殺し屋の日常
好評だったら連載します、かなり見る人を絞るかもしれません
―――――――命には価値の大小が存在する――――――――
命はみんな平等です、なんてのはウソっぱちだ。
学校の先生は、本当のことなんか、なかなか教えちゃくれない。四角四面に教科書どおり、「命はみな平等」なんて言う。だが、本当はそうじゃないことを、実は、本当は皆知っている。
自分が信じてもないこと口にしても説得力が無い。
目の前で友達が死んだら悲しいだろう。だけど、知り合いでもない見ず知らずの人が死んだらどうだろう?
ただ怖いだけで、悲しいなんて思うだろうか。人間として、助けの手を差し伸べるのは当然の感情としても、その人のために心から涙を流すのは難しい。
人間を殺すのには躊躇するだろう。だけど、目の前飛んでるハエを叩き殺すのに躊躇があるだろうか。
人間は邪魔でも殺せないが、ハエは邪魔なら始末してもよい。ハエを殺している人に向かって、「命は平等だから! そのハエにも人間と同じ命があるんだから」
なんて言う人はいない。実際、ハエはいくら残虐な方法で殺しても咎められることはない。
つまり人間は、価値ある命と価値のない命を、ごく自然に振り分けていると言えるだろう。
カワイイ動物は殺しちゃダメだけど、ゴキブリとかネズミとか、どーでもいいのは殺していい。
珍しいもの、気に入ったものは大切にするけれど、それだって飽きたらどうなってもかまわない。
…これが、本当のところである。
たとえばアザラシ騒動である
新聞もテレビニュースも、たかだかアザラシ一匹に大騒ぎして、人一人死ぬよりデカい扱いだ。
オレが死んだときより、アザラシが死んだときのほうが、悲しむ人間が多いことは確実だろう。
その理由はただ単に「かわいいから」「珍しいから」。たったそれっぽっちの理由で、世の中の多くの人間より、アザラシのほうが価値がある。
また、アザラシが目に釣り針をさしたと聞けば大騒ぎ。たかだかアザラシ一匹が目に釣り針さしたくらいで、イラク戦争で子供が片足失ったことよりも騒がれていた。
毎年、大量の鳥が、テグスを首にからめて無残に死んでいくというのに、そっちはどーでもいいらしい。
怪我で済んだアザラシと、命さえ落とす鳥たちと、一体どっちが本当にかわいそうなのか。
命の価値は、生きている当人ではなく他人が決めるものである。
世間様にとって、オレとアザラシは平等な価値をもつ命ではないし、アザラシと川魚は、おなじ川に住む生物なのに、命の価値が全く違う。
近くの川にいるアザラシの怪我はかわいそうだが、遠いイラクにいる子供たちの怪我は、まるで他人事のように語られる。
気に入っている生き物の生死や怪我は大問題だが、
それ以外の生き物の場合は、どうでもいい。
大人たちは、はっきり言葉に出さないが、そういう態度で生きている。
つまり、
人間自体が気に入らない人にとっては、
人間の生死や怪我など、どうでもいい問題だ。
人間は、人間に生まれた段階で既に、”ある程度”の命の価値は持っている。しかし結局それは、「ウロウロしてても人間に殺されない」程度の価値でしかない。ハエのように、気まぐれに叩き殺されないだけの最低限の命の価値だ。
美人なら、叩き殺される確率はもっと下がるだろう。
有名人やスポーツ選手なんかだと、別の意味で命は危険かもしれないが、少なくとも、優遇されることは間違いない。
大事な人間なら、そいつが傷ついたときに皆が大騒ぎする。言わなくても守ってくれる。
誰も必要としないなら、守ってくれる人間はいないだろう。
オレは、自分より若い奴らに「命は平等だ」なんてウソっぱちは絶対教えない。
すべての生き物の命には、相対的な価値がある。
より多くの人たちが必要とした命は価値が高くて、必要としてない命は価値が低い。
オレから見た他人の命の価値は、オレにとっての価値でしかない。オレにとっての、「死んじゃ困る奴」と、「死んでも別にどーってことない奴」がある。誰だってそうだろう。
”かけがえのない一人一人”だの、”平等社会”だのいうのは奇麗事に過ぎず、そんなことを口走る人だって、身内と赤の他人が死に掛けていたら、咄嗟の判断で自分の身内を守るだろう。
不自然な標語は破ってすてちまえ。
…だが、オレは、命が不平等であることが良いとは、ただの一言も言っていない。
それは当たり前のことだから意識するべきだ、と言いたいのである。
テメェの都合で、世の中の生き物すべてに対し価値を割り振っているんだと、
しかもその価値はその時々の興味やら必要性やらに応じたテメェ勝手なものなんだと、
人はみな承知して然るべきじゃぁないのかと。甘い幻想にドップリ浸って、理想と現実のギャップに気づかないのは、愚か者だけだ。
聞こえのいい標語で誤魔化すな。道徳の時間は、いつから嘘を教える時間になったんだ?
命は不平等だ。
自分もテメェ勝手だし、自分のまわりの人間だって皆、テメェ勝手だ。
人間嫌いな若者が、気に入らない生き物である人間を叩き殺したからといって、何も不思議がることはない。
そいつにとって、蚊と人間は同等の価値しか持たなかったというわけだ…
だから、人間を叩き殺せる人間は隔離しなくちゃいけないんだ、という理屈である。
社会に不利益な身勝手さを持つ奴を野放しにするなということだよ。
ガやミミズのような一般的に嫌われ者の生き物も殺さず逃がしてやるのは、オレ個人がそいつらに価値を認めているからに過ぎない。
ハエとゴキブリは基本的に嫌いだから容赦なくブッ殺す。オレの目の前うろつくんじゃねェ。
生き物に対する優しさの正体は、所詮、命に対する価値観の違いに過ぎない。決して優しさじゃない。身勝手さの延長だ。
オレは、人間の命がみな平等に尊いなんて信じちゃいない。
ムカつく歩きタバコのオヤジを通りすがりに殴り倒さないのは、オレが手を下すまでも無く肺ガンで死ぬだろうと思ってるから。
生きようが死のうがどうでもいい奴らの人生を素通りしているに過ぎない。
もし知り合いだったら、「アンタ体に悪いからやめなさい」と、禁煙を勧めるだろうよ。
寛容なんじゃなく、どうでもいいことだからだ。面倒くさいだけだ。要するに、これも身勝手さの延長だ。
そう、オレの中には、オレ以外の生き物についての命の価値リストが存在する。
そのリストの中に記載された「価値」は、時と場合によって変動する。