第1話 おっさんとギャル、異世界に立つ
俺――柏木 基、四十二歳。
かつてはそれなりに熱意もあったが、数年前に会社を辞めた。
今はフリーランスとして、細々とコードを書く毎日。
まあ、一足早い隠居生活みたいなもんだ。
今日は、久々の外出。
墓参りのために、飛行機で沖縄へ向かっていた最中のことだった。
ガゴンッ!
腹の底に響く轟音。
突き上げるような衝撃。
機内に響き渡る、けたたましい警報。
悲鳴。
明滅するライト。
内臓がフワリと浮き上がる、最悪の浮遊感。
うーん、これは死ぬな……。
もっと死ぬ前っていうのは焦るもんだと思っていたが、妙に冷静だった。
焦ったところでどうしようもないし。
まあ、俺みたいな男が長生きしすぎた。
死ぬときは死ぬ。
昔からそう思って生きていた。
大したことは成し遂げられなかったけれど……。
まあまあ、楽しい人生だったと……そう思えた。
飛行機事故で死ねば結構慰謝料がもらえるんだっけか。
そろそろ姪が大学受験とか言ってたか。
あいつの学費になってくれたら儲けもんだな。
願わくば、痛みを感じることなく、安らかに亡くなりたいものだ。
……やっと、会えるな。
俺も、もうすぐそっちへ行くからな。
そんなことを考えていたときだった。
不意に、腕がぎゅっと強く掴まれた。
見れば、隣に座っていた派手なネイルのギャルが、震えながら、俺の腕に必死にしがみついている。
そうだよなぁ……。
怖いよなぁ……。
可哀想に。
自分が死ぬのは良い。
もう四十二年間も生きた。
でも、高校生くらいの若い女の子が、こんな形でなくなるのは、あまりにも不条理だ。
なんとかしてやりたいが、まあ、俺のような無力なおっさんにできることは……。
俺は、震えを受け止めるように、彼女の手に自分の手を重ねて、強く握り返していた。
女の子は、さらに俺の腕に強くしがみついてきた。
柄にもないが、この子には生きてほしいと思った。
俺の命なんて要らないから、分けてあげたいとさえ。
その瞬間、機体が大きく傾いた。
それが、俺の幸せな人生の、最期の記憶のはずだった。
◇◇◇
ふと、目を覚ます。
知らない天井だ。
しかし、視界が鮮明になった瞬間、俺は息を呑んだ。
……なんだこりゃ?
精緻な彫刻が施された、木製の天蓋。
俺が寝かされているのは、映画でしか見たことのないような、やたらと豪華なキングサイズのベッドの上だった。
身体を包むシーツは、驚くほど滑らかな肌触りだ。
俺の家にあったせんべい布団とは、生地の次元が違う。
俺はゆっくりと身体を起こした。
袖をまくり、腕を見る。
痣一つない。
首を回し、腰を捻る。
どこも痛くはない。
あの墜落事故から、無傷で生還?
ありえないよなぁ。
部屋を見渡す。
広さは二十畳はありそうだ。
壁には美しい風景画。
猫脚のテーブルセットに、暖炉まである。
だが、どれもこれも綺麗すぎた。
誰も使ったことがないような、完璧に整えられた調度品。
生活感が、まるでない。
まるで高級ホテルのスイートルームだ。
いままでに一回だけ奮発して高級なホテルに泊まったことがあるんだが、そのときよりも上だ。
窓に近づき、そっとカーテンを開ける。
目に飛び込んできたのは、吸い込まれそうなほどに青い空。
そして、見たこともないデザインの尖塔が立ち並ぶ街並みだった。
ひとまず仮説を立ててみよう。
1. 俺は死後の世界、いわゆる天国とやらにいる。
2. 何者かによる、極めて高度なVRを用いた隔離。
3. あるいは――あり得ないと分かってはいるが――異世界転移。
そんなことを考えていたときだった。
コン、コン。
控えめなノックの音。
「はい」と答えてみた。
ドアは静かに開かれる。
◇◇◇
現れたのは女性だった。
輝く白銀の長髪。
耳は、スッと長く尖っている。
翠色の瞳。
……エルフじゃねえか。
仮説3が当たってるのかよ。
ゲームや小説で知ってはいたが、本物(?)のエルフが持つ神々しさは、想像を絶していた。
美しすぎる。
「お目覚めになられましたか」女性は一礼する。「私の名はシグニィ。あなた様を、古の伝説に基づき、この地へとお導きした者です」
なに導いてくれちゃってるんだよ、と言いたかったが言わなかった。
導いてくれてなかったら、あの飛行機事故で亡くなっていたのだろうし。
「ようこそおいでくださいました、勇者よ」
勇者……か。
なんというか、四十二歳のおっさんにつける称号としては、実に笑える響きだった。
「……人違いじゃないか?」
一応、否定はしておく。
「俺は柏木だ。勇者なんて大層なもんじゃない。見ての通り、ただのおっさんだ」
四十二歳の、しがないプログラマである。
「いいえ、間違いなく、あなた様です」
シグニィは慈愛に満ちた微笑みを崩さない。
……俺なんかより、もっと適切な人間がいただろうに。
「さあ、こちらへ。あなた様と同じく、神々に選ばれし、もう一人の勇者もお目覚めです」
「もう一人の勇者……」思わず言葉を繰り返していた。
「ええ。まずは、勇者様同士、顔を合わせていただかなくてはなりませんから」
俺は、この非現実的な状況に流されるまま、彼女の後をついていくしかなかった。
これからどこに連れていかれるのだろうと思いつつ……。
◇◇◇
シグニィに案内されたのは、吹き抜けになった開放的なラウンジだった。
部屋の中央には、大きな革張りのソファが二つ、向かい合うように置かれていた。
そして、その片方に、少女が一人、ちょこんと座っていた。
腰まであるウェーブのかかった髪。
派手なピンクのネイルが施された指先。
あの子は、死ぬ直前、俺にしがみついてきたギャルではないか。
生きてたのか……。
良かった……。
いや、死んだから転生してきたのか?
「では、私は少し席を外しますので。勇者様同士、ごゆっくりお話を」
シグニィは部屋を出て行ってしまった。
重厚な扉が閉まる音が、だだっ広いラウンジに大きく響き渡った。
少女もまた、俺が入ってきたことに気づくと、一瞬、驚いたように目を見開いた。
その瞳が、俺の姿をはっきりと捉える。
次の瞬間、完璧に整えられていたメイクの目元から、大粒の涙がぽろり、ぽろりと零れ落ちた。
「……うそ」
か細い、今にも消え入りそうな声。
彼女は俺に向かって駆け寄ってきた。
そして、あの墜落する機内と同じように、ぎゅっと、俺の腕にその派手なネイルの指を食い込ませるようにして、しがみついた。
「よかったぁ……! ひとりじゃ、なくて……ほんと、に……っ!」
腕に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくる。
そんなに怖かったのか。
混乱していたのかな。
無理もない。
俺は、彼女をそっと抱きしめた。
心細かっただろう。
生きていてくれて、本当に良かったと、そう思った。
彼女はしばらくの間泣いていたが、やがて泣き止んだ。
「……ごめんね、泣いちゃって。ちょっと、わけのわからないことすぎて、頭が真っ白になっちゃって。てか、飛行機、落ちたよね? で、これって何? どっきり? おじさん、なんか聞いてる?」
矢継ぎ早の質問。
「いや……俺も、いましがた目が覚めたばかりで何もな」
「いましがた? 何語? こっちの世界の言葉、もう覚えたの?」
「覚えてない。日本語だ。ついさっき、って意味だ」
「ふーん。そうなんだ。私、橘 柚葉。おじさんは?」
柚葉。
その名前を聞いて、俺は言葉を失った。
「ん? どうしたの?」
「……いや、なんでもない」単なる偶然だ。「俺は柏木だ。柏木 基」
「柏木さんね。よろしく」
「……なんて呼んだらいい? 橘御大でいいか?」
「なにそれ。変なの。普通に柚葉とかでいいよ」
「柚葉ちんにするか」
「変な呼び方すんな!」
うーん、俺の悪いクセだ。
ついつい変なことばっかり言いたくなる。
「じゃあ、柚葉な。悪かった。俺が変なことを言ってたら注意してくれ。頑張って直すから」
「……四十二歳まで治らなかったのなら、一生というか、死んでもそのまんまじゃない?」
辛辣なことを言う女だった。
まあ、その通りではある。
いろいろ、帰ってきたらすぐに靴下を脱げとか、トイレのときは流す前に便座の蓋を閉じろとか、立って小便をするなとか。
大人になってから言われても、治らないものなのだ。
「てかさ、マジでどうすればいいんだろうね、これ。帰れるのかな……」
「さあな……」と答えるしかなかった。「もとの世界に帰りたいんだよな」
「うん」柚葉は小さい声で言った。「おじさんは? 家族とかいないの?」
「いまはいない」
「ふーん。離婚したとか?」
「……ま、そんなところだな」
「変なことばっかり言ってるから捨てられたんでしょ」
俺は答えなかった。
「ごめん、怒った?」と柚葉。「冗談のつもりだったんだけど」
「いや、怒ってない。大体あってるよ」
「それならいいけど……。ひとりじゃなくて良かった。おじさんがいてくれて安心した」
そして、柚葉は俺の顔をじっと見た。
「ん? どうした? イケメンだからって、そんなに見られたら照れるぜ」
「絶対にイケメンではない」ひどいことを言う女だ。「あのさ、おじさんの顔、どこかで見たことがあるような……」
「気のせいじゃないか」
「インスタやってる? あ、Youtuber? 違うか……。テレビで見たような……」
「テレビには何回か出たことがある」
「え、もしかして、犯罪者?」
「んなわけあるか」
結局、柚葉は俺がテレビに出ていた理由を思い出せなかったらしい。
◇◇◇
しばらく待っていると、シグニィが戻ってきた。
「お話は済みましたか、勇者たちよ」
「んー、まあ、自己紹介くらいは?」と柚葉。
シグニィはうなずいた。
「さて、単刀直入に申し上げます。この世界は今、危機の瀬戸際にあります」
世界が危機にあるんかい。
安寧の日々を送ることはできんのかい。
シグニィは語る。
魔王の復活。
世界の危機。
実に陳腐で使い古されたテンプレートだ。
だが、まあ、わかりやすいといえばわかりやすい。
俺たちのもといた世界と比べて、どちらが危機の瀬戸際なんだろうな……。
核爆弾とかはこっちの世界にないだろうし。
「あなた方お二人は、この世界を救うため、神々の手によって選ばれ、召喚されたのです。伝説の『初代勇者英雄譚』に記されし、再臨の勇者として」
壮大すぎる話だった。
四十二歳のおっさんには、少々荷が重すぎるような気がした。
柚葉が「へぇー」と感心したような声を上げた。
「魔王ねぇ……。で、それ倒したらなんかいいことあんの?」
柚葉の茶化すような口調。
だが、シグニィは動じない。
「ご理解が早くて助かります、勇者よ。あなた方には、その魔王を再び封印していただきたいのです」
「えー、ウチらがってこと? そんなことできるのかなぁ……。この世界で、他にできそうな人っていないわけ?」
「魔王を封じることができるのは、異世界からの魂を持つ、聖なる力を持った勇者のみ。それが、この世界の理なのです」
シグニィは、俺と柚葉を真っ直ぐに見据えた。
「あなた方には、選択の権利があります」
そして、数秒の間をおいて、言葉をつづけた。
「この世界の危機を救うため、勇者として立ち上がりますか? それとも、戦いを拒み、この神殿で、我々の保護の元、安全に暮らしますか?」
うーん、まあ普通は勇者として立ち上がるんだろうが……。
俺はなんというか逆張りが好きなので、戦いを拒んだらどうなるんだろう、ということが気になって仕方がなかった。
しかし、俺が答えるより先に、柚葉が真剣な声で尋ねた。
「一番大事なこと聞いていい? クリアボーナスで、元の世界に帰還ってのは……できる?」
シグニィは、その問いに、ゆっくりと頷いた。
「初代勇者様もまた、その使命を果たした後、神々の導きにより、故郷へと帰還されたと言い伝えられております。あなた方が使命を果たした時、神々は再び、あなた方に道を示すでしょう」
俺は、もとの世界に未練はないが……。
柚葉は長い足を組んだ。
天を仰ぐ。
数秒の沈黙の後。
覚悟を決めた目で、俺の方をちらりと見た。
「……やるしかない。やりたい。世界を救って、家に帰りたい」
その瞳には強い光が宿っていた。
本当に元の世界に帰りたいんだな。
俺は、彼女を家族に会わせてあげたいと思った。
残された家族は、どれだけ辛いことか。
子どもに先立たれる親の気持ちが、俺にはよくわかる。
「分かった。やろうじゃないか」と俺は答えた。
返事を聞くと、シグニィは微笑んだ。
「それでは勇者よ、まずはあなた方の『力』を拝見しましょう」