第8話 薬師、闇の王都へ ― 呪毒局殲滅戦の幕開け ―
夜明け前の王都は、息をひそめたように静まり返っていた。
霧の中に浮かぶ城壁の影。
かつてセレスティアが暮らしていた“中心”――その心臓部に、今や暗黒の瘴気が漂っている。
「……呪毒花の花粉反応、ここまで広がってるのね」
セレスティアが手の中の水晶瓶を傾けると、瓶底の液体が淡く赤く光った。
ノエルが肩越しに覗き込み、息を呑む。
「王都全域が“呪毒汚染域”に……。まるで生き物のように、拡がってる……!」
「だからこそ、急がなきゃ。ミリアの封印も長くはもたない」
セレスティアは、外套のフードを深く被る。
王都の裏路地――そこはかつて、薬師見習いとして通っていた研究街。
だが今は、建物の壁に黒い蔦が這い、腐臭が漂っていた。
「アムネリア様、ここが……」
「ええ、“禁呪局”の本部よ」
彼女の足が止まる。
石造りの巨大な扉。
その上には王国の紋章――だが、中央に刻まれた“王冠”は黒く塗りつぶされていた。
「この印……王が自ら封印を破ったのね。国を守るため、という名目で」
セレスティアの声に、かすかな怒りが混じる。
その瞳は、まっすぐに扉の奥――己の過去を見据えていた。
禁呪局内部。
長い回廊の先には、儀式室の巨大な魔法陣が輝いていた。
中心に横たわるのは――ミリア。
「ミリア……!」
セレスティアは駆け寄ろうとした。
だがその前に、黒衣の局長が立ちはだかる。
「来たか、アムネリア。
やはり君が動いたな。弟子の命で釣れば、確実に来ると思っていた」
「卑劣な真似を……! 彼女は何も知らないただの少女よ!」
「“知らない”からこそ利用できる。
純粋な祈りは、最も強い媒介となる――呪毒の完全再現にはな」
局長の掌が上がると、魔法陣が赤く光り出す。
ミリアの身体が微かに震え、苦痛の息を漏らした。
「やめなさいッ!」
セレスティアは咄嗟に薬瓶を投げた。
瓶が砕け、黄金の液体が霧のように広がる。
瞬く間に魔法陣の輝きが弱まった。
「……“浄化触媒”か。前世の遺産をまだ隠していたとはな」
「あなたが呪毒を兵器に変えようとする限り、私は何度でも封じるわ!」
彼女の指先が動く。
腰のポーチから取り出した薬草を、素早く混合する。
緑の煙が立ち上り、甘い香りが部屋を満たす。
「これは……眠り薬?」
局長の部下たちが次々と膝をつき、意識を失っていく。
セレスティアが静かに言った。
「“眠る”ことも、“癒す”ことのひとつよ」
だが――局長は動じなかった。
仮面の下の口元が、不気味に歪む。
「やはり、君は優しすぎる。世界を救うには、“選別”が必要だ。
呪毒は、人を淘汰する神の薬だよ」
「神の薬? 違うわ、それはただの“毒”よ。
どんなに効能を飾っても、人を殺す薬は“失敗作”!」
ふたりの言葉がぶつかる。
次の瞬間、局長の杖が振り下ろされ、紅蓮の炎が放たれた。
セレスティアは瞬時に薬包を弾き出す。
爆ぜる音――そして、空気が入れ替わる。
緑と赤の光が衝突し、魔法陣の中心が爆発的に光を放った。
ノエルがミリアを抱きかかえ、後方へと退避する。
「お嬢様、これ以上は――!」
「まだよ、ノエル。終わらせるには、まだ足りない!」
セレスティアは床に片膝をつき、震える手で最後の瓶を取り出す。
瓶の中では、淡い光が鼓動するように明滅していた。
「アムネリアの時代に、私はひとつだけ残した。
“呪いを癒す薬”――希望の触媒」
瓶を掲げ、呪文を紡ぐ。
古代語の詠唱が、静かに、しかし確かな力で広がっていく。
空気が震え、崩壊しかけた魔法陣の紋様が反転した。
紅が青へ、呪が癒しへと変わる。
局長が叫んだ。
「貴様……何をした!」
「呪いを、薬に戻しただけよ」
セレスティアが瓶を砕く。
まばゆい光が爆ぜ、部屋全体が黄金色に包まれた。
眩い閃光が過ぎ去ったあと――
そこには、沈黙が残った。
床に倒れる局長。
仮面が割れ、苦悶の中で彼は呟く。
「……アムネリア……君は……やはり……」
「私はセレスティア。過去の罪も、今の命も、すべてこの名で受け止めるわ」
彼女の声は静かで、けれど強かった。
ノエルが背後で涙ぐみながら言った。
「お嬢様……ミリアが、目を覚ましました!」
セレスティアは振り返り、安堵の笑みを浮かべた。
ミリアの瞳がゆっくりと開く。
涙で滲んだ視界の中で、彼女は微笑む。
「……お師匠様……やっぱり、来てくれたんですね……」
「当たり前でしょう。弟子を置いて行く師なんていないわ」
セレスティアはそっと彼女の手を握る。
その掌から、ほのかな温もりが伝わる。
「もう大丈夫。呪毒は消えた。
これで、誰も“薬”に怯えなくていい」
ミリアの目から、一筋の涙がこぼれた。
王都の夜が明ける。
崩壊した禁呪局の塔の上で、セレスティアは静かに空を見上げた。
灰色の雲が晴れ、黄金の朝日が差し込む。
その光が、彼女の白い髪と外套を照らす。
「……終わったのかもしれないわね」
ノエルが隣で微笑む。
「いいえ、“始まった”のです。お嬢様の、本当の薬師としての日々が」
セレスティアは小さく笑った。
「そうね。これからは、“癒す”ためだけに薬を作る。
呪いではなく、希望を紡ぐために」
風が吹き、薬草の香りが流れた。
どこか遠くで、小鳥がさえずる。
彼女の旅はまだ終わらない。
だが確かに――この朝、ひとつの呪いは終わったのだった。