老人と猫
二歳の孫娘から猫をもらった
いや、正確には娘からだ
孫娘が拾ってきた猫
娘がマンションだから飼えないと叱ったら相当泣かれ、ご飯も食べてくれないからと妥協案を出したらしい
こっちの都合も考えずになんてことだ
そう久々に娘を叱ったらすました顔で
「あら、一人暮らしで寂しいからいいじゃない。あの子も今までより遊びにくるようになるでしょうし」
そう言って箱を二つ差出し、賄賂なのかなんなのか、好物のせんべいを置いてさっさと帰ってしまった
蓋に穴があけられた紙の箱に件の猫がはいっているのだろう
しばらく放っておいたが動く気配がない
なるべく静かにあけてみる
拾ったというからどんな汚れた猫が出てくるのかと思ったが、中で丸まって眠っているのは小さく、ふわふわとした灰色の子猫で
テレビで見た猫
そう、たしかアメリカンショートヘアだったか
それに似ていた
汚れなど見当たらない
もう一つの箱をあけてみれば使ったらしい猫用のシャンプーや、ブラシなどが入っている
その底には白い封筒がはりつけられていて
「やれやれ、香奈のやつ、学生時代はお前に似て大人しい娘だったのになぁ……なあ澄子」
仏壇にある妻の写真に封筒から出した絵を見せる
灰色のクレヨンでぐちゃぐちゃに丸が塗り潰されてある
どうやら寝てるところを描いたらしい
そして娘の字で小さく
「ミィをよろしく 美保」と書いてあった
「どうやらこいつ名前はミィらしいぞ、こんなじいさんの飼う猫がミィだなんてな」
大五郎あたりがぴったりじゃないか
そう思いながらその絵に思いっきり顔がゆるんでしまうのはかなりのジジ馬鹿だからかもしれない
娘の香奈のときも近所の人たちに
「あの中村さんが」
と噂されるほどの親馬鹿ぶりを発揮していたが
仕方ない、遅く生まれただけでなく、澄子の体が弱くて出産に耐えられるのかもわからなかったのだから
ああ、しかしあの香奈があれほどしっかりと、親を使うまでになったか
そう言えば澄子も出産後、医者も驚くような回復をしていた
母親というものは強いものだ
そう過去を振り返っていると小さな物音がして現実に引き戻される
ミィと名付けられた子猫がおおあくびをして体をかいていた
一通りけづくろいが終わると「この人は誰だろう」という目をむけてくる
碧の真ん丸な目
「なかなか、綺麗な目じゃないか、ミィ」
手を伸ばして頭を撫でてやろうとするが
その指にミィは噛み付く
「……やれやれ」
そう言えば、猫など飼ったことがなかった
明日、飼育書でも買ってくるか
消毒液と絆創膏を取り出しながら息を吐いた
翌朝、起きだしたとき部屋は悲惨な状態だった
襖が破れ、畳の表面はささくれたっている
その真ん中でミィは倒れるようにして眠りこけていた
「おい」
足先でつついても起きない
これだけ寝ているのならまだ起きないだろう
そのまま放置して駅前のペットショップへと向かう
「あら中村さんじゃない、ここに来るなんてどうしたの」
パートをしている近所の主婦に捕まってげんなりとする
「猫のな、飼育書がほしいんだが」
「あら、飼うの?」
「飼った、というか拾ったというか押しつけられたというか……」
不思議そうにしながらもてきぱきと本を何冊かひっぱりだす
ついでに餌の皿と首輪とトイレとペットシーツにおもちゃもいくつか押しつけられ、あとはなぜかウェットティッシュも
簡単に万札が飛んだ
最後に
「予防接種はしっかりね」
と、動物病院のチラシを何枚か渡され、大きな荷物を抱えて店を出る
くそうあの主婦、なかなかの商売上手じゃないか
そう小さく呻きながら家に戻るとミィは座布団の端をかじっていた
粗相もしている
「ミィ」
ちらりと見てにゃあ、と小さな鳴き声をあげる
どうやら自分の名前はわかっているらしい
なるほど、ウェットティッシュは確かに必要だ
片付けをしたあと、本を見ても買わされたものはすべて必要なものばかりで
心の中で謝りながらそわそわしはじめたミィをトイレに放り込んだ
ミィが来てから賑やかになったとは思う
なにせ前はあまり来なかった美保が毎日のように遊びに来ていた
母親の香奈は保育園代わりにか預けて家事を済ませてから迎えに来る
それまでは悪戯盛りの2歳児と子猫の面倒を見なければならない
美保が帰ったあとは逃げ回るミィを家中追い掛け回してからケージに押し込んでから食事を作り、食べたあとは飼育書を読みながら躾のやりかたを学ぶ
トイレに引っ掻かないようにする躾
最近は趣味の碁もできやしない
ミィが石をくわえて持っていってしまうからだ
一度、まだ子猫なのにどうやってのぼったのか、その石が冷蔵庫の上から落ちてきたことがあった
正直言って生活のペースを乱されて鬱陶しい
美保の喜ぶ顔が見られなければ放り出していたかもしれない
そのうちに一人と一匹に振り回される忙しい日々に体調を崩してしまった
香奈が作ってくれたお粥を食べて布団に横たわり、うとうととしていると温かいものが布団の中に入り込んできた
「ミィ?」
にゃあ、と返事が返ってくる
申し訳なさそうな、そんな表情で
思わず笑って、その温かさにすりよって眠る
起きたときにはすっかり疲れがとれていて
ああなるほど、テレビで見たアニマルセラピーはこんなものなのか
猫のいる生活も悪くない、と
そう思い始めていた
人も猫も子どもの成長は早いものだと思う
「ミィ、ちょっと待ってよ!」
ドタドタと足音がしてミィが飛び込んでくる
続いてブレザー姿の美保も
「おい美保、古い家だからあまり走るな、床が抜けるぞ」
「ミィが逃げるから悪いんじゃない」
じたばたと暴れるミィをガッチリ捕まえると美保がむくれる
ミィか来てもう15年以上か
そう考えながら美保を見る
美保はもう受験生
2歳の時はほぼ毎日来ていたのが最近は週一回来るかこないか
「勉強は進んでるのか」
「当たり前じゃん、私は獣医になるんだもん」
逃げるのをあきらめたミィを上機嫌で撫で回しながらにこにこと笑う孫娘に呆れるしかない
「だったらあまり老人をいじめてやるな」
「それはおじいちゃんとミィ、どっちを言ってるの?」
「両方だ」
「はーい」
美保がミィを解放するとやれやれとばかりに伸びをしてから丸まる
「お茶を入れてやろう」
立ち上がると腰がぎしりとなった
もう年だ
そう思いながらお茶を出す
「それにしてもこの家もすっかりミィに染まったね、小さいころは本当に殺風景だったのに」
「なんだ、二歳のころを覚えているのか?」
「うっすらと、だけどね」
美保がきょろきょろと見回す
買ってきた本があちらこちらに落ち、襖はいつまた破られるかわからないために簡単に和紙をはっただけ
あちこちにおもちゃが落ちている
「ミィには最低限の躾はちゃんとした、尋ねてくるのは美保と美保の母さんだけだ。気にする必要もないだろう」
「えぇ〜、なにそれ、寂しくない?」
「ミィがいる、あと年寄りはひょっとしたら女子高生よりも仲間とつるんでるかもしれないな、なにせ暇だから、それに仲間がだんだん減ってくる、その前にな」
お茶を一口のみ、喉を潤す
足先でミィをつつくとにゃ、と短く鳴く
最近互いに体力が落ちてきている
のんびりとした日々の中に確実に死が忍び寄っている
美保が微かに表情を曇らせた
「獣医になるなら、それくらいの覚悟は必要だぞ」
うなずくのを確認して、美保の頭をゆっくりと撫でた
大学合格の知らせが来て、美保が一人暮らしのために旅立って二年
ミィの老いは顕著になってきた
タンスどころかテーブルにすら飛び乗れない
和室にある机にのぼるのにもつらそうだった
獣医に連れていっても年だからと言われて栄養剤を注射される
同時に人間用の栄養ドリンクを渡されるのは同じようにあちこちガタが来ている自分への気遣いだろうか
一番上等の座布団に置くともぞもぞと楽な姿勢をとろうとする
ゆっくりと薄くなった毛並を撫でるとうっすらとミィが瞳をあけた
冬になって
寒い風が身に堪えるようになったころ
ミィが風邪をひいた
鼻水で呼吸が苦しそうになっている
若い頃ならなんでもないだろうに
坂道を転がるように症状は悪化していく
医者にも往診してもらったが、一向によくなる気配がない
抱き上げると軽い
妻の澄子が死ぬ直前、こんなふうに軽かった
覚えのある感触にぞっとする
そして気付く
疲れで体調を崩したときにミィが布団に入ってきたとき
それから寂しくなんて思ったことがなかったことに
香奈が嫁いで、しばらくして澄子が逝った後
香奈とその夫が一緒に住もうと言ってくれたが断った
新婚だったり苦労をかけたくなかったりいろいろあったが、なにより意地からだった
ミィはあっさりそんな意地を無視して振り回したから心地よかったのだ
「お前、もう逝くのか」
ぎゅっと抱きしめる
ぬくもりが遠くなっていくような感触におののく
もうすぐ終わる
今までの穏やかな時間が
「なぁ、澄子に会ったら言ってくれ、もう少し待っててくれって」
その言葉に応えるかのようにミィは真直ぐにこっちをみた
初めて見たときからかわらない碧の瞳で
にゃあ
返事するかのように鳴くと
すぐに力が抜けた
ああ、逝ってしまった
全身から力が抜けた
温もりが残る体を抱きしめる
不思議と涙は出なかった
翌朝、ミィを埋めた場所を撫で、立ち上がる
「18歳ですから大往生ですね」
獣医から言われた言葉を思い出しながら部屋を振りかえる
仏壇にはおもちゃが一つだけ残してある
残りのおもちゃや皿などはすべて埋めた
きっと天国で澄子が使ってくれるだろう
ミィの死は電話で伝えた
休みになれば美保も来るだろう
ミィがつけた傷跡があちこちにある
張り替えるのも大変だろう
置いておいてもいいかもしれないが
とにかく忙しくなりそうだ
そう思いながら家へと入っていった
高校の文芸部が発行している部誌のOB版に載せたものです
本は引っ越しにあたって処分してしまいましたが
そのころは(今もですが)ヲタサイトで二次ばっかりかいていたので、勘を取り戻すのが大変でした