翌日
懐かしい匂いがする。
私は誰か知っている。
知っているのに、思い出せない──
「……ヨ、イヨ……イヨ!」
自分の名前を呼ぶ声でイヨは目が覚めた。
どうやらいつの間にか眠っていたのだろうか、横たわっているのは冷たい床ではなくベッドのようだった。
まだ頭はぼんやりとはして眠気はあるものの、体を起こして声のしたほうへと顔を向ける。サナが深刻そうな表情でこちらを見つめていた。
「サナ……どうしたの? もしかして私遅刻?」
「違う、違うよ。出たの、赤い怪盗が!」
「えっ?」
一気に眠気が覚める。頭の中のぼんやりも消え去って、イヨはそこで昨晩の事を思い出す。
図書館での忘れ物、赤い瞳の少女、謎の地下への階段、そこであの少女は何か言葉を、それから自分はどうして此処に?
「私、いつ此処に……?」
「ん、わかんない……私もすぐ寝ちゃってさぁ、気づいたらイヨってば戻ってきてて寝てたんだもん……じゃなくて! 大変だよイヨ。ついに盗まれたんだって!」
「え、何が?」
聞くまでもなかった。銀髪の少女──セリカが握っていた炎のように赤いエクラ。自分はそれを目撃していたのだから。きっと彼女は、ずっとあれを目的に探していたのだろう。
「エクラだよ。それも普通じゃないエクラなんだって。……詳しくは知らないけど、あの図書館、地下室があってね。それが軍の研究施設と繋がってたみたい。そこに希少価値のあるエクラが保管されてたみたいなんだけど……」
「希少価値……」
サナは、そこら中からかきあつめてきたらしい情報を次々と口にする。
「ほら、第一研究所で赤い怪盗でたでしょ? だからこの学院内も昼はともかく、夜は厳重に警備してたらしいんだけどさ……イヨ図書館付近で見かけなかった? あ、そういえばエクラは?」
そういえば、警備している軍人なんて一人も見かけなかった。セリカがその警備を片付けてしまっていたという事だろうか?
思い出したようにエクラの事をきくサナに、ようやくイヨもエクラの事を思い出して、そのまま眠ってしまったせいかしわがついた制服のスカートのポケットに手をいれる。
硬く冷たい感触。取り出してみると、たしかに自分の練習用のエクラが入っていた。
「あ、あったんだ。……もしかして図書館、あいてたの?」
「ん……ううん、どうやら最初からポケットに入ってたみたい。それでドッと疲れが出ちゃって……だからその後の記憶がないんだわ」
イヨは、何故か昨日の夜の事を話す気にならず、そう苦笑いを浮かべてこたえた。
──
朝食を終えて、最初の授業を受けるために教室へと移動する。
事件のせいか、生徒たちのざわめきや雰囲気も今日は違う。耳にはいってくる話題は、全て「赤い怪盗」の話ばかりだ。研究所がここの図書館に繋がっているという事も余計に話になるのだろう。とはいえ、学院が晶術に関する場所なのだから"そういった"ものがあっても、よく考えれば変な話でもないはずだとイヨは思っていた。
教室へ移動はしたものの、始業のベルがなっても教師はなかなかあらわれなかった。
静かになっていた教室も時間が経つにつれ赤い怪盗の話でざわめきはじめる。なかなか盛り上がったところで、ようやく教師が入ってきた。晶術基礎学担当のラトだ。オレンジ色のネコのようなクセッ毛が特徴的で性格も明るく授業も分り易いと評判が良い。あっというまに生徒たちも静まる。
「はーい、静かに。遅れてごめんなさいね! 皆ももう知ってると思うんだけど……」
一旦そこで言葉を切って、ラトが生徒たちを見回す。
「此処でちょっとした事件がありました。その関係で……少しの間だけ授業はお休みになります。遅れたお知らせになってごめんなさいね! 皆も本当は授業をしたかったと思うんだけど……」
どこからもれたのかは判らないが、あっという間に広まってしまった事件。ちょっとした、で表現ではしきれないような出来事だが教師側としてはあまり公に言わないほうが良いと判断したのだろうか。
それよりも休みになる、という言葉にざわざわとする生徒たち。「お休みだって!」「なんか夏休みがのびた感じだよなぁ」という喜んでいるような声が聞こえてくる。
しかしラトが静かに、という意味で片手をあげると再び生徒たちは静まった。
「そこで、皆さんに課題をもってきました! 全教科分、もってきてますので、お休みの間はこれをしてくださいね!」
ラトが満面の笑みを浮かべてずっしりとした紙の束を教卓へあげた。
どうみても一人の女性がもって運べる量ではないが、これもまた晶術によるものだ。
生徒たちが再び騒がしくなる。が、それは喜びによるものではなく、どんよりとした暗いものだった。