ぶつかりおじさんぶっ殺しおばさん
――あの人、まさか……。
その光景に、ミカは戦慄と同時に高揚を覚えた。
駅構内は通勤ラッシュのざわめきに満ち、利用客たちが波のように行き交っていた。その人混みの中で、ミカは妙な動きをする男に目を留めた。
中年の男が、わざとらしく女たちにぶつかっていく。狙いを定めるように視線を向け、すれ違いざまに肩や腕をぶつけていくのだ。ぶつかられた女たちは皆、一様に驚き、眉をひそめて振り返ったが、男は何事もなかったかのようにその場を離れていく。
忙しい時間帯だ。女たちも訝しむが、わざわざ追及する者はいない。
――間違いない。『ぶつかりおじさん』だ。
そう確信した瞬間、ミカの背筋に緊張が走った。
気づかれないように、距離を取りながら男の後を追う。
またぶつかる。止まらぬ男の凶行――しかし次の瞬間、予想外の出来事が起こった。
男がふらついた。すれ違いざまに女性にぶつかった直後、まるで足を取られたかのようによろめき、バランスを崩したのだ。
すると、その女は素早く男の腕を取り、自分の肩に回し、静かに駅構内の片隅へと連れて行った。
一見、介抱しているように見える――だが、違う。ミカは見逃さなかった。女が注射器を構え、男の首筋へ突き立てた、その一瞬を。あれは……。
――『ぶつかりおじさんぶっ殺しおばさん』だ!
雷鳴のように、その名がミカの脳内で轟いた。
ミカは素早く駆け寄り、声をかけた。
「あ、あの!」
「……何かしら?」
女はちらりとミカを見た。一瞬、警戒の色が宿ったが、すぐに柔らかな口調で言った。
「ああ、この人、貧血みたいで――」
「あ、いいです。私、見てましたから」
「そう……」
女は男のぐったりとした体を壁にもたれかけさせると、静かにミカのほうへ向き直った。目が合った瞬間、その鋭い眼差しにミカはぞくりとした。
ミカは唾を飲み込み、意を決して口を開いた。
「あなた……『ぶつかりおじさんぶっ殺しおばさん』ですよね?」
相手を避けようとしない女が悪い。そう宣い、わざと女性にぶつかりにいくことを至上の喜びとした卑劣な悪漢。通称『ぶつかりおじさん』。
その被害者は驚きや恐怖に言葉を失い、また警察に行くほどのことでもない、余計なトラブルは避けたい、忙しいから――と自分に言い聞かせ、結局はただ黙って泣き寝入りするしかなかった。
だが、あるとき突然、現れたのだ。
卑劣な通路の捕食者を狩る者――『ぶつかりおじさんぶっ殺しおばさん』が。
「ぶつかりおじさんを狙うおばさん……あなたのことですよね? 私、前からずっと――」
「その前に、さっきから“おばさん”って失礼じゃない? あたし、まだ四十代よ」
「あ、そ、それはその、すみませんでした……」
「まあ、いいけどね。SNSでそう呼ばれてるのは知ってるし。でも思ってたより若くて、驚いたんじゃない?」
「え、あ、まあ、はい……」
「あっ、この人なら大丈夫よ。死んだわけじゃないから。ただ薬でちょっと眠らせただけ」
「薬……すごいですね。いったい、どこでそんなものを?」
「あたし、看護師やってんの。薬をちょろまかすくらい簡単よ」
「すごい、そうなんですね……あの、詳しく――」
「ちょっと待って。はあ……やれやれ。この世は野放しの獣だらけね」
「え?」
「ほら、あっちを見てみなさい」
ミカは、女が顎で示した先に視線を向けた。雑踏の中を、不自然な動きで歩く男がいた。
「あ、あれって……ぶつかった!」
「そう、あれもぶつかりおじさん。追尾型ね。ターゲットを決めて、ぶつかるまで執拗につけ回すタイプよ。あの女性を狙っていたことは、目つきでわかったわ。ちなみに、こっちの男は暴走車型。無差別に突っ込んでくる粗雑なタイプよ。あ、もちろん、標的は女性限定だけどね」
「さすが、詳しいんですね……。前から、こうして退治していたんですか?」
「ええ、もう何人もね……それでも、ぶつかりおじさんは減らない。時々、やるせなくなるの。自分がやってることに、意味はあるのかって……」
女は小さくため息をつき、芝居がかった仕草で額に手を当てた。
「……でも、たまにいいこともあるけどね」
「いいこと?」
「そう。おっと、またいたわ。あそこ、見て」
「え……柱の陰にいる、あの人ですか?」
「ええ。あれは待ち型に加えて、気配を消すことに長けた潜伏型ね。ふうん、やるじゃない。かなりの手練れよ」
「いろんな型があるんですね……」
「ええ、他にもたくさん。リュックを前に抱える武装型に、肘で胸を狙う痴漢重視型、ぶつかったあとに逆ギレするイチャモン型……まあ、少しずつ覚えていけばいいわ。ほら、これ」
そう言うと、女は懐から小さなケースを取り出した。そこには何本かの注射器が収められていた。そのうちの一本をすっと抜き取り、ミカに差し出す。
「これって……注射器?」
「ええ、何本か常に持ち歩いてるの。さあ、次はあなたがやる番よ」
「え、で、でも……」
「弟子入りしたいんでしょ? 大丈夫、あたしも最初は怖かったわ。……でもね、この世にはぶつからなければならない障壁がいくつもあるの。これもその一つよ」
女はミカの手に注射器をそっと握らせ、優しく微笑んだ。
「いいわね? リラックスして、ゆっくり歩くの。瞬間的に最大の力を出せるようにね。腰の捻りを意識して、相手を吹き飛ばすつもりで肩を相手の胸に叩き込むのよ。もし身長差があるなら、頭を相手の顎にぶつけるのも有効な手ね」
「でも……それって、いけないことだと思います」
「ノンノン、ぶつかりおじさんに優しさは無用。女性との距離感を測れない哀れな中年たちよ。そんな彼らに引導を渡すのが、私たちの使命。そうでしょ? あ、ほら、さっきの待ち型が動き出したわ。いいわあ……こっちに来るわよ。構えなさい」
「は、はい……あの、あなたのお名前は?」
「ふふっ、エミよ。エミさんでいいわ」
「エミさん……あの、名字もお願いします。それと、手を出してください」
「は? なんで? ……え?」
ミカは素早くエミの手首を掴んだ。カチリ――駅のざわめきの中で、乾いた金属音が響いた。その瞬間、エミの思考はその冷たい感触に奪われた。
エミは呆然としながらも、駆け寄ってきた男とミカの会話の断片を拾う。そして、かすれた声で問うた。
「あなた……私服警官なの?」
ミカは静かに頷き、エミを真っ直ぐに見据えて言った。
「エミさん。あなたを逮捕します。すでに複数の男性から被害届が出ています。薬物による後遺症、財布の盗難、それにホテルに連れ込まれたという訴えも。詳しい話を署で聞かせてもらえますか?」
エミは短く息を呑んだ。そして小さく笑い、呟いた。
「女の敵は、女ってわけね……」