第193話 調律者の記憶 ― ネフィロスの過去
――音があった。
澄んだ水面を渡るような、柔らかく透明な音。
それは“聖堂”の奥に響いていた。古びた鐘楼の中、祈りの声とともに。
青年はそこで祈っていた。
黒髪を後ろで束ね、薄い灰衣をまとったその姿は、どこか儚げだった。
名を、レオナルド・フェインと言った。
後に“ネフィロス”と呼ばれる存在――その人間としての名前だ。
彼は王都グラスの中央教院で、若くして神学士として名を馳せていた。
その知識と才能はまるで神に選ばれたようで、信徒たちは皆こう呼んだ。
“光を読む者”と。
だが、彼はいつも一人だった。
神を信じるほどに、人を信じられなくなっていた。
奇跡を語る人々の裏で、争いと飢え、そして理不尽な裁きが絶えなかったからだ。
――「なぜ、神は沈黙する?」
それが、彼が最初に抱いた“問い”だった。
やがて彼は研究を始める。
“黄金の力”――神が創世のときに使ったとされる力。
それは魂と生命の均衡を司る、純粋な「流れ」だった。
彼は書物に記された禁忌を破り、
己の心と魂を実験体にして、神の力を解析した。
何年も何年も続く孤独の研究。
彼の指は痩せ、瞳は次第に光を失っていった。
それでも彼は祈った。
「神の真意を知れば、人は救われる」と。
――だが、その願いは、ある日、裏切りとして返ってきた。
王国の聖堂は、レオナルドの研究を“冒涜”として断罪した。
彼が使った魔法陣は、神聖術ではなく“術式”とされ、異端審問にかけられた。
群衆の前で“光を読む者”は“闇を呼ぶ者”と名を変えた。
火刑の日。
彼は静かに微笑んでいたという。
その瞳には恐れも怒りもなく、ただ静かな観察者の色が宿っていた。
――その瞬間、空が割れた。
黄金の陣が燃え上がり、光が夜を貫いた。
彼はその光に包まれ、形を失った。
肉体は灰となり、魂だけが残った。
そして、どこからともなく声が響いた。
《お前の問いに答えよう。》
《神は沈黙する。だが、“均衡”は語る。》
《お前が新たな調律者となれ。滞る世界を整えるのだ。》
彼は答えなかった。
ただ、涙を一滴だけ流した。
それは人として流した最後の涙だった。
――こうして、ネフィロスは生まれた。
彼は以後、数百年を“観測者”として過ごした。
戦争も、愛も、神の奇跡も、すべてを“流れ”として見てきた。
彼の中で、人の善悪は意味を失い、ただの“均衡”に還元された。
だが、ある日。
“黄金の力”を再び宿した少女が現れた。
それが、クロエだった。
彼は初めて、長い沈黙の中で“音”を感じた。
心が震える音――懐かしい祈りの旋律。
そして思った。
(もし、あの子が神の答えを持っているなら……)
ネフィロスの胸の奥で、消えかけていた“人間の鼓動”が、微かに鳴った。
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