偽装結婚の旦那さまが真っ赤な嘘をついた夜
「あなたが運命の人だ。僕はきっと、あなたに会うためにこの夜会に参加したんです!」
男爵家の嫡男が嬉しそうに言った瞬間、私は見るに堪えずに目を伏せた。
彼の口元からフワッと――
真っ赤な息が漏れ出したからだ。
それは、嘘の言葉を吐いた証拠。
私の視界にだけ赤く霞んで揺れる。
それは火の粉のようにゆっくりと、でも確かに、空気を汚染していく。
「……そうですか」
私はワイングラスに口をつけ、喉を潤すふりをして、会話を打ち切った。
本当に『私と話したくて』来たのなら、あの息は透明だったはずだ。
けれど、どの相手も同じ。
『美しいですね』『お似合いのドレスですね』
皆、口にするたび世界を赤く染めていく。
嘘つきばかりの世界――それが私の見ている日常だった。
私、クラリス・レジーナは、十九歳になったばかりの侯爵令嬢だ。
先月、学院を卒業し、今は適齢期というやつに突入している。
両親は躍起になって婚約者探しをしているが、私にとっては苦行以外の何ものでもない
だって、会えばわかってしまう。
どんなに甘い言葉も、どんな紳士的な態度も、その裏にある本音を――赤い息がすべて暴いてしまうから。
物心ついたときには目覚めていた能力は、一見便利なようで、とても不快であることも多い。
もう、慣れたけれど……。
ふと、壁際の時計に目をやる。
もう少しで夜会が終わる。
あちこちで赤く染まる夜会会場を見渡すと、人って嘘が大好きなんだなと疲労感がたまる。
疲れた足を引きずるようにして、私は一人、庭に面したバルコニーへと出る。
ほどよく冷たい夜風が肌を撫で、シャンデリアの音楽が遠く霞んで聞こえる。
眼下には月明かりに照らされた噴水と薔薇の庭。
高い空に浮かぶ満月を見上げて、私はつぶやきを風に乗せる。
「……どうして、こんな体に生まれてしまったのだろう。嘘を見抜く力なんて、なければ良かった」
誰かの気持ちを心から信じたかった。
本当の恋をして、誰かに恋されて、甘い囁きに心をときめかせたかった。
真偽を見分ける眼なんて、誰かにあげてしまいたい。
……と、背後で足音がした。
ヒールの音ではない。
男性の、落ち着いた歩調だ。
私は思わず振り返った。
そこには、一人の青年が立っていた。
金糸のような髪に蒼い瞳。
背筋の伸びた姿勢と、非常に整った顔なのにどこか冷めた表情。
ええ……少しだけなら知っている。
彼は、今夜の夜会で最も注目されていた人物。
ビズキット公爵家の跡継ぎだ。
「……嘘を、見抜ける?」
彼は、驚いたように目を見開いた。
どうやら、私のつぶやきは、思っていたより大きかったらしい。
私は胸の奥が強く跳ねるのを感じた。
「つぶやきが、聞こえてしまって」
彼はそう言いながら、私と距離を取って立っていた。
無遠慮に近づいてこないその所作に、私は少しだけ警戒心を緩めた。
「ただの独り言ですわ。忘れてください」
私は視線を月に戻し、彼から顔を逸らす。
けれど彼は、ずいぶんと落ち着いた声で言う。
「俺も似たようなものだ。見えはしないけど、嘘にはうんざりしてる」
私は肩越しに彼の口元をチェックした。
赤い息は……見えなかった。
彼の言葉は妙に、疲れたような響きを帯びていた。
「あなたは誰の嘘に、疲れているのですか?」
「婚約者の、かな。いや、周囲の人間全部かもしれない。『お幸せですね』『理想のカップル』……聞いていると吐き気がしてくる」
――また、赤くない。
この人は、嘘を言っていない。
私は小さく問い返した。
「婚約……なさっているの?」
「一応ね。けど、それも長くはない」
男は月を見上げ、そして私の方に視線を戻す。
「今、契約を解消しようとしている。方法はある。……別の愛する誰かを見つけたら、無効にできる条文があるんだ」
「……いるのですか、愛する人が」
「いない」
「それでは、解消できないのでは?」
「そこで提案だ。僕と――偽装結婚をしてくれないか?」
……何を言っているのだろう、この人は。
冗談なのかを確かめるため、私は彼の顔をじっと見つめた。
しかし口元からは一切、赤い息は漏れていなかった。
つまり、本気でこんなことを言っていることになる。
「偽装結婚なんて、そんなに簡単な話じゃありません」
「分かってる。けれど、今のままじゃ俺は潰れる。束縛の強い婚約者に、周囲の圧力。自由なんてどこにもない人生だ」
彼の切実な様子を見て、私は気づいた。
この人は嘘が嫌いなんだ。
私と同じで、ずっと本音を殺してきた人なのかもしれない。
「形式だけでいい。君も、結婚相手を押しつけられるのは嫌だろう? だったら、名ばかりでも既婚になってしまえば、誰も口を出せない」
「私に婚約者がいるとは考えないのですか」
「い、いるのかい?」
「いませんけど……」
「あぁ、良かった。結婚っていっても極力関わらなくていい。別々の部屋で構わない。お互い、自由に生きよう。どうせ、偽物の夫婦なんだから」
自由に生きる、偽物の夫婦。
その言葉は、自分でも驚くほど、私の心を揺らした。
偽物。
誰の嘘も見抜けてしまう私にとって、それはむしろ誠実な言葉なのかもしれない。
少しだけ、頬を撫でる風が暖かくなった気がした。
「私はレジーナ侯爵家のクラリスと申します」
「俺はレオン。ビズキット公爵家だ」
端正な顔立ちに汚れを感じさせない双眸で私を真っ直ぐに見つめてくる。
夜会で、女性たちがキャーキャー言っていたのを思い出す。
でも今の彼は悩みに苦しむ疲れた青年に見える。
私はそっと手を差し出した。
彼は驚いたように目を見開き、次いで、満面の笑みを披露した。
「では、クラリス。偽装結婚の件、よろしく頼む」
指先が重なる。
ほんの一瞬、赤く染まらない世界が、そこにあった。
☆ ☆ ☆
私たちは、結婚した。
名門・ビズキット家の嫡男と、中級貴族レジーナ家の令嬢の縁組。
突然のことに世間は話題沸騰、町中を様々な噂が駆け抜けたが、当の本人たちはただ静かだった。
式は挙げなかった。
顔合わせすら簡略に済ませ、書類と判子だけで済ませた契約。
夫婦の寝室は別、生活も極力干渉しない。
まさに、レオンが言っていた通りの偽装結婚が完成した。
しばらくは平穏だった。
でもある日、偽物が少し崩れる音がした。
「食事は一人より二人の方が、美味い気がする……」
とある夜、ふとそんなことを言ったのは、レオンの方だった。
私が自室で夕食を取っていたら、ノックもそこそこに、彼がトレーを持って現れたのだ。
「一緒に、食べてもいいだろうか?」
私は戸惑いながらも頷いた。
「なんとなく、一緒に食べたい気分になったんだ」
彼の口から赤い息は出ていなかった。
それから私たちはごく自然に、夕食を共にするようになった。
毎晩ではない。
週に何度か。
話題も他愛のないことばかり。
「今日、メイドたちがコソコソ話してたよ。俺と一緒にいるときのクラリスは表情硬すぎ、ってさ」
「あなたも人のこと言えませんわ」
「俺は、むしろ引きつってる顔に自信がある」
くすっと笑ったそのとき、私は気づいた。
嘘なく笑ったのは、いつぶりだっただろう。
なんとなくレオンとの距離が近づいた気がした。
けれど縮まるほどに時々、不安になった。
この関係は偽物。
私たちの結婚は、片方の都合でいつでも別れられるようになっている。
どちらかに真に愛する人が見つかった時は、すぐに離婚できる。
もちろん、互いに罰則はない。
つまり彼が誰かを本当に愛したとき、すべてが終わるのだ。
だから、あまり近づいてはいけない。
そう思っていたのに――
「クラリス」
ある日、レオンがふいに私の名前を呼んだ。
家の窓辺で本を読んでいたときだった。
彼の声は、少しだけ硬かった。
「……なにか?」
「最近……その、君と話すときだけは、気が楽になる。君は嘘を見抜くんだろ? だから、俺もつい本音を言いたくなる」
私の胸がじわりと熱くなる。
彼の言葉には、やはり嘘はなかった。
「おかしなことを言うようだけど……君といると嘘のない世界にいるみたいなんだ」
私は、ゆっくりと本を閉じた。
「……それは、嘘ではありませんのね?」
レオンは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「バレてたか」
彼の笑顔には、どこまでも穏やかな本当があった。
中庭に咲く秋薔薇が、ちょうど見頃を迎えていた。
私は書斎の窓からその景色を眺めていた。ふと視線を落とすと、石畳の小道を歩く二人の姿が目に入った。
レオンと、来客中の伯爵令嬢。
たしか、彼の旧知の知人だったはず。今日の午前に訪ねてきたと、メイドが話していた。
二人は談笑している。
令嬢の笑顔は華やかで、動作ひとつひとつが堂に入っていた。
レオンもほんのわずかだけど、笑っていた
その瞬間、私は自分の胸に、奇妙な感覚を覚えた。
胸の奥が熱くなる。
喉の奥が苦しくて、言葉にならない。
どうして、あんなに自然に笑えるの?
私はゆっくりと窓から目を逸らし、本に目を落とした。
けれど、文字はまったく頭に入ってこなかった。
その夜。
数日ぶりに、レオンが食堂にやってきた。
私はすでに一人で食事を始めていたが、彼は「いいか?」とだけ聞いて席についた。
なにか異変を感じとったのか、レオンはあまり喋らず、沈黙が流れた。
「……今日のお客様と、随分楽しそうでしたね」
自分でも驚くほど、声が冷たかった。
レオンは手は止めて、こちらを見た。
「そう、かな?」
「彼女、とてもお綺麗な方でしたもの。お話もきっと、面白かったのでしょうね」
「……まあ、久しぶりだったし」
彼の口元には、赤い息はなかった。
本当に、ただの再会だったのだ。
本当に、ただの挨拶だったのだ。
だからこそ、私は自分の気持ちをごまかす必要があった。
「私は、べつに、気にしてませんけれど」
そう言った瞬間。
自分の口から、ふわりと赤い霧が漏れた。
私の口元を見たレオンが、目を丸くした。
「今の君……赤かったぞ」
私は驚きから絶句して、手元のフォークを握りしめた。
「……こ、これは、そのっ……!?」
「おっ。本当に赤かったのかな?」
ここで私はハッとする。
彼は色を見ることができない。
動揺しすぎて、そんな当たり前のことにも気づかなかった。
「嫉妬してくれたのか?」
その言葉に、心臓が跳ねた。
レオンはからかうでもなく、静かに私を見ていた。
真剣な目。
からかわれているわけではない。
私は恥ずかしくて俯く。
赤い霧は、もう消えていた。
☆ ☆ ☆
エルヴィーナ・クローデル。
彼女の名を聞いたとき、胸の奥に冷たい水を流し込まれたような気がした。
レオンの元婚約者。
社交界では美貌と教養に恵まれた才媛として有名で、けれど嫉妬深く、執着心の強い女。
彼女が偶然を装って、私たちの屋敷に現れたのは、ある午後のことだった。
「ごきげんよう、クラリス様。お会いできて嬉しいわ」
そう言って現れた彼女の微笑みに、私はすぐに気づいた。
口元から、立ち上る赤い霧。
嬉しいなんて大嘘もいいところだろう。
私は静かに挨拶を返した。
「わざわざ来ていただいて、ありがとうございます。遠方からわざわざ?」
「ええ。少し気がかりなことがあって……ご挨拶を兼ねて伺ったの」
彼女の指には、かつてレオンから贈られたと噂の翡翠の指輪が嵌っていた。
「どうぞ、中へ」
私は表情を変えずに彼女を室内に案内した。
コーヒーを出すと、指輪を見せびらかすようにカップを持ち上げる――滑稽なくらい露骨だった。
「お二人のご結婚、突然でしたわね。きっと、何か事情があったのでしょう?」
「深い事情はないのですよ。私たち、出会ってすぐに恋に落ちてしまいまして。今ではとても大切な夫です」
とっさについた嘘。
けれど、自分の口元からは少ししか赤い息が漏れなかった。
なぜなら、それは半分本当だったから。
エルヴィーナの目が、ほんの一瞬ブレれた。
「……そう。まあ、すぐに飽きると思うわ。あの人、熱しやすくて冷めやすい人だもの」
彼女の口から歪な煙のようものが、私に迫ってくる。
かなりの感情を伴っている。
それを見て、私ははっきりと理解した。
この人は、まだレオンへの執着を手放していない。
――でも、おそらく愛じゃない。
ただ、所有物を取られた女の執着。
「私は、彼をそんな風に思ったことはないですわ。あなたのその言葉が赤すぎて、信じることもできません」
エルヴィーナの目が大きく見開かれた。
「……なんの話かしら?」
「ただの感想です」
私はティーカップを静かに置き、彼女の指の翡翠の輝きに目を落とす。
「ところで、素敵な指輪ですね。まだ……お持ちだったのですね?」
翡翠の石が、わずかに震えた。
エルヴィーナは、唇を噛んだ。
「ええ、思い出として。別に深い意味は――」
その言葉のあとにも、ずっと嘘ばかりをはき続ける。
彼女が帰るまでテキトーに相手をした。
夕方になり、帰宅したレオンに今日のことを説明した。
「彼女、まだあなたが気になるみたい」
「……執着だろうな。だけどそれは愛じゃないし、俺はもう誰にも縛られたくない」
彼のその言葉に私は少しだけ、安心した。
☆ ☆ ☆
ある晩、夕食後の書斎で、レオンが突然こんなことを言い出した。
「……君のその力、俺といて面白くなったことってあるか?」
私は読んでいた本から顔を上げて、少しだけ眉をひそめる。
「面白い、ですか?」
「ないよな。じゃあ能力を楽しく使ってみよう。例えば、嘘つきゲームとか」
「なんですか、それは」
レオンは悪戯っぽく笑って、指を立てた。
「ルールは簡単。交互に一つずつ、質問していく。相手はそれに本当か嘘かを答える」
「それ、私が一方的に有利なだけでは?」
「いいんだ。君がどこまで俺の本音を見抜けるか、試してみたい。そして、君がどこまで嘘をつけるのかも、実は気になる」
くいっと顎で椅子を勧められ、私はしぶしぶ席を移った。
けれど心の奥がほんの少し、わずかに浮き立っていたのは……たぶん気のせいではない。
「じゃあ、俺から」
レオンがひと呼吸置いて、口を開いた。
「クラリス。君は、俺の見た目は悪くないと思っている?」
予想外な質問に、私は目を見開いた。
「……自惚れですか?」
「答えになってない」
私は小さく咳払いをして、視線を逸らす。
「……ええ。そう、思っています」
私の口元から、何も出なかった。
レオンが静かに笑った。
「そっか。じゃあ、次は君の番」
私は少しだけ考え、わざと意地悪な質問を投げた。
「では、あなた。――わたくしのことを、可愛いと思ったことはありますか?」
レオンの表情が、ほんの少しだけ固まった。 数秒の沈黙の後、彼ははっきりと答える。
「あるよ。何度も」
私は、息を止めて彼の口元を見つめた。
本当。
なんだか急に恥ずかしくなってくる。
なぜ私はこんな質問をしてしまったのだろう。
「そ、そうですか。……それは、意外でした」
動揺を隠すように、私はカップを手に取った。
少し震えた指先が、陶器に触れてわずかに音を立てる。
レオンの視線が、それを静かに追っていた。 なぜか急に緊張してくるので私は困った。
彼の声が、少しだけ低くなる。
「クラリス。君は俺との結婚生活で、少しでも楽しいと思ったことがある?」
私は、言葉に詰まった。
偽装のはずだった。
でも、嘘のない食卓。
嘘のない会話。
嘘のない彼の声。
私は、目を伏せた。
「……あります」
自分の口元を見なくても分かる。
赤い息は、出ていない。
「俺もだよ。君と話すと、全部がまっすぐになる。すごく、不思議だけど」
まっすぐ。
――ああ、きっと、それは私も同じだ。
気づけば、テーブルの上で、ふたりの指先がすれ違っていた。
やがてしっかりと絡みつき、私たちは潤んだ目で見つめ合った。
仮面舞踏会の招待状は、豪奢な封筒に包まれて届いた。
王都で年に一度開かれる社交の祭典。
参加は貴族の義務とされ、特に新婚夫婦は周囲から注目を集める。
偽りの夫婦であっても、私たちも例外ではなかった。
「出席するのは、面倒ではなくて?」
私はそっと問いかけた。
レオンは珍しく真面目な顔で、窓の外を見つめていた。
「……避けても、余計に目立つだけだ。ああいう場は、気を抜くと一気に足をすくわれるからな。行くなら、堂々と」
「仮面をかぶって、堂々と?」
「そういうものさ。仮面の奥の嘘と本音、それを見抜けるのは、君だけだろ?」
そう言って笑う彼の横顔を、私は見つめた
仮面の奥の嘘。
もし彼の中に何か隠している想いがあったなら、それさえも私は見抜いてしまうのだろうか。
胸の奥に、得体の知れないざわめきが広がる。
その日は眠れなくてベッドに横たわったまま、天井を見つめていた。
仮面舞踏会。
そこは、嘘が正装になる場所。
誰もが仮面をかぶり、本当の顔を隠し、本音を言わない世界だ。
それでも、私は赤い息を見てしまう。
その能力が時に人を突き放し、傷つけるのだと知っている。
もしレオンが仮面をかぶって、誰かに甘い言葉をささやいたとき――
その言葉に、赤がなかったら。
私はどうする?
仮面の下の本音が、自分以外に向けられたものであったなら。
指先が冷えて、胸が軋む。
気づきたくなかった。
けれど、私はもう気づいてしまった。
私は、彼を本気で見ている――ただの契約相手ではなく。
ようやく寝付けたものの、嫌な夢を見た。
白い仮面をつけたレオンが誰かの手を取り、舞踏会のフロアを軽やかに踊っていた。
その相手は、私ではなかった。
「君は、赤く染まらない。嘘をつかない。だから、つまらないんだよ」
仮面の奥から、彼がそうつぶやく。
そして彼の口から、真っ赤な息が、霧のように立ちのぼる。
私は、手を伸ばした。
「……レオン」
でも指先が届く前に、彼は仮面を外して微笑んだ。
その顔は、どこまでも遠く感じた。
目が覚めたとき、外はもう朝を迎えていた
シーツの中で、私はそっと息を吐いた。
これはただの夢。そう、ただの夢。
ただ今日という日が、今までとは違う一日になる。
それだけは、なぜか確信できた。
☆ ☆ ☆
仮面舞踏会――
それは、貴族社会における嘘の許される夜。
装飾の豪華な仮面と衣装に身を包んだ男女が、取り繕った言葉を交わして笑い合う。
素性を隠した男女が、入り乱れて踊りを楽しむ。
恋人や夫婦で参加する場合、パートナー以外の異性と情熱的に踊ることを許されている。
むしろ推奨されており、基本的にはパートナーと踊ることは禁止だ。
最後のダンスの時だけ、パートナーとのダンスが許される。
他の異性と踊った後、最後に元来の人に戻る。
その結果、素晴らしいと感じるか、はたまた他の人の方が良かったと感じるか。
愛が深まることもあれば、ヒビが入ることもあるのだ。
私は、紅と黒を基調としたドレスを纏い、顔の上半分が隠れる装飾の施された仮面をつけた。
この仮面の奥に、本音を隠すことができれば、どんなに楽だろう――
そんなことを思いながら、私はレオンと並んでフロアの隅に立っていた。
彼は銀の刺繍の入った黒のマント姿で、仮面越しでもわかるほど堂々としていた。
とはいえ、今夜の彼にはどこか緊張の影がある。
「レオン様」
その声が聞こえた瞬間、私は背筋を強ばらせた。
振り返ると、そこには――
エルヴィーナ・クローデル。
あの特徴的な目と口元で判別できる。
純白の仮面に、清涼感のあるアイスブルーのドレス。
完璧な微笑と姿勢で、彼女は一歩一歩、私たちに近づいてきた。
「こうして三人でお会いするのは、初めてですわね。……奥様?」
「ええ」
「改めてご挨拶に伺おうと思っていたのですけれど、なかなか機会がなくて。ご結婚、本当におめでとうございます。心から祝福を」
どす黒さを含んだ赤が吐かれる。
私は、わずかに微笑んで返した。
「お気遣い、痛み入ります」
レオンは無言だった。
そしてエルヴィーナは、彼に視線を向ける。
「レオン様。少し、外でお話ししてもよろしいかしら? 二人だけで」
その瞬間、レオンの表情は動かずとも、わたしの目にははっきりと映った。
ほんの一瞬、彼の口元から赤が漏れる。
「……俺もそう思っていたところだ」
え?
私は心臓がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
なぜ?
彼の言葉は、嘘だった。
本心は違う。
私は二人の背中を見送りながら、気づいてしまった。
あれは、私を何かから守るための嘘なのだろうと。
レオンは何かを隠している。
それはきっと、私を巻き込まないための嘘なのだ。
……そんな嘘、私には通じないのに。
私はフロアの隅を抜け、静かに二人の後を追った。
そして、人気のないテラスの影で、会話が聞こえてくる。
「まだ彼女と一緒にいるの? 本当に、あの女が必要なの? どうせ偽装結婚なのでしょう!?」
感情が昂ぶっているのか、エルヴィーナの声は震えていた。
「あなたには、私がいるじゃない。昔のように戻ればいい。……そうでしょう? あなたと私なら絶対に上手くいくわ――」
レオンはしばしの沈黙のあと、ゆっくりと答えた。
「……君のことは、愛していない」
その言葉に、嘘はなかった。
エルヴィーナが絶句する。
仮面の奥の彼女の瞳が揺れ、口元がわずかに崩れた。
「……嘘よ」
「嘘じゃない。今の俺には、愛している人がいる」
私は、息をのんだ。
レオンが、誰の名も告げなかったその一言――。
けれど、その言葉は透き通っていた。
「君の言うとおり、最初は偽装だった。でもいつの間にか本物になっていた。悪いが、君と関わるのはこれで最後だ」
「嘘に決まっているわ!」
「そもそも俺は、君を愛したことはない。君だって、本当の俺を見ようとはしなかった。君はただ、他人に自慢できるパートナーが欲しかっただけだ」
レオンの言葉に逆上したエルヴィーナは、平手打ちをした。
やってしまった後に、まずいと思ったのか、動揺しながら走り去った。
レオンはやれやれといった顔で頬を擦る。
彼の視線が、ゆっくりとこちらを捉える。
「クラリス。そこにいるんだろう?」
私は隠れるのをやめて、一歩踏み出した。
「……どうして、あんな嘘をついたの?」
レオンはどこか寂しそうに微笑んだ。
「君を巻き込みたくなかった。あいつはなにをするかわからない。君を傷つけるのだけは嫌だったんだ」
「……」
「でも、嘘はついていない。君にはわかるはずだ」
私はゆっくりと彼に歩み寄る。
「確かに、さっきのあなたの言葉は、透明だった」
「君だけが、俺の本音を暴く。どんなに隠しても意味がない。でもそれが一番、救われるんだ」
仮面を外し、彼が私の前に立つ。
私もまた、仮面をそっと外した。
「だから今はもう……何も隠さない」
レオンの目がまっすぐに私を捉える。
「クラリス。偽装でも契約でもない。俺は、本気で君を愛してる」
その言葉の色なんて確認せず、私はすぐに笑った。
「それなら私も、本当の気持ちを言っていいかしら」
彼の手に、自分の手を重ねる。
「私だって、あなたが大好きよ」
「嬉しいよ。色が見えなくても、本物だって俺にはわかる」
そう言って、レオンは私のことを力強く抱き寄せた。
しばらくそうした後、私たちは会場に戻る。
本当は家に直行したかったけれど、参加した以上そういうわけにもいかない。
嫌々ながら、他の異性たちとダンスを踊る。
時折、レオンの方を確認すると、どの女性と踊っている時も赤い息を吐いていた。
この部分だけ見れば、物凄い嘘つきに見えてくる。
最後、私とのダンスの時だけは、真人間になっているから面白くなって笑みがこぼれる。
「今夜、一生分の嘘をついたのではなくて?」
「本当だよ……。でもここからは真人間になれる」
私たちは最後のダンスを心ゆくまで楽しんだ。
仮面舞踏会の一夜が明けた朝、私は久しぶりに、深く眠れた気がした。
夢の中でさえ、誰の言葉も赤く染まらなかった。
そして目覚めて最初に思い浮かべたのは、昨夜のレオンの言葉――
「俺は、本気で君を愛してる」
それはたった一言なのに、世界を反転させるほどの力を持っていた。
その日の晩、レオンが私の部屋に来た。
もう別室ではなくなることを、お互いに意識しながらも、彼はいつも通り、少しだけ不器用な笑みを浮かべていた。
「一つ、報告がある」
「なんでしょう?」
「エルヴィーナとの縁は、正式に解かれた。もう、彼女が俺たちの前に現れることはない」
婚約解消は私との結婚前に行っていたが、今後は一切関わらないように改めて話をつけてくれたのだろう。
「それから……君の両親にも、正式に挨拶をしたい」
私は思わず目を丸くした。
「挨拶?」
「婿としてじゃなく、夫として。そして……恋人として」
言った瞬間、彼は少しだけ視線を逸らした。
珍しく、照れているようだった。
私は胸の奥がじんわりと熱を帯びるのを感じながら、小さく頷いた。
「そうですね。そろそろ、偽装の看板を下ろしてもいい頃ですもの」
それから数日後。
二人きりの小さな夕食の席で、私はワインのグラスを揺らしながら、ふと思ったことを口にした。
「ねえ、レオン。あなた最初に会ったとき、どうしてあんなに素直に偽装結婚なんて提案できたの?」
彼は少しだけ笑って、言う。
「君が、嘘を見抜けるって言ったから」
「え?」
「俺、ずっと嘘をつき続けてきたんだ。親にも、婚約者にも、社交界にも。でもあのとき、バルコニーの月明かりの下で、君が『嘘を見抜く力なんて、なければ良かった』って言っただろ?」
私は、懐かしい夜を思い出す。
思えば、あそこが出会いの夜だった。
「君だけは、全部見透かしてくれそうで……逆にそれが楽になった。嘘が通じないなら、最初から正直でいられるからな」
彼の声には、やっぱり赤はなかった。
☆ ☆ ☆
春が来た。
屋敷の庭に咲く花々が心なしか明るく見えたのは、世界が変わったわけではなく、きっと私の目が変わったから。
赤い息は、今でも相変わらず見える。
けれど、それに怯えることはもうない。
なぜなら、私は知っている。
本物の言葉というのは息を止めてでも、伝えたいものなのだと。
そして今、私の隣にいる人は――
嘘をつかなくてもいいと思わせてくれる、たったひとりの人。
「クラリス。君のその目で、俺の言葉をちゃんと見てくれ」
私はレオンの瞳を見つめた。
「俺は、君を永遠に愛し続けるよ」
私はそっと彼の手を取り、微笑んだ。
「ええ。私も、あなたを愛してる。本当の言葉だけを、あなたに」
春の陽だまりの中で、娘の笑い声が響く。
「ママ~、これ、みてぇ!」
リヴィア――私とレオンの間に生まれた、五歳の娘は、庭の花冠を頭に載せながらこちらに駆け寄ってきた。
金の髪はレオン譲り。
くるくると踊るような足取りは、どこか私たち二人とも違う、自由な光を持っていた。
私は穏やかな顔で膝をつき、リヴィアの花冠を整えてあげる。
「上手にできたわね。とても素敵よ」
「ほんとに?」
娘がじっと私を見つめた。
そのとき、ふと気づいた。
リヴィアの瞳が一瞬だけ、私の口元を注視していた。
「うそ、じゃないよね?」
リヴィアの問いに、私は息を呑む。
「……どうして、そう思うの?」
リヴィアは小さな声で言う。
「ママがウソを言ったとき、なんだか、赤いもやもやが出るの。……ときどきだけど」
私は、そっと彼女の肩に手を添えた。
まさか、あの力が、娘にも?
けれど、驚きとともに胸をよぎったのは、不思議な安堵だった。
「それはね、ママにもある力なのよ」
リヴィアの瞳がまん丸くなった。
「やっぱり! じゃあ、わたし、変じゃない?」
「ええ、変なんかじゃないわ。とても、大事な力なの。だから怖がらなくてもいいの。嘘がわかるってことは、本当もわかるってことだから」
私は、娘の小さな手を握った。
「たとえば、パパが愛してるって言ったとき。赤くなかったでしょう?」
「うん! いつもキラキラしてるの」
キラキラ?
私にはない感覚なので詳しく尋ねてみる。
「嘘じゃない言葉はキラキラに見えるの?」
「ううん。それは透明。キラキラは優しいときとか、笑顔のときにみえるよ!」
愛情のこもった言葉は、輝いて見えるのかもしれない。
私よりもずっと凄い力なのかもしれない。
「あなたは見えるものを、信じていいのよ」
「うん!」
私は愛しいリヴィアの頭を撫でる。
その夜。
私は庭のテラスで、レオンに今日のことを話した。
「……遺伝って、するものなのね」
「まさかとは思ってたが、なるほどな……。でも、あの子なら大丈夫だ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、君の娘だろう。嘘を怖がらずに、ちゃんと人を見られる――そんな力を君はもう身につけてる。俺たちで、それを教えてあげればいい」
レオンは立派なお父さんだなと私は思った。
私も母として成長しなければいけない。
二人でのんびりと月を眺める。
「偽装結婚から始まったのに、こんな未来になるなんて、当時は想像もしていなかったわ」
そう話すと、レオンはなぜか私の目元を手で覆って隠す。
口元を見られたくないのだろう。
「実は、俺はちょっとだけ、想像してた」
「……それ、嘘?」
「……」
「レオン?」
「……少しだけ赤かったかもしれない」




