第06話「クーチェ草原(犬の町)」
クーチェ草原は、風がよく通る場所だった。
広がる草の海を、玲は静かに歩く。
遠くで犬の遠吠えが聞こえた――ような気がした。
けれど、すぐに風がその音をさらう。
この地には、かつて“犬の町”と呼ばれた集落があった。
人と犬が共に暮らし、狩りも、祭りも、日々の営みも、
すべてを分かち合ったという。
だが、ある日を境に、犬たちは姿を消した。
「狂犬病の流行」「家畜への被害」「異教の儀式」
さまざまな理由が語られたが、真実はひとつ――
人間が、犬たちを恐れ、そして殺したのだ。
玲が草原の外れにある村を訪れたとき、そこにはひとりの老婆がいた。
彼女は、かつて犬たちと暮らしていた最後の“語り部”。
「……あの子は、名前を“ユキ”って言ったの。
白くて、賢くて、やさしい子だった。」
老婆の声は、風に溶けるようにかすれていた。
「ある日、村の男たちが“危ない”という理由で、ユキを連れていったの。
私は止めたけど、誰も聞いてくれなかった……。」
玲は黙って耳を傾けている。
老婆の手には、古びた首輪が握られていた。
それは、もう帰らぬユキの、唯一の形見。
「それから、私は毎日ここに来てるの。
ユキの声が、まだどこかに残ってる気がして……。」
玲は、胸元の鈴にそっと触れた。
風が止まり、草が静かに揺れる。
「……第0層、展開。」
音が、消える。
だが、玲には聞こえた。
――くぅん。
小さな、かすかな、懐かしい音。
老婆の目に、涙が浮かぶ。
「……ユキ?」
玲は微笑まず、ただ静かにうなずいた。
「声は、消えません。誰かが覚えていれば。」
夜の草原は、星の海に包まれていた。
玲は老婆の家の縁側に座り、胸元の鈴にそっと触れる。
その時だった。
風が止まり、空気が張り詰める。
鈴が、かすかに震える。
音はない。けれど、玲には“声”が届いた。
――あのものたちに、天罰を。
――私は、あの人を守れなかった。
――でも、あなたならできる。
――あの人を、もう泣かせないで。
玲の瞳が、わずかに揺れる。
それは、怒りでもなく、
悲しみでもなかった。
それは、静かな決意。
誰かの声を守るために、音を喰らう者としての覚悟。
「……わかった。」
玲は立ち上がり、草原を抜けて村へと向かう。
かつてユキを“処分”した男たちは、今も村にいる。
彼らは老い、かつての行いを「正しかった」と語る。
玲は、彼らの前に立った。
「あなたたちが、ユキを殺したのですね。」
男たちは鼻で笑った。
「なんだお前、あの犬の仇討ちか?あれは村のためだったんだよ。」
玲は、鈴に触れた。
「……第1層、展開。」
音が、消えた。
男たちは口を開き、怒鳴ろうとしたが、声は出ない。
足音も、風の音も、すべてが吸い込まれる。
玲は、彼らの目をまっすぐに見つめた。
「これは、ユキの願いです。」
その瞬間、男たちの視界に幻のような光景が広がった。
草原を駆ける白い犬。
その背に乗る、小さな少女の幻影。
そして、縁側で泣き崩れる老婆の姿。
音のない世界で、彼らは“見せられた”。
自分たちが奪ったもの。
守るべきだった命。
そして、取り返しのつかない後悔。
玲は、ただ一言、唇を動かした。
「命の重みを知りなさい。」
やがて音が戻ると、男たちは膝をつき、何も言えずにうつむいた。
その背に、玲は何も言わず背を向けた。
草原に戻ると、老婆が待っていた。
「……ありがとう。ユキが、笑ってた気がするの。」
玲はうなずいた。
「声は、届きました。ユキの願いも。」
その日、草原には小さな祠が建てられた。
ユキの名を刻んだ石が、風に吹かれて静かに佇んでいた。
玲は、祠の前で手を合わせた。
「あなたの声は、もう消えません。」
そして、また歩き出す。
音のない足音で、静かに、確かに。
胸元の鈴が、かすかに揺れた。
「……また、誰かが泣いてる。」
玲の旅は続く。
声なき声を聴き、音の意味を問い直すために。
そして、世界に静かな祈りを届けるために――。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。




