思いをまっすぐに
たくさんいた見学客も徐々にこの場所を後にし、静けさが戻って行く。
今までと同じように、俺とはるさんはまだ何となく帰る事が出来ずに、芝生の上をゆっくりと歩いている。散歩でもしているかのように、手持ち無沙汰に。
「SHUNさんは、これからどうするんですか」
黒汐町で離陸を見た後と全く同じ言葉をかけられる。
「飛行船がもし道南の町に一泊するんだったら、追いかけたんですけどね。直で青森まで渡るんじゃそれも無理なんで……大人しく帰りますよ。はるさんは?」
「上司達にお土産を買って帰ります。ちょっとだけ高めの、何か良い物を」
「そうですか」
飛行船がいなくなってしまえば、特に一緒にいる理由もなくなってしまう。俺達はまた、それぞれの日常へと帰らなければならない。
少しだけ潮の香りが漂う緑地を、少しずつ少しずつ、出口へ向かって進む。本来の姿を取り戻したこの場所は、静かに、まるで最初から何事もなかったかのようにそこにただ、存在していた。
この場所で、俺が知らない時から、はるさんとの出会いは始まっていたのだ。何度もここですれ違っていたはずのその時間が、惜しいと感じる。もう少し早いうちから知り合っていたら、今何かが変わっていただろうか……。
駐車場の入り口まで歩いた所で、はるさんは立ち止まった。
「もうここで大丈夫ですよ。SHUNさん、本当に色々とありがとうございました」
黒汐町で出会った日と同じように、俺は彼女を車まで送るつもりだったのだが。
「そうですか」
そう言うなら仕方ない。
仕方ないのだが、今日のこの奇跡の時間を終わらせる勇気が出なくて、すんなりとさよならをする事が出来ない。おかしな間が空いてしまう。
「……そういえば、はるさんに僕の名前を言っていなかったですよね」
話題を探して、ようやく俺は言葉を発した。何を言っているんだろう、と自分で思いながら。
「SHUNさんじゃないんですか?」
「いや、僕の本当の名前です。僕ははるさんの本名を知っているのに、なんかフェアじゃないかなって」
適当に出した話題ではあるが、良い具合に話の辻褄が合ってくれる。
「僕の本名は、道下俊哉と言います。普段からシュンと呼ばれているので、そのままハンドルネームにしてます」
「みちしたしゅんやさん。とっても素敵なお名前なんですね。なんか嬉しいです、知れて」
「はるさん」
まっすぐに、はるさんを見つめた。彼女の純粋過ぎる目を見ていたら、つい怖くなってしまって、俺は思わず視線を下げる。
「……いえ、すみません。何でもないです。来年、また必ず一緒にここで飛行船を見ましょう」
はるさんは不思議そうな顔をしていたが、すぐに笑顔になる。
「もちろんです。私もまたシュンさんと一緒に飛行船を見たいです」
「嬉しいです」
シュンさんと一緒に飛行船を見たい。
俺にとって最高の一言。それだけで十分だろう。
これ以上彼女に何かを望むより、未来に託した希望を大切に、それぞれの場所でまた生きて行けば良い。そう思った。
「……それじゃあ、はるさん、また」
手を振り、強制終了するかのように、俺ははるさんに背を向けて歩き出した。
一度も振り返る事はしなかった。はるさんが、どんな表情で、どんな気持ちで俺の背中を見ていたのかはわからない。けれど、振り返ってしまったら、俺はたぶんここから動けなくなる。
俺とはるさんを、これからも繋いでいるもの。
それは、約束。
その約束が守られない未来はない事を、俺は確信している。
――母さんと同じ人を見つけたよ。
同じか、もしかすると、母さん以上かもしれないけどね。
飛行船がすごく大好きなんだ。
そして、純粋で素直。小さくて、面白くて、かわいらしい。
3年前から、母さんとの約束を果たす気持ちで、俺は飛行船を追いかけ続けて来た。
母さん、あなたのお陰で俺は、こんなにも飛行船が大好きになり、普通に生活していただけでは絶対に出来なかった経験をたくさん出来た。
そして、彼女との特別な出会い。
母さんがいなかったら、この出会いだってなかったんだよ。
俺は本当にあなたの息子であるという事を強く強く感じているし、誇りに思う。
母さん、俺を産んでくれてありがとう。
これからもずっと一緒に、飛行船を見よう。
“僕が大きくなったら、飛行船を見に連れて行ってあげる”
約束どおり、大人になった俺が、この先も毎年必ず連れて行ってあげるよ――
「いやー、ようやく終わったな。ホント死ぬかと思ったよ」
「あのレポートは地獄だったよな」
学校近くのコーヒーショップで、俺と秀司は実習が終わった解放感に浸っていた。鬼のようなレポート書きの日々が終わり、やっと自由になれた所だ。実習先も別々だったので、秀司と会うのも結構久しぶりだったりする。
飛行船が北海道を去ってから、約1か月ほどが経っていた。
「そういえばシュン、最近はるさんとは会ってるの?」
ブラックのアイスコーヒーを一口飲んで、秀司が聞いてくる。普段は子供みたいだけれど、味覚は大人な彼。
「いや、会ってないよ。もう飛行船もいないし、特に会う理由がないからね」
俺は、アイスカフェオレにさらにポーションミルクを1つ入れた、うっすい色の飲み物を飲んでいる。
「そっか。結局の所、どうなのよ?」
「何が?」
「シュンの気持ちだよ。はるさんの事、どう思ってるんだ?」
今日会ったら聞かれるんだろうな、と予想していた。俺はアイスカフェオレのグラスを両手で包み込むようにして持ち、視線を落とす。
「……本当はね、すごく会いたいと思ってる。会いたくてしょうがないよ」
グラスの中の氷を見つめながら、ボソボソと言う。目の前で秀司が、パッと嬉しそうな表情をしたのがわかった。
「すげぇぇ……! シュン、素直になったじゃん!」
「茶化すなよ……こんな事話せるの、お前だけだよ」
俺は苦笑した。
「あぁ、どんどん話せよ! 一応確認だけどさ。それは、好き、って意味でいいの?」
「……あぁ、そうだよ」
ヒーッ! と変な声を出す秀司。近くの席の客が何人かチラッとこっちを見たのがわかった。
「実習中もずっとはるさんの事思ってたのか」
「むしろ実習の忙しさに集中して、ムリヤリごまかしてた」
「はっは! 青春だね~」
秀司は甲高い声で笑う。小っ恥ずかしいな。
「飛行船がいなくたって、会いに行ってみたら? はるさんだって会いたいって思ってるかもよ」
「それはないよ。特に理由がないもん」
「そんな事ないよ、だって彼女にとってもお前は特別な存在だろ?」
「いや、それはわからないよ俺には……」
否定的ではっきりしない返答に、話しながら自分自身で嫌気がさす。
「普段めっちゃ社交的なくせに、こういう話になるとホント消極的だよな」
秀司が言い終わるのと同時に、目の前のグラスの中で、カラン! と氷が軽快な音を立てた。俺はびっくりして肩を震わせる。何故俺は今こんなにおどおどしているのだろう。らしくない、と思う。
「でもさ、シュンのそういう所は悪くないよね。純粋でさ。付き合ったらすごく大事にしてくれそう」
「そうかな。だって俺1回フラれてるけど。前の彼女は俺のこんな消極的な所が嫌だったんだろうな」
「それを糧にして次のステップだよ! 俺は、こんなチャンスまたとないと思ってるよ」
秀司の言うとおりだ。こんな機会はもう一生ないだろう。同じ趣味を持っていて、俺の趣味を理解してくれて、そして、同じ理由で同じものを追いかけている人なんて、他にいるわけがない。
「ようやく気づけたんだろ、自分の気持ちに。俺はずっと気づいてたけどね」
秀司は得意そうな微笑みを見せる。
「離れて気がついた、って感じかな。まぁよくある話だよな」
「なかなか認めようとしなかったもんな、シュン。ホントはずっと好きだったんだろ?」
「……あぁ、そうだと思うよ」
うっすい色をしたアイスカフェオレを一口飲んで、俺は秀司の目をまっすぐに見た。
「マジで、めちゃくちゃ好きなんだ。本気で大好きだ。こんなに人を好きになったのは初めてだよ……」
小っ恥ずかしいという思いを引っ込めて、正直な思いを口にした。秀司は、両手を頬に当てて赤面している。
「どうしよう……シュン君に告白されちゃった♡」
「ち、違うわ!」
思いのあまり、秀司に告白したみたいになってしまっていた事に今気がついた。
「ハッハッ! すごいじゃんシュン! 思いが溢れてるよ。本当に、はるさんに本気なんだな」
「あぁ。自分でもびっくりしてるよ……」
秀司と話しながらも、俺の胸の中にははるさんへの思いがどんどんと溢れて行くのがわかる。彼女の事を考えるだけで幸せな気持ちになっている自分に、俺自身が驚いている。
「なぁシュン、思い切って連絡してみたら? 時間が経ってからの方が連絡しづらくなるぜ、きっと」
「そうかな」
「そうだよ。もしはるさんともっと仲良くなれたら、俺にも紹介してよ。シュンの親友として認識してもらわなきゃ」
「ははは、そうだな」
秀司の言葉は、いつも俺の頼りない背中を押してくれる。
俺は、久しぶりにSNSではるさんにメッセージを送る事にした。
『はるさん、お久しぶりです。お元気ですか?
僕は飛行船ロスでずっと放心状態みたいな感じでした笑
嫌でしたら断ってくれて全然良いんですが、もしよかったら、近々会いませんか。
はるさんと飛行船の話がしたいです。』
嫌でしたら断ってくれて……という一文。黒汐町で、彼女を食事に誘った時にも使った言葉だったな、と思い出す。
そういうクッション的な言葉を挟んでしまう所が、自信のなさの表れだよな。
苦笑しながら、送信ボタンを押した。
そして、その日の夜。
――シュンさん、お久しぶりです。元気でしたよ。
私も、シュンさんと飛行船のお話をしたいです!
とっても嬉しいです! ぜひお会いしましょう――
大変情けない事に、俺ははるさんからのこのメッセージを見て、グシャグシャに泣いてしまった。
カッコ悪過ぎる。こんな姿は秀司にさえ見せられない。勝手にどんどん溢れ出していく涙を止められなかった。
いつだって、思いをまっすぐに伝えられる自分でいなければ。大切な存在が、いつ離れて行ってしまうかなんてわからないのだから。
後悔しないように。
行動すれば、こうやって形となって返ってくるのだ。
全ての出来事に感謝し、これからも俺は生きていく。
(完)




