを感じた。
そんな中だった。
治癒院を閉め終わり、夕食を取りに行こうと廊下を歩いていたエレノアは、ジリアンに呼び止められた。
「さっきいいもの見ちゃった」
ジリアンが顔を赤らめて言ったので、エレノアはなあにと尋ねた。
ジリアンはそっと左右に目をやって周りに人が居ないことを確かめると、声をひそめて言った。
「ハロルドとリリー嬢が、物陰で抱き合って、キスしてたんだ」
その途端、胸を支配した感情を、なんと表現すればいいのだろう。心臓が破裂しそうな勢いで鳴り響き、すっと指先が冷たくなった。
エレノアは顔色を変えたらしかった。
ジリアンが彼女の顔を見て、
「あ、ごめん。やっぱり家族の色恋ってショックだった?」
と謝ってきた。
「いいえ。でも少し驚いたわ」
エレノアは自分の声が淡々としゃべるのを聞いた。それから声は、部屋へ戻ると言い、ジリアンの姿が視界から消えた。
そして気づいたとき、エレノアは自室にいた。
何にショックを受けているのかしら、とエレノアは考えた。ジリアンが言うように、家族が抱き合っていたと聞いたことだろうか。それとも、ハロルドが抱き合ってキスをしていたことだろうか。
自分で自分が理解できなかった。なぜ、さっきから胸が押しつぶされるように苦しいのか。その上鼓動のたびに血が噴き出しているように痛いのは何なのか。
驚いただけだとジリアンに言ったけれども、それならそろそろ脳が働きだしてもいいのにと。
不鮮明なまま視界が動き、その隅に茶色の表紙が映った。毎晩少しずつ読み進めてきた小説だ。それを目にしたとき、雷に打たれたようにエレノアは全てを悟った。
そう、エレノアはとうとう自覚した。
今胸が痛いのは・・・いや、ここ最近ずっと胸が痛かったのは、疲労のせいでも二日酔いのせいでもないと。
自分はハロルドのことが好きなのだと。
自分はあの金髪の少女に嫉妬したのだと。
今の自分の有様が、まるで主人公が「思い出の君」シーラに嫉妬した場面のようで、エレノアは気付いてしまった事実に身を震わせた。
現実は、なんと残酷なのだろう。
たった今自覚したこの恋は、気付いたと同時に終わってしまったらしい。
「・・・ハロルドは、リリーと・・・」
呟いただけで喉が詰まり、熱いものが込み上げる。
思いはユリアと同じでも、エレノアの立場は、すでに主人公ユリアではなかった。今のエレノアは、ユリアと恋人の間に立ちふさがる、過去の女性シーラなのだ。
不鮮明だった視界に水の膜がかかって、それが溢れて頬を滑り落ちた。
「なんて、馬鹿なの・・・」
エレノアは嗚咽を堪えながら鈍い自分を責めた。
好きだと気付いたときにはもう断った後、それもハロルドに新しい恋が始まった後だなんてと。
一度目の婚約が駄目になった後、あれほど泣いて後悔したというのに、自分は、また気付くのが遅すぎたのだ。
そうして振り返れば、後悔は次々溢れ、後からあとから頬を伝ってこぼれた。
もとはと言えば、一度断ったくせに彼を恋愛対象として見た自分がおかしかったのかも知れない。
いや、それ以前にどうして、求婚が好意からだなどと思い上がったのだろう。
貴族同士の結婚が家の結び付きのためであることなど、分かりきったことだったのに。ましてやガーラント家とイングラム家にとってそれは心情的にも悲願であって、養子のハロルドがその達成に義務感を覚えるのは立場的に当然のことなのに。
舞い上がっていたのだ。
それがハロルドからの申し出だったから。
エレノアが無意識に彼を好いていたから。
「本当に、馬鹿ね・・・」
恥ずかしさと惨めさが、また頬を濡らしていった。
ハロルドは別にエレノアを好いて婚約を申し込んだわけではなかったのだろう。もともと家族だったし、家のためなら口説いてもよいくらいには思っていたのだろうが、それはリリーに会う前の話で、過去のことだ。
リリーはハロルドよりいくつか年下で、可愛らしい美少女で、おまけにリリーとハロルドが抱き合ってキスしていたということは、つまりはそういうことだ。
エレノアはその日、ずっと読み進めてきた机の上の小説を、トランクの奥底にしまった。
翌日も、噂は施設内の食堂など他の場所からもエレノアの耳に入ってきた。
また、一度気付いてしまえば、彼のどんな行動が自分を恋に至らしめたのかも思い知らされた。忙しくて顔も会わないのに近くの店から届けられる昼食も、それが自分の好きな鳥料理なことも、エレノアの胸を締め付ける。
そのたびに人前で涙を溢れさせるわけにもいかず、エレノアは常に侍女の仮面を身につけることで、それを乗り越えた。
夜ごと涙で濡れた袖は干せば乾くし、毎朝腫れ上がったまぶたはタオルと魔法で治癒することができる。しかし胸の痛みはなかなか癒えず、どこかに失恋の乗り越え方が書いてある本はないだろうか、とエレノアは考えていた。
幸いなことに皆慌ただしく、相変わらずハロルドは領内を飛び回っていて会わずにすんだし、他の人間も人の様子を細かく詮索するような暇はなかった。
それでも、隠し事が通用しない相手というものはいる。
「浮かない顔だな」
「ファレル様・・・」
もともと人の表情よりも、彼にだけ見える魔力の動きで人を判断している彼には、完璧な微笑も役には立たなかった。
引き上げ準備にかかり、責任者であるファレルも方々への挨拶に忙しい。今もクリスがちらりと時計に目を走らせたことにエレノアは気付いた。
「何かあったか」
エレノアは何もありませんと首を横に振った。忙しい人を煩わせるようなことは、本当に何もない。
「そうか。それならばいいが」
そう言って頭を撫でようとしたファレルは、直前でびくりと身を固めたエレノアに片眉を上げると、その手を下ろした。
そして書類を持っていた反対の手をあげると、紙筒で彼女の頭をぱこんと叩いた。
もしかしたら、とエレノアは去っていくファレルの後ろ姿をぼんやり見送りながら考えた。
もしかしたら、ファレルはハロルドの噂を知っていたのだろうか。あの有能なクリスがついていることを考えれば、そう考えるのが妥当に思われた。




