投げつけられた侮辱~エレノアの場合
【投げつけられた侮辱
「この、薄汚い女狐が!」
「あんたなんて、思い出の君の身代わりでしかないのよ」
ユリアは冷水を浴びせられたようにその場に立ちつくした。
何故見ず知らずの相手にこんなことを言われなければいけないのだろう。自分はただ、彼を愛しているだけなのに。
「ふ・・・くっ・・・」
彼女らが立ち去った後、ユリアの喉からは堪えきれずに嗚咽が漏れた。
「フランツ様・・・」
後から後から溢れてくる涙をハンカチで押さえながら、ユリアは愛する人の名前を呼んだ。】
「エレノア。これ、現地で用意してもらうものの一覧表。足りないものを思いついたら言えって」
廊下で呼び止められたエレノアは、ハロルドから紙の束を渡された。彼は例の如くぎりぎり手が届く距離からそれを渡すと、律儀に一歩後ろへ下がった。
エレノアは敢えてその行動には触れずに言う。
「ありがとうハロルド。わざわざ届けてくれたの?」
「早い方がいいでしょ」
意外と仕事の能率の良いファレルは、次の会議の前にできあがった資料を関係者に回す。予め各々読み込んだ上で会議を行えば、物事がさくさく進むからだ。
侍従達が有能なことも確かだが、ここのところのファレルの仕事ぶりを見ていれば、彼の性格に思うところがあるエレノアも、能力が非常に高いことを認めざるを得なかった。余裕のない日程をどうにか実現できそうなのも、彼の統率があってこそだ。
すでに試行まで二週間というところまできているが、決めなければならないことはまだ山ほどあった。
加えてエレノアも他の人間も、別の仕事を抱えている。今は春の建国祭の準備で王宮中が大忙しだ。
「忙しいのに、どうもありがとう」
「いや。うちは例年どおりだから」
王都の治安維持やショーの運営に関わる彼の部署が、忙しくないはずがない。
それが分かるので、早く戻った方がいいとエレノアの方が焦っているのに、当のハロルドは急ぎもせず先程からずっとエレノアを見つめている。それも、自分で距離を保っているのに、まるで届かない餌を見つめる犬のような目で。これはもう、見つめるというより凝視だった。
「ハロルド?」
切れ長の綺麗な青い瞳にさらされていることにいたたまれなくなって、エレノアは彼の名を呼んだ。
ハロルドはもう一拍たっぷりとエレノアを見つめた後、口を開いた。
「今年はショーの警備を担当するから、少しは顔を見られる」
「そうなの?お互い頑張りましょうね」
そうしてようやく立ち去ったハロルドを見送り、エレノアは道を急いだ。アイリーン達を待たせているかもしれなかった。
しかし歩き出したのもつかの間、今度は見知らぬ侍女に道を塞がれた。
こういうことは過去にもあったし、ファレルとの噂が流れて以来また増えてきている。
そのためエレノアは落ち着いて言った。
「通していただけますか?」
聞こえないふりをする侍女に、エレノアも気にせず突き進むことにする。カーラに教わった各種撃退法の中から人目がない場合の対処を選んだのだ。
わざと少し大股に踏み出せば、大抵の令嬢はひるんで一歩下がる。その隙にエレノアは彼女の傍をすり抜けるようにして通り過ぎた。
エレノアの思惑通りに道を譲ってしまった侍女は、悔し紛れに後ろから侮辱の言葉を投げつけた。
「ファレル様やハロルド様と一緒に仕事をしているからって、いい気にならないでよね!」
出された名前に驚いて立ち止まれば、彼女はさらにこう言った。
「貴方のような大して綺麗でもない女が、あの方達に相手にされるわけがないわ」
「・・・ご高説拝聴いたしましたわ。ご機嫌よう」
往来で見ず知らずの人間を捕まえて罵声を浴びせる品位のない人間は相手にされるの、とは内心に留める。こういう手合いは相手にしないというのもまた、カーラの教えの一つだった。
綺麗でもない、はもう言われ慣れた。一年前は『地味』だ『平凡顔』だと言われていたことを思えば、自分も出世したものだとエレノアは思った。それにいい気になるも何も、自分は彼らにふさわしくないという理由で求婚をお断りした身だ。彼女の非難は的が外れている。
ただ、不覚にも立ち止まってしまったのは、王子であるファレルだけでなく、ハロルドの名前も出てきたからだ。あまり意識したことがなかったが、考えてみれば有能で美形、おまけに伯爵家の跡取りに収まった彼を令嬢方が放っておくはずもなかった。
ハロルドももてるのね、とエレノアは心の中で呟いた。
少し遅くなってしまった分をなんとか手際で取り戻し、エレノアは王女の間に戻った。
それでも鋭い先輩方にはお見通しだった。
「いつもより時間がかかったみたいね。何かあったの?」
先輩のカトレアに声をかけられ、エレノアは詫びた。
「ごめんなさい。会議の資料を受け取っていたのと、少し絡まれたのとで、遅れてしまいました」
「大して遅れてはいないわ。大丈夫だった?」
カトレアはそう言って、うなずき返したエレノアから荷物を受け取った。
エレノアが持ってきたのは、王女の装飾だった。
建国祭では王族が建国当時を再現した式典を行う。そのときに王女が着るドレスは、その年一年の流行を作ると言われているほど注目度の高いものなのだ。当然国随一の仕立屋が時間をかけて作るのだが、アイリーンにはいくつかのこだわりがあった。
一つは、身動きがしやすい形であること。これは自分のドレスが国中の女性の主流となることを踏まえている。事実アイリーンのおかげで、ここ数年のドレスはコルセットで締め付けなくてもよかったり、幅をとりすぎなかったりとエレノアも大変楽な思いをしている。
もう一つは、靴や首飾りなどの装飾はできるだけあるものを使うこと。国家の財源には限りがあるというのが王女の主張で、彼女は遠目に見えない小物まで作る必要はないと切って捨てる。そういうわけでエレノアはアイリーンの靴の候補を運んできたのだ。
ちなみにもう一つのこだわりは、大きめの物入れがついていることなのだが、これについてはすでに仕立屋が解決しているはずだ。ある物を持ち歩きたいアイリーンの要望は仕立屋になかなか伝わらなかったが、昨年ようやく希望通りの大きさを実現した。まさか仕立屋はそこにスリッパを入れるとは思っていないだろうが。
アイリーンの今年のドレスは燃えるような赤だ。これまで淡い色彩が多かったのでそう言えば、
「成人したからよ」
とあでやかな笑みを浮かべた。その美しい笑顔を見て、エレノアは何気なく呟いた。
「ディラン様も絶対見とれてしまうでしょうね」
その直後、アイリーンの顔が真っ赤に染まった。
「べ、別にディランの髪の色だからとか、そういうのではないわよ!?」
エレノアは驚いた。そういえばかの若者の髪色は見事な赤色だった。
「申し訳ございません」
「怒ってはいないわ。でも、急にからかうのだもの」
からかったつもりはなかったのだが、まだ赤い頬をして唇を尖らせた王女があまりに可愛らしかったので、エレノアは思わず笑ってしまった。
「もう、エレノアったら・・・わざわざ資料を届けてくれたのは誰か、聞いてもいいのかしら?」
仕返しとばかり軽く睨むようにしてアイリーンが言ったが、エレノアはよく理解しないまま答えた。
「はい。ハロルドです」
ふうんと意味ありげに笑ったのは王女だけではなかった。その複数の生暖かい視線を受け、彼女はようやく頬を染めた。
「あの、ただ、早い方がいいというだけで」
「そうよね、早くしないと他の人がエレノアに届けてしまうもの。忙しいでしょうに、少しでも会いたかったのね」
「違・・・」
「このままだとファレルが可哀想だし、ちょっと綱を緩めてあげようかしら?エレノアの現地入りも無事決まったことだしね」
「あの?」
ふふふと笑うアイリーンをエレノアが止められるわけもなく、この責め苦は見かねたカトレアが衣装決めを急かすまで続いたのだった。
その後も何度かエレノアは廊下で妨害にあったが、誰も『薄汚い女狐め』と言ってくることはなかったためか、エレノアがヒロインよろしく泣き崩れる事態には陥らなかった。
ただその頻度に、意外にハロルドやファレルの人気が高いことを知り、驚くエレノアだった。
廊下でわざと飲み物などをかけられるのは困りものだったが、鍛えた亀で身を守れば、令嬢達も引きつった顔で逃げていく。
「亀万歳ね」
「ええ。亀様々よ」
そう言ってカーラと笑い合ったこの時は、エレノアにもカーラにも、まだまだ余裕があったのだ。
なかなか甘味成分が発生せず、すみません。この後現地入りするとファレルもエレノアに接触可能になるので、動きがあるはずです。




