夜明け前の楽園 3
森田がひきつった笑顔を院長に向けた。
「今年は酔っ払っていきなり“ギリシャ神話カフェに変更するわ!”なんて言わないで下さいね」
「あら、アタシそんなこと言ったかしら?」
「去年言いましたよ。ご友人との飲み会の後、私の携帯にかけてきて…。白いキトンと月桂樹の冠を用意して! と」
「…覚えてないわ…。それも面白そうだけど」
眉間にシワをよせて思い出そうとする院長に、森田はそれ以上は突っこまず準備を進めていく。
院長は力強くこぶしを握りしめ、昔の苦労をしぼりだすかのように戦慄いた。
「思えば、小学生の頃にギムナジウムや旧制高校の漫画を読んで、そんな世界に憧れて“友達以上というよりむしろ恋人”な雰囲気の美青年たちが接客するカフェを作りたいと願い、社会に出てから死に物狂いで働き、気づけば婚期も逃して、やっと念願のカフェを経営して八年。今や乙女たちの夢の談話室としての地位を不動のものにしたわ…」
一転して院長は、ミュージカルスターよろしく両手を広げて、森田に笑顔を向けた。
「次の企画が成功すれば、『カフェ・ギムナジウム』和カフェ版として新店舗も考えてみるのもいいわね!」
森田のキーを叩く手が止まる。
「院長、その前に学院の増設の問題が残っておりますが…」
院長は椅子に座り頬杖をつくと、今度は羽根ペンをいじり始めた。
「そうね…休日ともなると店の外で待つお客様の長蛇の列ができて、二号館ではマナーの悪い人が道路にはみ出して危ないって、警察から注意を受けたばかりだし」
「両隣が空き地なら買い取って増設もできますが、繁盛しているコインパーキングと医院ですからね」
「となると、この建物を三階建てにして、二階を客席に改装…。建築基準法はクリアしてても、改築工事の間は授業ができないし、費用もかかるし、頭が痛いわ~」
現在、『カフェ・ギムナジウム』はこの本館と、もう一軒『二号館』がある。どちらも繁盛していて、客席が足りないという嬉しい悲鳴だ。
だが、増築となると費用もかかり、生徒や教授を増やさなければならない。
乙女たちの禁断の聖地――ギムナジウムの談話室。
煉瓦の暖炉の中では薪がはぜる。ラテン語の宿題、ギリシャ哲学、フランス文学――あれこれ議論しながらクラスメイトと楽しむ紅茶と焼き菓子。だが彼らは学問よりも、退廃的な恋に悩む。
そんな危険で甘い香りの檻。
だが、事務関係では資金繰りや経営に、院長が悩む。
さらに数日後、泥酔した院長に「今年はヴァンパイア・カフェに変更よ!」と言われ、森田も悩む。