第10話 初代勇者英雄譚
重い扉が閉まり、外の喧騒が嘘のように遠ざかる。
ボルグは、改めて俺たちに向き直ると、深々と頭を下げた。
「この街を、グレンタを救ってくれた。ギルドマスターとして、いや、この街の住民の一人として、礼を言う」
そして、テーブルの上に大金貨を10枚置いた。
「報酬だ。少ないが、受け取ってくれ」
「いや、金には困っていない」と俺は断った。
「うん。そうだよ。この街の復興とかもしないとだろうし」と柚葉。
俺たちのその態度に、ボルグは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。
だが、次の瞬間、その厳つい顔をくしゃりと歪ませ、困ったように、しかしどこか嬉しそうに、がしがしと頭を掻いた。
「……はっ。あんたら、本当に欲がねえんだな。金のことしか頭にねえ冒険者どもに、爪の垢でも煎じて飲ませてやりてえぜ」
彼はそう言って笑うと、しかし、すぐに真剣な顔に戻った。
「だが、これは受け取ってもらわなきゃならねえ」
ボルグは、テーブルの上の金貨を俺たちの前に押しやる。
「ギルドにはギルドの流儀がある。達成された依頼には、必ず対価を支払う。それが、俺たちの世界の『筋』ってもんだ」
「しかし……」
俺がなおも何か言おうとすると、ボルグはそれを手で制した。
「それに、こいつはただの金じゃねえ。あんたらのおかげで、また森で仕事ができるようになった猟師や薬草師、亭主や息子が無事に帰ってきて喜んでる家族……そういう、この街で生きてる連中みんなからの、『ありがとう』って気持ちなんだよ」
その言葉には、不思議な重みがあった。
「この金を受け取らねえってことは、俺たちの感謝を『いらねえ』って、地面に叩きつけるのと同じことだ」
ボルグは、その傷のある目で、じっと俺たちを見つめた。
……完敗だった。
ここまで言われて、断れるはずがない。
俺と柚葉は、顔を見合わせる。
柚葉は、少し頬を赤らめながら、はにかむように小さく頷いた。
「分かった。ありがたく、受け取らせてもらう」
俺がそう言うと、ボルグは「おう!」と、満足そうに力強く頷いた。
その顔は、ようやく肩の荷が下りたように、晴れやかだった。
俺と柚葉は、ボルグに森での出来事を一通り話した。
「お前さんたちがやったことは、ただの魔物退治じゃねえ。伝説と、同じだ」
伝説。
その言葉に、俺は懐の奥にしまった『双雄の紋章』の感触を思い出す。
ボルグは、俺たちが持っている『メモリア・フローラの種』と、あの紋章を見て、ある確信を得たようだった。
「お前さんたちは、何かほしいものはないのか?」
「金とかは要らないんだが……強いて言えば、情報だな」
俺の言葉に、ボルグは片眉を上げた。
「情報、だと?」
「ああ。初代勇者についての情報がほしい」
もとの世界へ戻るには、前の勇者が辿った道を知る必要がある。
「うんうん」と、隣で柚葉も強く頷く。「ウチらがこれから何をすればいいのか、知りたいし。ただの昔話じゃなくて、初代勇者が、どんな旅をして、どんな道を辿ったのか、とか」
俺たちの真剣な眼差しを受け、ボルグは「……ふっ」と、短く息を漏らした。
そして、にやりと口の端を吊り上げる。
「なるほどな。普通の冒険者なら、もっと強い武器だの、頑丈な防具だのを欲しがるもんだが……。面白い。あんたら、ますます気に入ったぜ」
彼は満足げに頷くと、その表情を引き締めた。
ボルグは、ゆっくりと立ち上がった。
「普通の英雄譚なら、そこらの吟遊詩人にでも聞かせてもらえる。だが、あんたらが求める『もっと具体的な情報』ってのは、普通の場所にはねえ代物だ」
彼は、俺たちに背を向けると、部屋の出口へと歩き出す。
「ついて来な」
俺と柚葉は、顔を見合わせ、その大きな背中の後を追った。
ボルグは、ギルドの地下へと続く、古びた階段を降りていく。
鉄の鍵で厳重に施錠された扉を開けると、そこは埃っぽい、かび臭い匂いのする部屋だった。
禁書庫だ。
壁一面の本棚には、びっしりと古文書が並んでいる。
ボルグは、迷うことなく一つの棚へ向かうと、その中から、ひときわ古びた分厚い装丁の本を一冊、取り出した。
彼は、その本に積もった埃を、まるで宝物を扱うかのように、そっと手で払う。
そして、中央の大きなテーブルの上に、ことり、と静かに置いた。
革で装丁された表紙には、金箔で文字が記されている。ところどころ掠れてはいるが、読むことはできた。
『初代勇者英雄譚』
「この街の危機を救ってくれた礼だ」
ボルグの声が、静かな禁書庫に響く。
「この本は、ギルドマスターに代々受け継がれてきたもんだ。表向きの英雄譚とは少し違う……【何か】が記されてる、と言い伝えられている」
彼は、古びた本の表紙を、どこか眩しそうに撫でた。
「正直、俺っちにゃただの難解な古文書でしかなかった。だが、『紋章』を持つお前さんたちなら、この本当の意味を読み解くことができるかもしれん……。この先、お前さんたちの道標になるはずだ」
ボルグは、それだけを告げると、俺たちに背を向けた。
「貸出はできんが……。ここで読む分には問題ないだろう。わしは席を外す。心して、読め」
ボルグは部屋を出ていく。
◇◇◇
テーブルの上に置かれた、『初代勇者英雄譚』。
俺たちは、どちらからともなく、その本の前に立った。
「……これが、ウチらが勇者って呼ばれる理由、なのかな」
俺は、ごわごわとした手触りの表紙に、そっと指を触れた。
意を決して、その最初のページをめくる。
羊皮紙だろうか。
ざらりとした感触。
インクのかすれた、美しい挿絵が目に飛び込んでくる。
そこに描かれていたのは、一人の剣士と、一人の魔法使いの姿だった。
「……ウチらと、同じだ」
「俺は剣士じゃねえけどな」
そこに記されていた物語は、まさに俺たちと同じ、異世界から召喚された「二人組」の若者の、輝かしい冒険の記録だった。
ページをめくる指が、止まらない。
二人で力を合わせ、いくつもの困難を乗り越え、そして、世界を脅かす魔王へと挑んでいく。
その物語は、あまりにも英雄的で、あまりにも眩しかった。
俺たちは、食い入るように、その伝説を読み進めた。
そして。
何枚ものページをめくった先、物語の終章。
その最後の一節に、俺たちはたどり着いた。
俺は、そこに記された文章を、ゆっくりと、一言一句噛みしめるように読み上げた。
「──英雄たちは、その偉業を終え、世界中の人々からの感謝の光に包まれ、天へと昇り、故郷の世界へと帰還された──」
……帰還、された。
一瞬の、沈黙。
時が、止まったかのようだった。
その静寂を破ったのは、柚葉だった。
「…………帰れる」
ぽつり、と。
信じられない、といった響きで。
「帰れるんだ……! 本当に……帰れるんだ!」
「おっさん! 見た!? ねぇ、見た!? 帰れるんだって! ウチらのいた世界に!」
歓喜の声を上げながら、柚葉は俺の腕に飛びつくようにして、ぎゅっと強く掴んだ。
その喜びを全身で表現するかのように、ぶんぶんと俺の腕を揺さぶる。
「やった……やったぁ……!」
子供のように、声を上げて喜ぶ柚葉。
その姿を見て、俺の胸の奥にも、温かいものが込み上げてくる。
良かった。
本当に、良かった。
この子の居場所は、ここじゃない。
彼女には帰るべき場所があり、待っている家族がいる。
その希望が、確かにここにある。
その事実だけで、俺がこの世界に来た意味も、あったのかもしれない。
そう、思えた。
◇◇◇
柚葉が「すごい、すごい!」と喜びを爆発させている、その横で。
俺の目は、ページの、まったく別の場所に釘付けになっていた。
なんだ、これは……。
帰還の一文が記された、その最終ページの、一番隅っこ。
普通に読んでいたら、まず気づかないような、小さな小さなスペース。
そこに、インクが滲んで、ほとんど読めない文字が、びっしりと書き込まれていた。
まるで、後から誰かが無理やり書き足したような、小さな【脚注】。
俺は、柚葉に気づかれないよう、何気なく本に顔を近づけた。
そして、全神経を集中させて、その滲んだ文字の解読を試みる。
目を凝らす。
指で、そのインクの痕跡をそっと、なぞるように追う。
単語の、断片だけでもいい。何か、掴めないか。
……読める。
辛うじて、いくつかの単語を拾い上げることができた。
「ただし、彼らが遺した希望の花は、時に、持ち主の強すぎる想いを吸い上げ、世界に【奇跡】と【■■】の両方をもたらす」
奇跡と、なにか。
その最後の二文字が、インクの滲みで黒く塗りつぶされたかのように、どうしても読めなかった。
俺の頭脳が、高速で回転を始める。
文脈。前後の繋がり。
「奇跡」と対になる言葉。
『祝福』?
『幸福』?
いや、違う。この嫌な滲み方、わざわざ隠すように書き足されたこの雰囲気は、そんなポジティブな単語のはずがない。
もっと、不吉で、決定的な、何か。
文字の輪郭、インクの掠れ、文脈の全てを統合し、最も可能性の高い候補を、一つだけ弾き出した。
――『悲劇』か?。
その二文字が脳裏に浮かんだ瞬間、禁書庫の冷たい空気が、さらに温度を下げたような気がした。
背筋を、ぞくりと悪寒が走る。
「ねえ、こっちも見て! 『グレンタの森の悲劇を退けた若き勇者たちは、次なる導きを得るため、王都を目指した』って書いてある! 王都だって! 次は王都だよ!」
興奮冷めやらぬ様子で、柚葉が本の別の箇所を指さして叫ぶ。
彼女は、今まさに、希望の絶頂にいる。
俺は、その顔に悟られぬよう、全ての動揺を心の奥底に押し殺した。
そして、何事もなかったかのように、ゆっくりと、その分厚い本を閉じた。
◇◇◇
ギルドの禁書庫から出て、グレンタの街の明るい日差しの下を歩く。
空は青く、街は活気に満ちている。
「いやー、マジすっきりした!」
隣を歩く柚葉は、さっきからずっと上機嫌で喋りっぱなしだ。
「王都って、どんなとこかなー? グレンタより、ぜったい都会だよね? おしゃれな服とか、美味しいスイーツとか、売ってるかな!?」
屈託のない笑顔。
未来への希望にキラキラと輝く、その横顔を、俺は見る。
この笑顔を、守らなければならない。
そのためなら、なんだってできる。
だが、同時に、あの脚注の謎も、解き明かさなければならない。
希望の花。
奇跡と、悲劇。
それは、俺たちの帰還と、どう関わってくるのか。
このことは、まだ柚葉には言えない。
ようやく掴んだ希望の光を、俺自身の憶測で曇らせるわけにはいかない。
言えるはずが、なかった。
手に入れた「帰還」という、あまりにも大きな希望。
そして、同時に見つけてしまった「悲劇」という、不穏な影。
俺は、一人、その新たな秘密の重みを、誰にも気づかれぬよう、ただ静かに噛みしめた。
「ああ、そうだな」
俺は、目の前の青空を見上げながら、そう相槌を打った。
「楽しみだな」
そして、俺達は王都へと向かうための準備を始めた。