約束を果たすために
強風に煽られる飛行船を日中から眺めていたが、風は昨日より少し落ち着いてきたようだ。クルーに聞くと、この風は今日の深夜には止むらしい。明日は予定どおりに移動フライトが出来そうだ、と言っていた。
仕事を終えたはるさんが夜の係留地にやって来て、こんばんはと挨拶を交わして、いつものように、いつもの場所で並んで座る。何をするわけでもなく、ただ飛行船を見つめる時間。
いつもと何も変わらない。
だが、今日はいつもとは大きく違う。
「SHUNさんは夏休み中だから、明日もお見送りに来れるんですよね」
隣で体育座りをして飛行船を見ていたはるさんが、ふとそんな事を言った。少しだけ、心が痛む気がした。
「えぇ。僕はこの時期は極力予定を入れないんです。飛行船をいつでも見に行けるように」
まっすぐに答えるしか出来ない。はるさんは、俺の言葉を聞いて静かに微笑んでいた。
「はるさんは、今年は今日で見納めですよね」
「はい……」
「寂しいですね」
愛おしそうに飛行船を見つめるはるさんの横顔を、俺は見つめる。あまりにも寂しそうで、そのまま消えてしまいそうだと思った。飛行船を前に、こんな表情が出来てしまう人がいたと言う事。こんな時にも、改めてこの出会いは奇跡だったという事を強く感じる。
俺は今日、彼女にある事を伝えようと思っている。
昨日の秀司の言葉が後押しをしてくれた。後悔しないように、と。
「……変な事を言うと思われるかもしれないけれど」
俺がそう言うと、はるさんは少しだけ身構えたように感じた。何かいつもと違った空気を感じ取られてしまったのかもしれない。なるべく不安を与えない話し方をしよう、と思う。
「僕、小学生の頃に母を亡くしているんです」
えっ、という声が聞こえたような気がしたが、はるさんは声を発していなかった。暗闇の中、はっきりとした表情はわからないが、次の言葉を待っている事を感じた。
「僕の母は実は、飛行船が大好きな人だったんですよ。僕が子供の頃、母はよく飛行船の話をしてくれました。昔はよく見かけたらしいですが、その頃にはもう飛行船はほとんど飛んでいなくて。もう一度見たいと母はずっと言ってて、じゃあ僕が大きくなったら飛行船を見に連れて行ってあげると約束したんです。でも、叶わないまま病死してしまいました」
そこまで一気に話し、一呼吸置く。風に揺れながら優しい光を放つ飛行船を、まっすぐに見つめながら。
「今から3年前に僕は初めて飛行船を見て、これが母さんの言っていたやつか、やっと会えた、って思いました。はるさんが、小学生の時に初めてお父さんと一緒に飛行船を見たっていう話を聞いて、それは本当に良かったなぁって思いました。僕も母さんに見せてあげたかった。僕は子供の頃網走に住んでたので、飛行船を見る機会なんてなくて。母さんの好きだったものをここでなら追いかけられるんだって知って、すごく嬉しくて。守れなかった約束を果たすような気持ちで追い続けて、気づけば僕自身も飛行船が大好きになってました」
笑顔のまま、話し続けた。母の事を話しているからって、別にしんみりはしていない。それどころか、清々しい気持ちだった。
「すみません、急にこんな話。何が言いたいかって言うと……」
伝えようと思っている事を整理していると、少しだけ気恥ずかしくなってしまって、俺は頭を掻いた。でも、ここまで話したならちゃんと伝えなければ。
そう思ってはるさんの顔をちらりと見た時、俺は思わず全身をびくりと震わせてしまった。
はるさんは、泣いていた。
大粒の涙が零れている事が、暗くてもわかる。
「ごめんなさい、違うんです……SHUNさん、私も、話したい事が」
はるさんは声を絞り出すようにそう言った。俺は全身が強張るのを感じ、何も出来ずにただ、彼女の言葉に頷く。
やや間があってから、はるさんはゆっくりと話し始めた。
「私が小学生の頃に飛行船を一緒に見た父は、実は3年前に病気で亡くなったんです」
「え……」
心臓がドキリと大きく打った。
「また飛行船に会いたいと、あの時私が言ったら、願っていればいつか必ず会えるって、大きくなったらまた一緒に見に行こうと約束してくれて。5月に……」
言葉に詰まってしまう。俺は、何も言わずに待った。いくらでも待つつもりだった。
「5月に飛行船を見つけた時、真っ先に思い浮かんだのは父の顔でした。父の言った事は本当だったと……また会えたよって、心の中で何度も……」
「……えぇ」
俺は小さな声を発して、頷いた。痛いほどわかる気持ち。胸がえぐられそうになる。
「私も、父との約束を叶えられませんでした。今、父がいたらって、5月から毎日思いながら過ごしてました。もしかしたら父も、そんな昔の約束は忘れてしまってたかもしれないけど……」
俺は、躊躇いながら、はるさんの小さな肩に手を触れた。触れた瞬間、はるさんがぴくりと体を震わせたのがわかった。そうせずにはいられなかった。彼女を慰めたいと、ただその一心で。
「ごめんなさい。僕のせいで、悲しい事を思い出させてしまって」
柄にもなく、俺は思わず泣きそうになってしまう。申し訳なさに胸が詰まった。
「お父さんは約束を忘れてはいませんよ。一緒に、っていうのは叶えられなかったかもしれないけど、お父さんの言葉どおりにはるさんは、何年かかっても飛行船に会う事が出来たんです。絶対に喜んでいますよ、娘の願いが叶ったんだから」
はるさんは静かに涙を零し続けた。ボロボロと音が聞こえてきそうなほどに。小さな体が震えている。一切変な意味ではなく、抱き締めてあげたい衝動に駆られる。俺にそんな事は出来ないから、代わりに、肩を包む手に優しく力を込めた。
俺達は見えない影を追って、叶えられなかった約束を果たそうと、それぞれの場所で1人、走り続けて。
彼女も同じだったのか、俺と――
一筋の涙が、風に流されて行った。
はるさんと、お別れをした。
彼女と知り合い、今日まで一緒に過ごしてきた時間。俺の25年という人生の中での、そのたったの6日間は、これまでに俺が歩んで来たどんな瞬間よりも温かで特別なものだった。俺は彼女と過ごした日々を、一生忘れないだろう。
それなのに、それらは全てまるで幻だったかのように、この夜の真っ暗闇の中へと容易く消えていってしまったように感じた。
飛行船が戻ってくる来年の5月にまた、この場所で会いましょう――
新たな約束が出来た。
やってしまった。
知らなかった事とは言え、彼女を悲しませて終わるような結果になってしまった。
今年最後の飛行船との時間を、俺が台無しにしてしまったのだ。この罪は重い。
俺は母を、彼女は父を。お互いに大切な人を亡くしていた事を、俺達はここまで知らないまま過ごして来た。だがそれはごく自然な事で、特に話す必要がなかったから話していなかっただけだ。
そして、そんな共通点があった事は偶然に過ぎない。亡くした人に、飛行船に纏わる思い出があった事も。全て、ただの偶然。
だから俺が、彼女に対して繋がりのようなものを今後も抱いて過ごしていくという事は、非常に勝手な話なのだ。そんな事が出来る筋ではない。
後日はるさんに改めてきちんと謝罪し、きっちりと彼女の前から身を引こう。
そう決めた。




