第3話 ……ちょん切ってくれるってこと?
シグニィに助けられ、俺達は再びラウンジへと戻された。
……体が重い。
革張りのソファは、先ほどよりもずっと深く俺たちの身体を飲み込んだ。
半径五メートル以上、離れられない。
「……マジ、最悪」
ぽつりと、柚葉の絞り出すような声。
「まあ……たしかに不便だが、五メートルならぎりぎり許容範囲じゃないか?」
「あんた、全然わかってない。知らないおっさんと、ずっと五メートル以内に一緒にいるの想像してみてよ」
……うーん、たしかに嫌かもしれないな。
俺が男側だから、あんまり抵抗がないだけか。
「トイレとか、どうすんの。お風呂とか、着替えとか。マジ無理。マジないんだけど」
「いや、五メートルまでは離れられるわけだから、なんとかなるんじゃないか?」
五メートルというと大きめの車、アルファードの全長くらいだ。
結構あるぞ。
「……日本のさ、ワンルームマンションとかなら、風呂って狭いけど」柚葉は言った。「ここ、お風呂とか広そうじゃない?」
「たしかにな。まあ、柚葉が嫌な気持ちにならないように、極力努力するよ」
「……ちょん切ってくれるってこと?」
「なにをだ!」恐ろしいことを言う女だ。
「ナニを、だけど」と柚葉。「まあ、冗談だけどさ。はぁ……」
深い溜息をついて、柚葉は黙り込んだ。
そして俺は、べつのことを考えていた。
自分の得た能力『誓いの聖盾』と『二人で一つ』。
今度こそ、隣にいる者を絶対に守れと。
それが、贖罪だと。
まるで、そんなことを言われているような気がした。
神様とやらがいるのなら、ずいぶんと悪趣味なことをしてくれる。
◇◇◇
「混乱されているのでしょう」
ふいに、凛とした声が響いた。
シグニィだ。
「突然、このような運命を背負わされて……。お気持ち、お察しします」
彼女は、まるで俺たちの心の声が聞こえているかのように、そう言った。
柚葉は顔を上げない。
シグニィは、そんな柚葉の前にそっと膝をついた。
視線の高さを、合わせるように。
「ですが、その力は、あるいは、人々を救うために神々が授けたのかもしれません」
救う、だと?
その言葉に、俺は思わずシグニィの顔を見た。
シグニィは、俺と視線を合わせると、静かに頷く。
「……どういうことだ?」
「今、この神殿のすぐ近くにある、『グレンタ』という街が、ある問題を抱えています」
シグニィはゆっくりと語り始めた。
「グレンタの街を囲む森には、『嘆きの苔鹿』と呼ばれる、古の守護精霊がおりました。しかし、近頃、その精霊が何故か凶暴化し、森に入った人々を襲っているのです」
「魔物の一種か?」
「いいえ」シグニィは、静かに首を横に振る。「本来は、森の生命力を司る、心優しき存在。それが、何らかの理由で苦しみ、助けを求めて叫んでいる……私には、そう思えてならないのです」
彼女の言葉には、不思議な説得力があった。
「困っている人々がいるのです。森に入れず、街の経済は滞り、人々は怯えている。そして、本来は人々を守るべきだった精霊が、悲しい存在へと変わり果ててしまっている」
シグニィは、俺と、そして少しだけ顔を上げた柚葉を交互に見つめた。
「あなた方のその特別な力であれば、あるいは、あの森の悲しい守護者を、救うことができるのではないかと……」
彼女は、そこで言葉を切った。
「もちろん、これは命令ではありません。あなた方には、ここで安全に暮らす権利もあるのですから。ですが、もし……もし、あなた方に『助けたい』というお気持ちが、ほんの少しでもあるのなら……」
選べ、と。
彼女はそう言っているのだ。
実に、巧みな話術だった。
◇◇◇
俺は、考えていた。
この世界で、生きていくということ。
そして、柚葉と離れられない運命にあるということ。
彼女を守りたい。
そして、なんとか元の世界へ帰り着き、家族へと届けてあげたい。
俺の力は、そのためにある。
ならば、その力を正しく知る必要がある。
どんな敵に通用し、どんな状況で役に立つのか。
そして、この世界で、俺たちが何者なのか。
その立ち位置を、確立する必要がある。
俺は、ソファから立ち上がった。
「シグニィ」
俺が代表して、口を開いた。
「その話、詳しく聞かせてもらおうか」
「……承知いたしました、勇者よ」
シグニィは立ち上がろうとはせず、その場で静かに頷いた。
彼女の翠色の瞳が、俺たちを真っ直ぐに見据える。
「『嘆きの苔鹿』は、本来、森のマナを糧に生きる、穏やかな精霊でした。しかし、この地のマナが何らかの原因で枯渇し始めたことで、精霊は飢えと苦しみに苛まれています。その苦しみが、精霊を凶暴化させているのです」
「マナの枯渇……?」
「はい。原因は不明です。苔鹿は、生きるために本能的にマナを求め、マナを持つ人間を襲うようになってしまいました。そして、その体から撒き散らされる枯れた苔は、森の木々を蝕み、草花を枯らしています」
シグニィの視線が、ちらりと柚葉に向けられる。
「グレンタの街は、森の恵み……つまり、林業と薬草の採取で生計を立てる人々が多く暮らしています。森に入れなくなったことで、彼らの生活は困窮し、未来を憂いています」
静かな、しかし重い事実。
ファンタジーの世界も、結局は経済で回っているということか。
「私たちがあなた方にお願いしたいのは、討伐ではありません。苔鹿の苦しみを和らげ、その心を鎮めてほしいのです。ユズハ様のその規格外の魔力は、枯れたマナを補い、精霊の心を癒すことができるかもしれません。そして、モトイ様の絶対的な防御力があれば、万が一、苔鹿が襲いかかってきたとしても、ユズハ様と、街の人々を守ることができるはずです」
そういうことか。
攻撃能力のない俺と、防御能力のない柚葉。
二人でなら、それができる、と。
俺は柚葉の方を見た。
彼女は、膝を抱えたまま、じっと床の一点を見つめていた。
何を考えているのか、分からない。
長い、沈黙。
やがて、柚葉はゆっくりと顔を上げた。
その目には、もう涙の跡はなかった。
覚悟を決めた、強い光が宿っていた。
「……やってやろうじゃん」
ぽつりと、しかし、はっきりとした声で、彼女は言った。
「困ってるやつらがいるんなら、しゃーない。ウチの最強の魔力で、なんとかしてやんよ」
その言葉を聞いて、シグニィの唇の端が、ほんのわずかに、満足げに吊り上がったのを、俺は見逃さなかった。
「お聞き届け、感謝いたします」
彼女は優雅に立ち上がると、深々と一礼した。
「では、旅の支度を整えましょう。こちらへ」
◇◇◇
案内されたのは、神殿の地下にある、だだっ広い石造りの部屋だった。
武具庫、とでも言うのだろうか。
壁一面に、磨き上げられた剣や槍、鎧が整然と並べられている。
まったく目利きができないが、おそらくは高性能な品々なのだろう。
ゲームみたいに、装備したときの能力値の変動とかわかればいいんだがな……。
「さあ、お好きなものをお選びください。あなた方の最初の使命のために、我々が用意できる、最高の武具です」
そう言われても、俺には剣も槍も扱えない。
ステータスは、器用さ以外、ほぼFだ。
「俺は、頑丈なだけの盾と、動きやすい服があればそれでいい」
「かしこまりました。では、ミスリル銀で編まれた、最高の防御性能を誇るチェインメイルをご用意します」
一方、柚葉は、壁に飾られた杖のコレクションに、目を輝かせていた。
「うわ、なにこれ、ちょー可愛いんだけど!」
彼女が指さしたのは、先端に青い宝石が埋め込まれた、白樺の杖。
ローブも、刺繍の入った可愛らしいデザインのものを選ぶと、少しだけテンションが上がったようだ。
まあ、こういうのは女の子の方が楽しいんだろうな。
気分は、すっかり魔法使いだ。
いや、魔法少女か?
俺は、分厚い革の手袋と、鉄板の入ったブーツを選ぶ。
防御力はスキルで補える……はずだ。
「それから」と、シグニィは革袋を二つ、俺たちに手渡した。「当面の活動資金です。中には大金貨がそれぞれ百枚ずつ。グレンタの街で、何か必要なものがあれば、ご自由にお使いください」
大金貨百枚。
価値は分からんが、潤沢な資金だということは確かだろう。
「そして、モトイ様。こちらを」
シグニィは、もう一つ、小さな布包みを俺に差し出した。
受け取ると、ずしりとした金属の感触が手に伝わる。
「これは?」
「『双雄の紋章』。あなた方が何者であるかを、言葉以上に雄弁に語る証となるでしょう」
言われるがままに布を開くと、中から古びた銀の紋章が現れた。
二人の人間が背中合わせに立つ、どこか意味ありげな意匠が彫り込まれている。
「……これが、そんなに重要なものなのか?」
「ええ」とシグニィは、意味深な微笑みを浮かべる。「この世界には、力だけでは開かぬ扉もございます。もし、交渉が行き詰まるようなことがあれば、これを提示なさい。きっと、道は開かれるはずです」
よく分からんが、何かあった時のお守り、あるいは身分証のようなものか。
俺は、その紋章を懐の奥へとしっかりとしまい込んだ。
「準備は、よろしいでしょうか」
シグニィが問う。
俺は、新調した軽鎧の感触を確かめる。
柚葉は手に入れた杖を、嬉しそうにくるくると回していた。
その動作に、子ども向けのアニメの、魔法使いのステッキを回していた姿を想起する。
大きくなったら、魔法少女になって世界を救いたいだなんて、そんな可愛いことを……。
「どうしたの? 大丈夫?」
「あ、ああ……なんでもない。大丈夫だ」
柚葉の顔に、もう絶望の色はない。
前を向いている。
俺も、前を向かなければ。
さっさと世界を救って、柚葉を元の世界に送り届ける。
それが俺のいまの目標だ。