第05話「カルジ山地(通行許可証)」
カルジ山は、空と雲の境をなぞるように連なる峻険な山脈。
その麓にある関所では、帝都への通行を望む者たちが列をなしていた。
玲もその列のひとりだったが、「ここに私の出番はない…。」
そう思っていた。通行許可証の制度は、
敵対勢力や異民族の流入を防ぐためのもの。
理屈はわかる。だが、そこに“声”の余地はない。
その時だった。
列の前方で、
ひとりの女性が係官に詰め寄られている。
「金額は足りてるはずでしょ!」
と女性の怒りは、爆発する。
それに対し、係官はこう言い放った。
「この汚れた紙幣じゃ、受け取れねえんだよ!」
玲の耳に、そのやりとりが自然と届く。
女性は身なりこそ粗末だったが、
手には、通行料を払えるだけの紙幣を握っている。
だが、係官はそれを突き返し、鼻で笑う。
「……息子が、帝都にいるんです。兵役で。
毎月手紙が来てたのに、三か月前から……。」
女性の声は震えていた。
玲はその言葉に、静かに歩み寄る。
「私、帝都に行きます。息子さんのこと、何かわかったら知らせます。」
その瞬間、許可証を発行していた男が、にやりと笑った。
「……ああ、あの若造か。ここに配属されたが、
すぐに消えたな。殺し屋にでも攫われたんじゃねえの?」
玲はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
その男の声には、悪意と無関心が混ざる。
玲は静かに鈴に触れた。
「……0層、展開。」
音が、消えた。
男の口は動いていたが、声は出ない。
風も、鳥のさえずりも、遠くの鐘の音も、すべてが吸い込まれる。
玲は男を見つめたまま、何も言わずにその場を後にした。
“反省する時間を与えただけ”――それが、玲の選んだやり方。
殺し屋集団――そう呼ばれていた者たちの情報は、すぐに手に入った。
だが実態は、かつて山賊だった者たちの残党。
玲は警戒を解かずに、彼らのアジトへと向かう。
そこで彼女が見たのは、粗野ながらも礼儀をわきまえた者たち。
そして、彼らの中にいたのは――あの女性の息子だった。
「……あなたが、あの女性の……。」
玲の言葉に、青年は目を見開く。
彼は語った。
帝都での勤務中、通行許可証を扱う役人に目をつけられ、
嫌がらせを受ける日々が続いていたある日。
命の危険を感じ、逃げ出して、たどり着いた先が、
この山賊の見張り台だったこと。
「ここで、ようやく人間らしく扱ってもらえたんです。」
青年の声は、静かだった。
玲はうなずき、風のように踵を返す。
彼女の次の目的は、役人たちの“音”を記録すること。
数日間の観察で、嫌がらせの実態は明らかになる。
それは想像以上に陰湿で、暴力的だった。
夜。
役人たちが眠りについたそのとき、玲は動いた。
「……第1層、展開!」
音が、消える。
目を覚ました役人たちは、音のない世界に混乱し、
玲に襲いかかってきた。
だが、玲の歩みは止まらない。
所長室の前で、玲は短く言った。
「女性と息子に詫びろ。」
そして、所長の音も奪う。
その夜、玲は静かにその場を後にした。
――後日。
通行許可証の制度は見直され、民間の有志によって運営されることになる。
利用者からの評判は上々で、「まるで別の世界」と言われるほどだった。
あの女性の息子は、母(女性)のもとに戻る。
「今度こそ、ちゃんと孝行します。母さんのそばで…」
彼はそう言って、母と暮らすことを選んだ。
玲は以前に聞いていた女性の連絡先に、一言だけ短く伝えた。
「息子さんの件、よかったですね。」
その言葉に、女性はこみ上げる涙をぬぐいながら、何度も深く頭を下げた。
姿は見えなくても、心の奥から「ありがとう」があふれて止まらなかった。
玲はカルジ山地を越え、クーチェ草原を目指す。
そこは、犬の町――
新たな“声”が、玲を待っている。
風が鳴る。
鈴が揺れる。
「……また、誰かが泣いてる。」
静かに、確かに。
玲の旅は、まだ終わらない――。
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