第4話 トラウマ
シグニィに見送られ、俺たちは神殿の正面玄関へと向かう。
荘厳な両開きの扉が開かれる。
目に飛び込んできたのは、青空と、石畳の広場。
そして、その広場の中央に、ぽつんと一台、馬車が停められていた。
屋根付きの、二人乗りの小さな馬車だ。
それを見た瞬間、冷や汗が止まらなくなった。
「……ん? どしたの、おっさん。早く行こーよ」
数歩先で、柚葉が不思議そうに振り返る。
「……いや、なんでもない」
なんでもなくない。
心臓が、嫌な音を立てて脈打つのを感じる。
喉が、カラカラに乾いていく。
「御者は、私が信頼する腕利きの者を手配いたしました。口数は少ないですが、グレンタまでの道のりは、彼に任せておけば安心です」
シグニィの穏やかな声が、やけに遠くに聞こえる。
御者台に座る、無骨な背中の男が、こちらを一瞥して、すぐに前に向き直った。
「へー。んじゃ、さっさと行っちゃお! なんかワクワクしてきたかも?」
柚葉は、本格的な冒険の始まりに、少しだけ胸を高鳴らせているようだった。
無邪気に馬車へと駆け寄っていく。
俺は、動けなかった。
……しっかりしろ、柏木 基。
これは、車じゃない。
大丈夫だ。
ただの、馬車だ。
ゆっくりと息を吸い、そして、吐く。
無表情を装い、なんとか一歩を踏み出した。
その一歩が、鉛のように重かった。
◇◇◇
馬車の内部は、思ったよりも狭かった。
向かい合わせの座席に、俺と柚葉が腰を下ろすと、膝が触れ合いそうになる。
ぎぃ、と車輪が軋む音。
御者が手綱を引く気配。
やがて、ガタン、という軽い衝撃と共に、馬車はゆっくりと走り出した。
「うわ、乗り心地、最悪じゃん。お尻痛いんだけど」
石畳の道を、馬車はガタガタと揺れる。
柚葉が文句を言いながら、座り心地の悪いシートの上で身じろぎした。
「昔の馬車なんて、こんなもんだろ」
「えー、ウチ、お姫様みたいに運ばれるの想像してたんだけどなぁ」
「お前は姫じゃなくて、魔法使いだろ」
「それもそっか。んじゃ、ウチの最強魔法で、この揺れを止めちゃる!」
「……馬車の揺れを止める魔法なんてあるのか?」
あまりにも些細すぎるだろう。
そんな他愛もない会話を交わしながら、神殿の門をくぐり抜ける。
道は、未舗装の土の道へと変わった。
揺れは、先ほどよりも少しだけ、単調になる。
最初は、平気だった。
柚葉のくだらない話に相槌を打ち、窓の外を流れる景色を、ぼんやりと眺めていた。
そうだ。
これは、ただの移動だ。
何も、怖いことなんてない。
そう、自分に言い聞かせていた。
だが。
ガコンッ。
馬車が、轍にはまったのか、ひときわ大きく揺れた。
その瞬間、俺の身体が強張る。
脳裏に、閃光が走った。
背後から迫る、巨大なトラックの、ヘッドライト。
「……っ」
息が、詰まる。
だめだ。思い出すな。
必死に首を振って、意識を逸らそうとする。
だが、自分の意志とは無関係に、記憶の蓋がこじ開けられていく。
不規則な揺れ。
閉ざされた空間。
逃げ場のない、この感覚。
じわり、と額に脂汗が浮かんだ。
呼吸が、うまくできない。
浅く、速くなっていく。
ハッ、ハッ、と自分の荒い息遣いが、やけに耳についた。
「てかさー、グレンタって街に着いたら、まず何する? やっぱ宿探しっしょ。あと、せっかく異世界に来たんだから、美味しいもの食べたくなーい?」
柚葉の声が、水中で聞いているかのように、くぐもって聞こえる。
返事をしなければ。
平静を、装わなければ。
だが、声が出ない。
それどころか、体が小刻みに震え始めた。
必死に抑え込もうと、膝の上で拳を固く握りしめる。
爪が食い込み、手のひらが白くなっていくのが、自分でも分かった。
◇◇◇
「……ねえ、聞いてんの?」
返事がない俺に、柚葉が顔を覗き込んできた。
「……なに、乗り物酔い? ダサっ」
からかうような口調。
だが、次の瞬間、彼女は息を呑んだ。
俺の顔が、血の気を失って真っ青になっていることに気づいたのだろう。
額から首筋にかけて、気味の悪い汗が流れ落ちていた。
「……ねえ、あんた、マジで大丈夫なの?」
その声には、もうからかいの色はなかった。
戸惑いと、純粋な心配。
「……昔から、乗り物酔いがひどいんだ」
なんとか、そう答えた。
「乗り物酔いとか、そういう次元じゃ……」
視界が、ぐにゃりと歪み始めた。
ダメだ。
このままでは――。
柚葉の視線が、俺の膝の上に向いていた。
俺は、自分でも気づかないほど、拳を固く握っていた。
小刻みに震える、その手を、彼女は、じっと見つめていた。
そして。
「あのときと、逆だね」
そう言って、柚葉は、そっと身を乗り出す。
俺の震える拳を、彼女の小さな両手で、そっと包み込むように握った。
「――っ!?」
突然の、柔らかな感触。
そして、手の甲から伝わってくる、確かな温もり。
俺は、ハッと我に返った。
目の前には、真剣な顔で、俺の手を握りしめている柚葉がいた。
「大丈夫。ウチがいるから」
静かな、しかし、凛とした声。
彼女の体温が、まるで呪いを解くかのように、俺の身体の強張りをゆっくりと溶かしていく。
荒れ狂っていた呼吸が、少しずつ、元のリズムを取り戻していくのが分かった。
止まっていた汗が、どっと噴き出す。
情けなくて、みっともなくて、顔を上げられなかった。
柚葉は、何も聞かなかった。
ただ黙って、俺の手を握り続けてくれた。
馬車の中には、気まずい、だけど、どこか温かい沈黙が流れていた。
やがて、馬車の速度が緩やかになり、外から人々の喧騒が聞こえ始める。
「……着きやしたぜ。グレンタの街です」
御者の、ぶっきらぼうな声。
俺は、おそるおそる顔を上げた。
窓の外には、木の柵で囲まれた、活気のある街の入り口が見えていた。
新しい冒険の、始まりの街。
「……着いたな」
「……うん」
さて、降りるか。
俺が腰を浮かせようとした、その時だった。
柚葉と、視線が合う。
そして、二人の視線は自然と、まだ繋がれたままの、互いの手へと落ちた。
「「……あっ」」
同時に、弾かれたように手を離す。
触れていた部分が、やけに熱い。
「なんでいつまでも握ってんのよ! この、えっち! スケベ! 変態親父!」
柚葉は、耳まで真っ赤にして、ぷいっとそっぽを向いた。
「……悪かった。助かった。ありがとな」
素直な言葉だった。
俺の言葉に、柚葉は肩をびくりと震わせる。
そして、顔をこちらに向けないまま、小さな声で、吐き捨てるように言った。
「……こっちこそ、ありがとうね」
「ん? なんか感謝されるようなこと、したか?」
「飛行機のときのお礼。まだしてなかったから」
そう言って、柚葉は乱暴に馬車から飛び出していく。
その背中を、俺は、少しだけ緩んだ口元で見送った。