最終日の奇跡
飛行船滞在最終日の朝。
昨夜クルーに聞いてくるのを忘れてしまったのだが、直で本州まで渡るのなら相当早く出発するのではないかと予測して、6時半頃に係留地へ行った。
ラストの当番クルーは、橋立さんではなかった。確認すると、離陸は7時半頃を予定していると言う。
予報のとおり、昨日までの強風は止んでいた。マストにくっついた飛行船は、穏やかにふわふわと浮いている。
空は晴れて、鳥のさえずりだけが聞こえる静かな時間。俺はいつもの場所に座り込んで、今年最後の飛行船鑑賞をした。こうして眺めていられるのも、あと1時間ほどか。
何かの間違いで、はるさんがここに来れたら良いのに。そんな事を考えていた。彼女と一緒に、最後の離陸を見たかった。離陸を見てワクワクしている彼女を見たかった。けれど、もうそんな事を考えて良い立場ではない事も重々理解している。
昨日の事を謝りたい。
近いうちに、改めて必ずきちんと謝罪しようと思っている。
平日にも関わらず、見送りの客が集まり始めている。SNSにはその日のフライト情報しか載せられず、予告は基本的にはされる事がない。今日が移動フライトであると知っていると言う事は、事前に直接クルーに確認しているという事だと思う。そこまでして、しかも平日に見送りに来るくらいの人達は、もしかすると俺やはるさん並みの飛行船ファンなのではないだろうか。そんな事を俺はよく考えてしまう。だが結局は、俺ほどの飛行船狂は他にはいないのだけれど。
クルーが集まり、作業が始められる。
橋立さんはいつもと変わらない様子で挨拶をしてくれた。このまま、また明日からも同じような日々が続いていくかのように。
飛行船を取り囲み作業をするクルーの姿を見るのも、今年は最後だ。北海道ラストの離陸に向けて、準備が進められる。
この場所から一気に津軽海峡を渡るなんて。飛行船が飛んだらすぐに片づけをして、高速道路で道南まで向かい、フェリーに乗って海を渡り、青森の係留地に到着したらまたマストを立てて……
その間飛行船も、地上に下りる事は出来ない。パイロットは2人乗り込んで、空の上で、交代をしながら係留地の準備が整うまで待たなければならないのだ。
彼らの苦労を想像すると、気が遠くなりそうになってしまう。
聞いていた予定時刻の7時半が過ぎても、飛行船はマストからはずされずにいた。何かしらの理由があって遅れが出ている様子だった。俺にとっては、ほんの少しでも飛行船を見ていられる時間が長くなるので嬉しい事ではあるのだが、これから海を渡るクルー達にとっては、大変なタイムロスなのかもしれない。嬉しいなんて思うのは、申し訳ない気がした。
「SHUNさん!」
その時突然、俺を呼ぶ大きな声が聞こえた。心臓が跳ね上がり、ハッとする。
嘘だろ……!?
振り向くと、小さな女性がこちらに向かって必死に走って来る姿が見えた。
「は、はるさん!?」
俺は幻を見ているのだろうか!?
黒汐町の朝と全く同じような、素っ頓狂な声をあげてしまった。来るはずのないはるさんが、息を切らして、今、俺の目の前にいる!
両膝に手をついて、ハァハァと息を整えている。間違いなく、はるさんがそこにいる。
本当に間違いないよな? 本当に、はるさんだよな? 何度も確認してしまう。
その時、いよいよ飛行船がマストからはずされた。
「後から説明します」
彼女はそう言って俺の隣に立った。クルー達の手でゆっくりと運ばれて行く飛行船……ではなく俺は、はるさんを見つめていた。本当に、本物? まだ、信じられていない自分がいた。思い過ぎて、俺自身が無意識に幻覚を作ってしまったのではないのだろうか。
「僕は7時半頃に離陸すると聞いてたんですけど、何かあって少し遅れが出たみたいです」
とりあえず自分の気持ちを落ち着けるためにも、幻かもしれないはるさんにそう話しかけてみた。
「……良かった。間に合って。本当に、本当に良かった!」
はるさんはそう言って、泣き笑いのような表情をした。
俺の言葉に応える声を聞き、今にも泣きそうな、でも心から安堵したようなその笑顔を見た時、本当に来てくれたんだと確信した。本当に何かの間違いで、ここに来る事が出来たんだ!
飛行船ではなくはるさんの方ばかり見てしまっていたが、俺も最後の見送りに集中する事にした。
ポジションに着いた飛行船は、少しの時間を置いたのち、一気にエンジン音を高めた。この音が聞けるのも、今年最後だ。
轟音を響かせて、地面を滑るようにスピードを上げた飛行船は、俺達の前を横切るようにして空に向かった。逆光で、一気に真っ黒なシルエットになる。見送りに相応しい、快晴の夏空。
ローパスしながらこちらに近付く飛行船。パイロットが窓を開けて手を振っているのが見えた。これも、移動フライトの日のファンサービスだ。黒汐町では風向きの関係で操縦席が逆側になっていた事と、たいして見学客もいなかったからか、そのサービスはなかったが。
係留地に集まった人々は全員、笑顔で手を振っていた。俺も思いっきり両手を振った。
ありがとう、パイロットさん! 今年もたくさん楽しませてくれて、本当にありがとう!
心の中で叫んだ。きっと届いていると信じて。
はるさんも、俺の隣で手を振っている。とても嬉しそうな笑顔。よく見ると、彼女は笑いながら泣いていた。その表情を見て俺は、今自分が奇跡の中にいると実感した。どういう作用が働いたのかはわからないが、間違いなく今、奇跡が起こっている。
エンジン音と、たくさんの笑顔と、温かさに包まれる係留地。
この時間がいつまでも、全国の様々な町で続いていきますように。
飛行船がいつまでもいつまでも、飛び続けてくれますように。
日本中の人々を幸せにするために、SS号は今、スタート地点である北海道から旅立って行く。
いってらっしゃい! SS号――




