往復
塾からの帰り道のはずだった。
自転車を降り、コンクリートに擦れた足音がこだまする。前輪のライトは息ほどの範囲しか照らさず、その先は見えない。耳を澄ますとかすかに、水の流れる音が聞こえる。近くの沢をうかがわせる。
市道577号を外れた、無名の細く曲がった山道。その周囲にはなんの施設も、接続する道もない。きのう家で広げた××市版地図帳の描画は、山道の行きつく先を記していなかった。だから行ってみよう、と思い立った。おそらく地図と同一の細く曲がった道を経て、今はまっすぐ延びるトンネルの中にいる。
くすぶった煉瓦造りの壁面は年季が入っているが、ヒトの気のない公共物に特有のアート(スプレーの落書き)は見当たらない。その跡も感じさせない。あるのは、ずっとここにあったという実のことだけか。
前からいちど、こういうところに来てみたかった。たんなる肝試しとか、ひと昔前のYoutuberがよく動画にしていた「心霊現象」なるものの探究とかではない。ただ、「ヒトの気のない人工物」を目の当たりにしたかったのだ。おそらく似た趣向のおこないとして、廃駅の跡をめぐる旅なんかがある。
ところでトンネルに入ってから、いちども後ろを振りかえっていない。背中のほうから視線を感じるのだ。だれそれの視線、とは言いあらわせない。つまりヒトの気のない一方で、何某かのまなざしを背負っている。これはおかしい。
仕方がないから前へすすむ。自転車の照らせぬ光だけが光で、トンネルには照明もないようだ。寿命が切れているのではなく、そのような設備がもともとない。
あるとき、光が地面に影を映した。石のようだ。手のひらより少し大きいくらいか。目を凝らすと、はっきり割れている面と、そのへんの石らしく丸い面があるのがわかる。どうやら川の上流から流れてきて、なにかの拍子に割れて、それから少し経ったという具合だ。
なんでこんなところに、石が落ちているのだろう。落ちているというより、作為的に置かれたと考えるほうが適しているか。トンネルの一部とも思えない(だとしたら一刻も早くここを出なければならない)し、ますますよくわからない。
考えても答えは出なさそうだから、とりあえず先に進んでみることにする。石をかわし、地面が弱い光で満たされかけた、そのときだった。
「よけましたね、石を」背後で声がした。足が止まった。間髪なく息もとまる。ヒトの声に思えたけど、知らない声色だ。
「よけました」僕は答えた。なんとなく、反応したほうがいい気がした。声の上擦りを自覚する。
「どうして、よけたのですか」背後は会話をつづけた。
どうしてか。「先に……進みたかったから」
「石を無視、するのですか」
「いや、無視はしてないです。見てはいるので」
「見てみぬふりは無視ではないのですか」話の目線は合ってきたけど、穏やかでない。
「そんなこと言われても……」
「では、あなたにはわからないんですね。あなたには……わからないでしょうね」責める口ぶりだ。なぜ?
「どうして、そんなに怒っているんですか」
「トンネルをよくするためです」
「よくする?」
「トンネルをよくするには、厳しく注意することも必要です」
はぁ。それともうひとつ。
「どうして、このトンネルに石があるのですか」
その声がぼんやり響くと、それきり声はしなくなる。その瞬間、背中にびっしり受けていたまなざしが消えていった。振りかえると石がすべからくあるだけで、誰もいなかった。
「誰だったんだろう」
向きなおすと、目の先に街灯らしき冷色の明かりが見える。出口のようだ。これがわかると、いそぎ自転車にまたがり、夜空の照らす向こうがわへ漕ぎだした。
*
下り坂をしばらく降りると、見慣れたコンビニの看板がみえる。駐車場を突っ切って、煌々と漏れる照明のもとで自転車を立てる。ポケットからスマホを出す。しかし格安プランのせいか、圏外だった。地図もLINEも開くけど、表示されるのは塾に行く前、玄関で開いたときの画面だ。さっき断ったはずなのに、最新のLINEはクラスメイトがボウリングに誘ってきた文面だ。文面といっても、顔文字がめだつけど。
自転車の鍵を抜き、とりあえず店内に入る。レジに店員の姿はない。田舎のコンビニは、客の少ない夜間にかぎって店員がバックヤードにこもることがあるから、奥のほうにいるのだと思った。客の影もなく、道から駐車場をストレートにこれたのが理解できた。そしてありえないほど冷房が効いていた。
ドリンク棚からお〜いお茶をとりつつ、レジへ向かう。セルフレジの設備もあるけど、店員に出てきてほしかった。「不在のときはこちらを押してください」のボタンを押す。ファミレスで見かけるものと同じだ。
もぞもぞと聞こえてからややあって、やがて店員はあらわれた。「ぉ待たせいたしました」アフロ風の若い男だが、腕の毛が濃い。
お茶の会計が済むなり、
「すみません。電話を貸してもらうことってできますか」僕は、親に車の迎えをたのむつもりだった。男はすこしとまどった様子をみせたが、ポケットから色褪せた白いスマホを差しだしてくれた。男の携帯は電波のマークがある。
「ありがとうございます」その場で親の携帯にかける。
コール音が何回も重なる。だけど、出ない。
おかしいなぁ。
「出ませんか?」男は心配そうな顔でこちらをうかがう。ヒゲ面だが、よくみるとたぬきのような目つきがかわいく思えた。おかけになった電話は、電波の届かないところにあるか……機械の音声が聞こえてくる。
「出ないみたいです」すみません、と携帯を返した。ついで、「ぶっきらぼうな質問ですけど、ここってどこですか?」と訊ねてみた。
「ここは……××市柿合の3640番地、だったかな」男はこちらとスマホの地図を交互に見ながら、教えてくれた。けど、柿合? 生まれてからずっと××市民だけど、そんな地名は聞いたことがない。
「柿合と本野地区って、どれくらい離れてますか」僕はたずねた。さっきのトンネルは迂回するだろうけど、案外近ければ漕いで家まで帰れるかもしれない。本野と自宅のある地域の間は国道がまっすぐ伸びているから。しかし男の答えは、深刻な意味で案外だった。
「本野なんて地名、××市にあったかなぁ」
あるに決まっている。本野はJRの駅があるし、市の本野出張所も総合体育館もある。なにより、さっきまで授業を受けていた塾とは駿河ゼミナール本野校のことだ。
「やっぱり出てこないよ」男はスマホの検索画面を差しだした。そこに並ぶ「本野」は、愛知県豊川市、富山県黒部市、長崎県諫早市、熊本県八代市の「本野町」だ。ついで、千葉県の茂原というところの「本納駅」が出てきている。
一瞬のごまごまとした混乱のあと、頭のなかが言葉にまとまるようになった。異世界……? だとしても、なぜ。
「もしかしてお客さん、トンネル通ってきましたか」男は心配そうに訊ねてきた。
「はい」
「それじゃ、戻ったほうがいいですよ」
「えっと……どういうことですか?」
「ごくたまに、いるんですよね。この坂を登ったところのトンネルから来たっていうお客さん。オレは噂で聞いただけですけど、トンネルをしばらく進んだところに少しおおきな石があって、それを過ぎると後ろからだれかが質問してくるんです。質問のパターンはいろいろあるみたいですけど、うまく噛み合わなくて喧嘩になったり、質問に答えられなかったりすると……永遠に出口が見つからず、二度と出られなくなる」
視線の話はなかった。そしてあの会話、噛み合っていたのか。
「そしてお客さんの住んでる××市は、今いる××市の“そちらがわ”です。そちらとこちらでは通信回線が違うから、お客さんの携帯が使えないのも、“そちらがわ”に電話が通じないのも、そういうことだと思います。そちらの××市って、年あたりの行方不明者が周りの市よりおおいの知ってますか? 実はこちらの××市もそうなんです。一説には、トンネル手前の防犯カメラに写った人の数が増えた年は、行方不明者の数も増えるって話です」
冷たい風が、胸を吹き抜く。
「じゃあ、“そちらがわ”に帰るには、もういちどトンネルを通らないといけないんですか」
「トンネルの上をヘリで飛ぶんじゃ、単にこちらがわの上空を過ぎるだけですからね。そういう航空事故は起きたことがないから、やっぱりトンネルを通らないと……」男は憐れみぶかそうだ。
「でも、うまくやり過ごせないと、二度と出られないんですよね」
「こっちに来たときは、やり切ったんですよね。同じことができればきっと、帰れますよ」
コンビニを出ると、さっきよりも月が高くのぼっている。自転車を押しながら来た道を戻り、坂を登っていく。気づくと舗装がコンクリートに変わった。アスファルトは平坦な道路に用いられる一方、コンクリートは急坂のようなごく限った場面でのみ用いられる。小さい頃、道路標識図鑑のおまけ欄で読んだことがあった。自転車がだんだん重くなる。よって歩幅も縮まっていく。これだけ滞っていながら誰ともすれ違わないし、だれも追い抜いていかない。けれども同じように滞っている者がいるとも思えない。
トンネルの入り口までたどりつく。息が上がっていた。頭上の月光は静かで、やさしささえ感じ取れた。しかし男の話を思い出す。男は、視線のことを知らなかった。月光に安らぎを覚えるのは、見慣れたまなざしだからなのか。
後ろを振り返る。ここならまだ、振り返ることができる。ごく遠く、男と出会いお茶を入手したコンビニの灯が指先ほどに見えた。さらに向こうには、××市柿合の“むこうがわ”地域、その街のあつまりがみえた。今さら戻る気もないし、滞在するほどのカネもなかった。この街では、僕の身分証明証はすべて偽物なのだ。だとしたらできることはただひとつ。身分を本物にし、家に帰ることだ。コンビニで買ったお〜いお茶を飲み干した。
トンネルに入る。二歩、三歩と進むうち、月光のたすけは及ばなくなり、しだいに足音が反響しはじめる。足音は自分だけなのに、やはりあまたの視線を背中に感じる。まなざしに押されるがまま、前へ進むしかない。
思ったより早く、自転車のライトは石をとらえた。かの石はここに、あるべくしてある。
石をよけて、先に進もうとする。そのとき声がする。「よけましたね、石を」
「よけました」声の震えは反響したが、上擦ってはいなかった。
「どうして、よけたのですか」背後の声は同じことをつづけた。
「先に進みたいからです」
「石を無視、するのですか」
「見ているので、無視はしてません」いける、と思った。
「見てみぬふりは無視ではないのですか」
「そんなこと、言われても」
「あなたにはわからないのですか。わたしたちが、トンネルをよくしていることを」
「わたしたち?」しまった、そこじゃない。
「いましがた“こちらがわ”へ向かうとき、誰だったんだろ? と首を傾げていましたよね。答えはわたしたち、です」
「わたしたちとは……具体的に」
「それは、振りかえってみればわかりますが……わたしたちの正体を知ったら最後、あなたには力の尽きるまで、トンネルのモグラになってもらいます」
「そうですよね。だから僕は、振りかえっちゃいけない」
「わたしたちが無理やりあなたの前に出れば、あなたは振りかえらずともわたしたちの正体を知ることになります。でもそれではあまりにも理不尽でしょうから、こういう縛りにしているんです」
「御気遣い、大変たすかります。では、続けましょうか」
帰れそうな気はする。しかしすぐではない。




