これ以上何も奪わせません!
第一章:囚われた魂
土羽家の屋敷は、まるで墓場のように冷たく静まり返っていた。苔むした庭石は湿り気を帯び、松の枝は風に呻くように揺れ、水琴窟の音は遠くで呪詛のように響いた。主人公・葵は、かつて名門・藤原家の末裔として退魔の術を極めた女だった。だが、土羽家に嫁いでからの日々は、彼女の魂を徐々に削り取っていた。
土羽家は新興の退魔の家系ながら、三代前に神の御使いと契約を結び、異様な速さで名を上げていた。その御使い――名を「天音」と呼ばれる存在――は、人の心を絡め取る絶世の美貌と、魔を一瞬で灰に変える力を持っていた。だが、その美貌は葵の夫であり当主の土羽清継を完全に支配していた。
清継は屋敷に姿を見せず、天音と過ごす別宅に沈み込んでいた。葵は、夫の氷のような視線に耐え、「子を産む器」としてしか価値を認められていない現実を噛みしめていた。彼女の退魔の技は、土羽家では無用の長物だった。現場に出ることも、術を磨くことも許されず、彼女はただ虚ろな日々を重ねるだけだった。
葵は耐えた。清継との間に子をもうける務めを果たし、息子の怜司を産んだ。だが、清継は怜司の泣き声にも顔を向けず、天音の影に消えた。葵の心は、夫への憎悪と、己の無意味さに蝕まれていた。
第二章:愛の虚妄
怜司は、葵の唯一の光だった。夫に棄てられ、退魔師としての誇りを奪われた葵は、怜司への愛にすがりついた。彼女は怜司に退魔の術の基礎を教え、土羽家の歴史を囁いた。だが、その愛は、まるで砂の城のように脆く、崩れゆく運命だった。
怜司が五歳になった春、土羽家のしきたりである「御使いとの面通し」が執り行われた。葵の胸は、凍てつく恐怖に締め付けられた。天音の美貌は、人の魂を喰らう怪物のように恐ろしい。清継を呑み込んだように、怜司もまたその魔力に堕ちるのではないか――。
神殿の闇に、天音が現れた。白銀の髪は冷たく輝き、瑠璃色の瞳はまるで奈落を覗くようだった。彼女の美は、葵の心を抉る刃だった。怜司の小さな顔に、驚愕と、恋とも呼べる盲目的な憧れが浮かぶのを見た瞬間、葵の胸は砕けた。
「母上、あの方は……まるでこの世のものじゃない」
怜司の声は、まるで天音に魂を捧げる祈りのようだった。葵は震えた。彼女の愛は、天音の前では無力だった。清継を奪った怪物が、今、怜司の心を喰らい始めていた。
第三章:沈む心
その夜、葵は裏庭に膝をつき、冷たい土に爪を立てた。彼女の手には、藤原家の古い護符が握られていたが、それはまるで死者の骨のように無意味だった。月は雲に隠れ、闇だけが彼女を包んだ。
「私は……何だ?」
葵の呟きは、虚空に溶けた。彼女はかつて、藤原家の秘術を紐解き、天音に抗う術を探そうとした。だが、土羽家のしきたり、清継の無関心、そして天音の圧倒的な存在感が、彼女の意志を粉々に砕いていた。禁術に手を伸ばせば、土羽家は滅び、怜司は破滅する。だが、何もしなければ、怜司は天音のものになる。どちらを選んでも、葵に救いはなかった。
彼女はただ、怜司を抱きしめることしかできなかった。だが、その腕の中でさえ、怜司の心は遠ざかっていくようだった。葵の愛は、天音の輝きに飲み込まれ、跡形もなく消えゆく砂塵だった。
第四章:喰われる魂
怜司が七歳になった頃、彼は天音の虜になっていた。土羽家のしきたりにより、怜司は別宅で天音と過ごす時間が長くなり、彼女から「指導」を受けていた。葵は、怜司の瞳に宿る狂おしい憧れを見るたび、吐き気を覚えた。それは、清継が天音を見つめる目と同じだった。
清継は、怜司の変化を喜んだ。「天音に愛された子だ。土羽家の未来は怜司と天音が担う」と、彼は繰り返した。葵は反論する言葉すら見つけられず、ただ唇を噛み、血の味を味わった。彼女の心は、怜司が天音に完全に堕ちる日を予感し、恐怖に震えた。
葵は、屋敷の片隅で護符を握り潰した。彼女はかつて、天音との契約の真実を探ろうとしたが、土羽家の古文書はただの紙屑だった。いや、彼女の心がすでに折れ、文字を読む力すら失っていたのかもしれない。彼女は、ただ泣くことしかできなかった。
第五章:奈落の儀式
怜司が十歳になった年、土羽家は神殿で荘厳な儀式を行った。怜司が天音の「使徒」として認められる日だった。闇に沈む神殿には、清継、天音、そして土羽家の重鎮たちが集まり、怜司を讃えた。葵は、まるで幽霊のようにその場に立ち、ただ怜司を見つめた。
天音は怜司に微笑み、その指が怜司の額に触れた。怜司の瞳は、天音だけを映し、母の存在はそこにはなかった。清継は満足げに頷き、土羽家の未来を天音と怜司に委ねると宣言した。重鎮たちの称賛の声が、神殿に響き、葵の耳を刺した。
葵は、何もできなかった。彼女の心は、すでに死んでいた。天音の美貌と力、土羽家のしきたり、そして怜司の裏切りとも呼べる盲信――それらは、葵の全てを奪い、彼女をただの殻に変えた。彼女は、怜司を、夫を、己の誇りを、すべて失った。
終章:虚無の果て
儀式の後、怜司は別宅に住み、天音と清継と共に過ごした。屋敷には、葵一人だけが残された。彼女は、怜司の笑顔を思い出すたび、胸を抉られるような痛みを覚えた。だが、その笑顔は、天音に向けられたものだった。母に向けられた笑顔は、彼女の記憶の中でさえ薄れていた。
葵は、裏庭に立ち尽くした。護符は土に埋もれ、藤原家の血は彼女の中で腐っていた。彼女は、天音に抗う力も、怜司を取り戻す希望も、すべて失った。彼女の目には、何も映らなかった。月すら隠れ、闇だけが彼女を呑み込んだ。
「怜司……私には、何もなかった」
葵の声は、掠れ、風に消えた。彼女はゆっくりと膝をつき、冷たい土に額を押し当てた。涙すら涸れ、彼女の心は虚無に沈んだ。屋敷の闇は、彼女を永遠に閉じ込めた。