はじまりのダンス
皇太子と侯爵令嬢の結婚式、華やかに飾られた会場には多くの貴族が集まり、祝いの言葉で満ち溢れている。
その壁際で、セナはひっそりと人々に紛れていた。
「僕では君を幸せに出来ない」
そんな言葉を吐いて去った恋人を不意に思い出したのは、きっとこの結婚祝いの空気に酔ったからだ。
振る舞われた花の香りがする蜂蜜酒を口にしつつ、セナはそっと苦笑した。
侍女として家庭教師として、ファンブル侯爵令嬢レイア姫に仕える事かれこれ8年。当年23は世の中の基準からすればすっかりいき遅れた年齢である。現にこの祝いの主役である花嫁のレイア姫は16で、夫となった皇太子は19である。
ここにいるのはレイア姫が姉のように慕っているのを知った皇太子の計らいであり家庭教師だった功績故だった。
「セナ殿、楽しんでいらっしゃいますか」
そう声をかけてきたのは、皇太子の片腕たる騎士。騎士と言うよりは策士じゃないかとセナはこっそり思う、機転の聞いた理知的でセナに対しては皮肉を言う男である。
そういうセナも周りからは『氷の女』と呼ばれているのは充分承知してはいるのだが。
「ええ、マクガウェル様。勿論楽しんでおりますわ。なんと言っても皇太子様と皇太子妃様の晴れ舞台ですもの、喜びで胸がいっぱいですわ」
「そんな他人行儀でなくとも……どうぞエリアードと名前でお呼びください」
にこりと笑うエリアードを、セナは正直苦手としていた。人好きのする物腰や態度の裏には冷徹な一面がある事を知っていたので。
そしてセナに本性を見抜かれているのを知りながら、わざとこうしてまとわりついてくるので。
「まぁ、おたわむれを。私は皇太子妃様付きの侍女とは言え、平民の出……そのように恐れおおい事は出来ませんわ」
こちらもにっこりと、皮肉を込めて返せばますます微笑まれてどうしようもない。
蜂蜜酒を飲み干し、ついでに溜め息も咽下する。
せっかく壁際の目立たぬ場所でひっそりとしていたのに、この男が来たせいで台無しだ。
マクガウェル卿と言えば皇太子の信頼厚き出世頭にして、次期公爵。その彼を狙う女性は多い。
現に今も嫉妬と憎しみと羨望が入り交じった嫌な視線を感じている。
元々こういった華やかな場所は嫌いなのにとまた零れそうな溜め息を飲み込み、もういっそのこと帰ろうかと現実逃避してみる。
が、目の前の男に通じるはずもなく。
「ダンスの時間ですね、お相手して頂けますか?」
いつの間にか軽快な音楽と共にダンスが始まり、主役二人が踊り終わる所だった。
ここで滑り出すように次を繋げなければならない決まりと、皇太子直属のエリアードの立場、ぐずぐずしてレイア姫に恥をかかせる訳にも行かぬことを考えれば、最早逃げ出す時間もなく。
不承不承差し出された手をとって広間に出ざるを得なかった。
「そうしていつも大人しければ可愛いのにな」
ステップを踏みながら周りに聞こえぬよう低くささやかれる。
二人になるとぶっきらぼうな口調になり、本性をあらわすのにもいつしか慣れてしまっている自分がいることに舌打ちしつつ、セナも低くささやき返す。
「冗談、逃げられぬようギリギリに誘いながら何をぬけぬけと」
「よくお分かりで。賢い女は好きだよ」
蕩けそうな甘い微笑みに隠された言葉の真意に、セナは作った微笑みの下で大嫌いだと呟く。
彼にとってセナは都合がいい女というだけなのだから。身分は低く、立場は自身を傷つけぬ程度であり、なにより恋愛の駆け引きをしなくていい相手。
「お互いいいパートナーになれると思わないか?」
「絶対に嫌」
「残念。ま、殿下に言って無理矢理にでも嫁にすればいいか」
「最低。最も身分的に無理だろうけど」
「可愛いげのない女だな」
「……っ、そうでしょうね」
可愛いげのない、女。
嫌味の押収でしかない言葉が胸に突き刺さるのは、かつての恋人のせいだ。
それでも不自然にあいた間を見逃す程この男は甘くない。
「何、俺に可愛いって言って欲しかったの?」
「……いいえ」
ポロリと溢した本音にほぞを噛む。
周りからすれば貴公子の、セナから見れば皮肉でしかない笑みを浮かべるエリアードに、いつになく素直な言葉が溢れてしまったのはそれなりにショックだったからだと、り無理矢理自分を納得させる。
可愛いと言って欲しかったのは、幸せにして欲しかったのは……
「……なんだか、今日は蜂蜜酒を飲みすぎたようです」
苦笑を浮かべれば、エリアードは最後のステップを踏みながら、そうか、と呟いた。
踊り終えた拍手を浴びながら何故かそのままセナの手を離さずバルコニーへ向かう。
「……マクガウェル様?」
「気に入らない。あんたがそんな顔するのも、そうさせたのが他の男だって事も」
唐突に仏頂面で不服そうに言われ、セナは困惑するしかない。
そもそもこんな行動をするような軽率な人物ではなかったのだから。
「私がどんな顔だろうと、貴方には関係ないでしょう」
「あるね」
いやにキッパリ言い切ると、エリアードは断言した。
「あんたは俺の物だ。他の男の事なんて考えられてたまるか」
それだけ言い残し、さっさと踵を返して。
「……は?」
後に残されたセナは呆然とするしかなかった。
俺の物だというセリフに、腹が立つより呆気にとられる。
だってそれはまるで、プロポーズのようではないか。
「……いやいや、まさか。うん、それはないわよね。そもそも無理だし」
きっといつものからかいなのだと思いつつ、火照った頬は蜂蜜酒のせいではないのだという事は理解していた。
……今だけ。敬愛する姫の婚姻のこの夜だけは、忘れかけていた恋という感情へ、もう一度思いをはせてみようか。
その相手がいつかの恋人ではなくエリアードに変わっていた事に気付くのは、もう少し先の話。
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