彼方のオブリビオン
いつの事だったろうか。
小さく呟かれた「さよなら」。
それを聞いて、たまらなく胸が痛くなった。
僕が――。
何て言おうとしたのか。はたまた、何かを言ったのか。
僕が――。
思い出せない、遥か彼方の話。
※
拳は確かに殴打した。感触がある。
しかしそれは、俺が狙った相手では無く、
「死に急がないで」
俺とウラの間に介入した、何者かを打っていた。
冴え冴えとした声は俺を落ち着かせるには十分で。その癖、ウラの拳を受けて溶けていく姿が俺を激昂させる。
「――!」
けれどそのまま俺を殺す事も出来たであろうウラは、素早く後ろへ退いたのだった。
「残念だよ、そのまま果敢に攻めていれば、その首を刎ねてやったのに」
その声に振り返ろうとするより速く、思い切り引っ張られ尻餅をついた。
俺の前に現れたそいつは、怖じた様子もなくウラと正対する。
「よ、久しぶりだね融解犯さん」
「……やっぱ生きてやがったか糞ッたれ。放っといても死ぬと思ったんだがなぁ」
「僕ってば、頑丈だからね。殺したかったら殺そうよ」
二人はまるで世間話でもするような軽々しさで言葉を交わす。
そして。
「相変わらず容赦が無い融解犯さんは怖いから、ここは一時撤退するよ」
透徹とした声は、ウラに堂々と投げつけられ、
「いいや、駄目だねお断り。お前はオレが、今ここでそいつと一緒に殺す」
ウラはその提案を唾棄して嘲笑する。
俺はというと、情け無い事に立ち上がる事すら出来ていなかった。爆発した感情に動かされていた俺が、一度冷静になってしまえばこうなるのは当然といえば当然か。
「じゃ、そういう事で。僕帰る」
しかしそれでも気にせずに、背を向け俺に手を伸ばした。
「一旦退こう。立てる?」
「あ、あんたは?」
「僕? 僕はね、夕歌の唯一の友達さ」
砥傾の唯一の友達――透明ちゃん。ああ、言われてみれば昨日俺を襲った奴と同じ顔だ。決定的に違うのが、目には柔和な光が灯っている所。
「昨日は、どうも」
その手を掴んで立ち上がり、皮肉を込めたお礼を言う。透明は申し訳無さそうに頭を掻いた。
「そんで、今。ありがとな」
「いやいや、これぐらいは」
「おい、無視すんじゃねえよ」
ウラが不機嫌そうに俺たちを睨み据える。
振り返りつつ透明が指を鳴らすと。
「行け」
どこから現れたのだろうか。
無数の透明が、ウラを囲んでいた。
「ぼん」
問題無いとウラが前方の透明を薙ぎ払おうと駆けた時。透明の小さな小さな呟きが、俺にだけ届いた。
――同時。
「な、が!?」
轟音が響き、驚愕するウラが後ろに跳んでいた。
やがて煙が舞い上がり、その姿すら隠れてしまう。
「爆発仕込み、あと数十体いるけど頑張って。死にはしないでしょ」
あはは、と子供の様な笑みを湛えたあと、あっけらかんとする俺の手を握った。
「さ、一度逃げようか。備えてきたけど限界は近い」
額に脂汗を滲ませながら、走り出す。歯噛みしつつ、俺は透明を追いかけた。
※
「はあ……あ……はあ」
「だ、大丈夫か?」
急いで路地を飛び出ると、人に見つからないよう自転車を回収して逃げた。
簡単には見つからないようにと多くの廃墟が乱立する場所へやって来ている。
「お前、顔色悪いぞ」
明らかに体調を崩していく透明。逃げれば逃げる程、その顔色は悪くなる。
「……気にしないで。直によくなるから」
適当に入った建物の中で、壁にもたれて身体を休める。透明の乱れていた呼吸も落ち着きを見せ、ようやく俺も安堵した。
「ふう、もう大丈夫。君は?」
「問題ないぞ。ちなみに俺の名前は倉六月。好きに呼んでくれ」
「倉六月? ……そっか、それじゃ倉くん」
砥傾とは対照的に、苗字を選んだ。
初対面なのだから当然か。
「君はいつから夕歌と知り合い? といっても、おおよその見当はついてるけど」
「じゃ、その通りだ。昨日、お前に襲われてから」
「やっぱ、僕、暴走してたんだ……ごめんね」
頭を下げられた。でも助けてもらったわけだし、寧ろ俺が礼を言うべきではないんだろうか。
「油断したんだ。突然背後から奇襲を受けて……能力の関係上、感覚を共有してたから気を失っちゃって」
「それで、暴走するのか?」
「高度なリンクを張ってたから、突然接続が切れてエラーを起こした……のかな」
曖昧に言葉を濁しながら、掻い摘んで説明をしてくれた。ある程度感覚を共有しないといけないらしく、さっきの体調不良の理由もそれだ。
「大体の説明は終わり。次は、夕歌の話だ」
「……あぁ」
それが本題。
今聞くべき、俺が知るべき事。
「昨日僕を襲ったのは間違いなく夕歌、そのウラか。融解犯だ」
「でも、砥傾は俺を――と、そうか。砥傾にウラの記憶は無いんだったな」
「らしいね。だからこそ、それを利用して融解犯は夕歌と倉くんを引き合わせたんだ」
「全ては復讐のため、か」
どんな事情があって、どんな思いがあるのかは分からない。
自分が自分の為に生きれない事、それが気に入らないと言っていた。色んな事が錯綜して、行き着いた場所が――復讐。
復讐に生きている……そういう意味で、ウラと砥傾は類似している。
それが生きる全て。とても、悲しいことだ。
「そう、復讐だ。だけどおかしな点がある。前に殺されかけた時にもあいつと話したんだけど」
「あいつ、お喋りだからな」
「オレは夕歌に絶望を見せて、父親を殺す為に生きてんだ。そう言った」
「……は?」
思考が固まった。
父親、だと? 砥傾は言っていたじゃないか、小さい頃に家も家族も溶けたって。
だから、その為に復讐をしようとしてるんじゃないか。
「何だ、どういう事だ? それはつまり……」
父親は生きている?
そして家族を殺したのは父親で……それをウラは知っている。
家族なんだ、能力が同じだとしてもおかしくはない。黒幕である父親を追っている、そういうことなのか?
様々な憶測が飛び交って、消えて、乱れていく。
だとしたらどうして砥傾を殺さなかったんだ? 娘だから? どうしてウラは殺人鬼になっている。世間の目を集めるためか?
「違うよ」
静寂を切り裂くように、朗々とした透明の声が響く。
迷い無く否定の言葉を吐き出して。
そして。
「その時僕は、聞いたんだ。その父親の名前を。その名前は」
――息を吸って。
「倉六月、君だ」
吐かれた言葉に、俺の思考は今度こそ停止した。