突然の客人~エレノアの場合3
リリー・ホールデンの来訪後、エレノアは胸の痛みを誤魔化すように仕事に没頭していた。
ちょうどそのころまた会議がもたれ、そこで文官に言われ放題言われたせいもある。
「力の弱い魔法使いにしか指導が成功しないのは、自分より優れた魔法使いに治癒魔法を教えたくないからではないのか」
「いまだに女子どもにしか施術を受け入れられていないとは」
このような非難を受け、エレノアは空き時間ができればハーディのまとめた実験結果を読み込み、指導の問題点を探そうとした。
「嫌な思いもするのに、よく続くね」
ハーディに言われ、エレノアは首を傾げた。
「嫌な思いですか。ああ、文官の方々のことでしょうか」
「それもあるけど、他でだっていろいろ言われるでしょう。よく頑張れるよね」
確かに、患者からも『小娘の治癒など受けられるか』と言われるし、駐在員達の中にもエレノアをよく思わない者はいるようで、朝食時などに一緒になると嫌みを言われることがある。
何故そんなに頑張れるのかと聞かれ、エレノアは考えた。
きっと、自分は自意識過剰なのだ。昔から兄弟に負けたくないと思い続けてきて、今もまだ周りの人々の目に映る自分はこうありたいという欲がある。もともと逃げ癖のある自分だが、それより強い欲が、こうして背筋を伸ばさせているのだろう。それから。
「元気の秘密は、侍女が持たせてくれたチョコレートでしょうか」
「エレノア嬢、意外と食いしん坊なんだね」
にっこり笑ったエレノアに、ハーディもまた笑った。
しかしハーディは見抜けなかった。それがエレノアにとって、家族の労りの象徴であるだけでなく、日中の携帯食料でもあることまでは。
そう、アンの持たせてくれたチョコレートは、食べる間も惜しいエレノアの最高の非常食だったのだ。
彼女が昼食もとらずに仕事に没頭していたことに気付いたのは、ハロルドだった。
彼は文官の訪問と入れ代わりでしばらく王都に呼び戻されていたが、自分の留守中エレノアが誰にも昼食の買い出しを頼んでいなかったことを知ったのだ。
「どうして気付かなかったんだ」
「文官がいる間は近づかないようにしていた。すまない」
ファレルを責めたハロルドが苦い顔で謝られたことは、彼らとクリスだけしか知らない。
「ところで、ディランの方はどうだった」
この言葉にハロルドのただでさえ不機嫌だった顔はさらに難しいものになった。
「会えなかった。正式に申し込んでも断られた」
「・・・そうか」
ファレルはそれだけ聞くとハロルドを下がらせたので、ハロルドはその足で外出し、エレノアに栄養のありそうな鳥と野菜のクリーム煮や果物を昼食として買ってきた。エレノアが昼食を抜いていることに気付かなかったことを申し訳ながったジリアンもまた、サンドイッチを差し入れてきた。
しかしすでにチョコレートで小腹を満たしていたエレノアは、笑顔で礼を言いながらも、書類から手を離さなかった。
「ありがとう。でも、今は手を離せないの」
挙げ句、もったいないから夕食に頂くわなどと言い出したのだ。
「エレノア。食べないと体を壊すよ」
ハロルドは眉間に皺を寄せた。エレノアは小さく肩をすくめると、手近にあったサンドイッチを口にした。
このときエレノアがハロルドの顔を見ていれば、何か違うことができたかもしれない。
しかし、彼女はただ残り少ない休憩時間に食べ物を咀嚼しようと集中していた。そのため、ハロルドが秀麗な顔を極限までしかめたことに気付かなかった。
「エレノア」
地を這うような低音で呼ばれて顔を上げたエレノアは、そこでようやくハロルドの表情に気付いた。
そして近年まれに見る彼のしかめ面に驚いて、口内の物をごくりと飲み込んだ。
「食べてよ」
彼はそう言って皮をむいたオレンジをつかむと、いささか乱暴にそれを一房取り、そのままエレノアの口に押し付けた。
子ども相手でしかありえないようなその行動に、エレノアは目を丸くして逃れようとしたが、その顎をハロルドの手が捉えた。
「口、開けて」
有無を言わさぬ口調で言われ、なおも呆然と彼を見上げていれば、オレンジを掴んだままの指がエレノアの唇に触れた。その瞬間エレノアは雷が走ったようなしびれを感じ、おののいた。
しかしハロルドは、そのまま器用にエレノアの唇をこじあけると、橙色の果実を彼女の口内に押し込んだ。
ぐちゃりとつぶれた実から果汁が溢れ、口いっぱいに広がった。甘酸っぱい果汁が唇からこぼれ落ちそうになる感覚に、エレノアはたまらずそれを飲みこんだ。
ごくりと喉が鳴る。
時期が早いオレンジは酸味が強く、エレノアは喉に受けた酸っぱさに少しむせた。
ハロルドはその様子に、はっと我に返ったようだった。
「・・・ごめん」
いつかのようにぽつりと謝ると、ハロルドは果汁で濡れたエレノアの唇を急いで自分のハンカチで拭いた。
「ごめん」
なおも自分を見上げるエレノアに再度謝ると、ハロルドは部屋を出ていった。
エレノアはぼんやりと口元に触れて考えた。
なぜ、ハロルドは自分に食べろと言ったのか。それは元・姉である自分を心配したのだろうか。
なぜ、ハロルドはオレンジを食べさせたのか。それは自分が買ってきたものを無駄にするなという怒りだろうか。
なぜ、ハロルドは無理矢理口にそれを運んだのか。それは菓子で昼食を終わらそうとした自分を子ども扱いしたからだろうか。
なぜ、自分の唇は今もまだしびれているのだろうか。
なぜ、足下がふわふわして視界が揺れるのだろうか。
なぜ。
その夜エレノアは、仕事が終わると同時に熱を出して倒れた。




