02
廊下側に据えられた一番前の席に『藍崎翔一』と、僕の名前の印刷されたA4の紙と、高く積まれた教科書が置かれていた。その隣には小さい鍵が添えられていて、わずかな光沢を放っている。
教卓に両手を付いた端整な教師は、背筋を伸ばして座る生徒の姿を軽く見渡した。
「教科書類は各自で、後ろのロッカーにしまっておいて下さいね。さて、新入生の皆さん。先程散々言われたかと思いますが改めて。入学おめでとうございます。このA組は、入試で特に成績の優れていた生徒を選抜し、編成したクラスです。存分に自らを誇っても構いませんが、今の位置に留まっていられるよう、弛まぬ努力を続けて下さい。私は1年間、皆さんを担任する、泉堂萌黄と言います。よろしくお願いしますね」
立て板に水を流すような喋り方だ。今まで対面してきた教師とは何かが違う。
自分の成すべき事が全て頭に入っていて、それに基づいた行動をするのが義務だと、泉堂さんは考えているのかもしれない。
この人からの教えを、僕はこれから糧にするのだ。まぁ、悪くはないなと、泉堂さんの整った顔を見つめる。
すると彼女は僕の方に目を動かし、口元に微笑を湛えた。
「それじゃあ、皆さんには簡単に自己紹介してもらいましょう。名簿順に。えーと1番の……、藍崎から」
「はい」
音が立たないように椅子を引いて立ち上がると、他の生徒からの視線が一身に集まった。それを感じると、僕は頬を少しだけ弛める。笑った顔が様になる、と昔から、飽きるほど多くの人に言われてきた。それを向ければ、実直で謹み深いはずのこの学校の生徒も、若干は心に隙間が生まれるだろう。
口を開こうとすれば、泉堂さんが思い出したように、
「どこの中学の出身かと、所属してた部活も教えてくださいね」
そう言って僕に柔和な顔を向けた。
中学、と頭の中で呟くと、この後尋ねられるであろう問いの答えを用意する。面倒だと感じたが、愛想はこれからの生活に不可欠だ。
表情は崩さずに、僕は体を他の大勢に向けた。
「藍崎翔一です。出身は双円中で、サッカー部に入ってました。一年間、よろしくお願いします」
小さく体を折った後、満面の笑みを浮かべた。これに心が込もっていないと気付く人間は少ないだろう。
「遠い所からわざわざありがとうございますね。拍手ー」
手を叩く音を聞き流して席に着けば、後ろの男子が小声で、案の定、僕の卒業した学校の事を尋ねてきた。
「双円中のサッカー部って、マジで?」
「あぁ、うん」
「うちの学校さぁ、県大で、」
「はい、それじゃ藍崎の次は……、茜か。起立ー」
「あッ、はい!茜初樹です。出身は……」
茜に体を向けながら、入学式前に配られた名簿に目を落とす。
式の時に気に掛かった髪の長い男子は、僕の斜め後ろの席に座っていた。
名簿と席を照らし合わせれば、彼の名前は多分、『黒江悠都』というらしい。
(クロエ……、クロエ?)
下の名前が読めない。小さく息を零すと、ちらりと黒江を見た。
彼の容姿は、驚く程優れていた。テレビに出てきてもおかしくはない造形に、血管が透けて見えそうな白い肌をしている。
あれで見た目が醜悪だったら、鬱になるまで叩いてやろうかと考えていたが、その必要は無さそうだ。少し物足りない気もするけれど。
自分の爪を見ている黒江は、前の席の女子が立っているのに気付いていないようだ。
泉堂さんはそれを見て、わずかに口元を歪めた。
「はい、じゃあ次は、黒江」
「…………ん」
「聞いてましたか?自分の名前と出身中と、所属してた部活を教えて下さいって」
「……はぁ」
柔らかな低音が、教室の中にぽつりと放り出された。黒江は気怠そうに立ち上がると、大きくはない声で話し始める。
「黒江、悠都といいます。如月中の出身で……、部活は特に何も。……よろしくどうぞ」
頭を下げた黒江は、すぐに椅子を引いた。拍手がどこかぎこちなく聞こえるが、泉堂さんも、彼も、気にはしていないようだった。
(……クロエ、ハルト)
変わった読みの名前だと、名簿にもう一度目を落とす。当の本人は、長い髪を指に絡めて暇を潰していた。「はい、皆さんありがとうございました。時間は存分にありますから、互いの事を少しずつ知っていって下さいね。明日は実力テストがありますので、一応備えは忘れずに。連絡事項はもう無いので、今日はこれで解散しましょ。はい、礼」
軽く頭を下げると、肩に鞄を掛けて、高く積まれた教科書を抱える。小さいが、教室にざわめきが生まれ、対人関係が築かれようとしていた。
「……っと」
少し高い所にあるロッカーにそれらを収めて鍵を回すと、扉をゆっくりと右に引く。
校門を出ると程無く、信号の備わった横断歩道が見える。駅から学校までの距離は、大して離れていない。通学で使う労力はそこまで多くはないはずだ。
赤く灯る信号と、目の前を通り過ぎる自動車とを交互に見ていると不意に隣から、
「あ。藍崎」
あまり聞き覚えの無い男子の声が耳に届いた。
横を向くと、大きな丸い目が僕を見上げていた。誰だっけと記憶を浚うと、茜だ、と思い出した。
「あぁ、どうも」