予想外の訪問者と離陸を見る朝
濃霧の中を慎重に運転しながら、7時頃に係留地に着いた。この辺りはよく朝霧が発生する。ひどいと4、5メートル先すらも見えなくなる。離陸は8時半との事だし、いくら何でも早過ぎると自分でも思うのだが、5時半頃に目が覚めたので来てしまった。
当番のクルーに聞くと、今日は今の所予定どおり札幌に移動出来そうだと言う。この濃霧を見ていると嘘だろうと思いたくもなるが、霧は意外とすぐに晴れる事を俺は知っている。
霧の中の飛行船は幻想的で好きだ。白い霞の向こうに隠されるようにしてふわふわと揺れるその姿を、俺はひたすら見つめた。芝生は濡れているので、立ったまま。
30分ほどもすると霧は晴れ、青空が見えた。
8時を回る頃、クルー達が係留地に到着した。皆さんは俺の姿を見つけると、おはようございます! といつものように明るく挨拶をしてくれた。クルーの顔を見て、声を聞くだけで、何故こんなにも元気になれるのだろう。もちろん橋立さんもいて、シュンさん今日もありがとうございます! と声をかけてくれた。
クルーから少し遅れて、見学客らしき年配の男性も2人やって来た。今日は移動フライトとあって、情報を得て見送りに来た人がいたようだ。それでも係留地には、俺を含めて客は3人。地方は本当に人が少ない。
離陸前の作業が始まる。
トラックの横に立ってそれを見ていた時、信じられない事が起きた。
ガサガサと芝生を踏む音が後ろから聞こえたので、振り返ると、そこにいたのは何と、はるさんだった。
「あれっ、はるさん! 何で……?」
昨日札幌に帰ったはずの彼女が突然現れ、さすがに面食らった。
「私も離陸を見たくて来ちゃいました」
爽やかな笑顔でそんな事を言う。はるさんは少し大きめの紺色の長袖パーカーを着ていて、こう言っては失礼だがより一層幼く見えた。
「来ちゃいましたって……札幌から?」
驚きのあまり、素っ頓狂な声を出してしまう。それが面白かったのか、はるさんはクスクスと笑う。
「昨日、道の駅で車中泊したんです。行き当たりばったりのドライブが大好きなので、こういうの実は慣れてるんですよ」
「ま……マジですか」
彼女にそんなイメージは全くなかったので、さらに驚かされた。
「はるさん、その場のノリで車中泊とかしちゃうんですね。そういうの大好きですよ!」
俺も実は、飛行船を見るために車中泊をした事がある。それは去年、本州から北海道に飛行船が渡って来た日の事。俺は道南の浜風町まで片道約5時間をかけて出迎えに行き、そのまま車中泊をして、翌日に移動フライトをする飛行船を追いかけながら札幌へと戻った。元々車中泊をするつもりなどなかったが、飛行船を見たら、どうしても離れられなくなってしまった。ちょうど土日だった事も重なり、それこそ行き当たりばったりだったが、急遽そんな予定にしたのだった。
そういう土台がもし彼女にも既に出来ているというのなら、この趣味はとても向いていると思う。俺の中で、はるさんに対して勝手にさらなる親近感が湧いていた。
「札幌まで、予定どおりに飛べるみたいですよ」
クルーから聞いた事を教えると、はるさんはとても嬉しそうな表情をした。
「あぁ、良かった。離陸が見られるの嬉しいです」
「初めてですか、離陸見るのは」
「はい。なんか緊張します」
心臓の辺りを押さえながら笑う姿に、初々しい、という言葉が浮かぶ。俺が初めて離陸を見た時もそうだった。心臓が爆発するのではないかと思うくらい、ドキドキした事を思い出す。
「SHUNさん、何時からここにいるんですか」
「7時に着きました」
「そんな早くから?」
「えへへっ、早く見たくて」
俺の返答に、はるさんも楽しそうに笑っている。俺と同じ感覚の持ち主であろう彼女には、他の人に言ったら引かれそうな事でも平気で言える。
はるさんが今、自分の隣にいる。また岩水の係留地で会えるだろうか、と思いながら昨日見送ったはずだったのに。この時の俺はその事の方を強く意識していて、飛行船の見学と言うよりは、飛行船の見学をするはるさんを見学しているような感じだった。決して変な意味ではないけれど。
そろそろだな、という事を察知した俺は、スマホで動画を撮影し始めた。貴重な黒汐町での移動フライトの離陸を撮って、ネット上で公開しようと考えていた。マストからはずされ、クルー達に囲まれゆっくりと運ばれて行く飛行船を、はるさんは緊張の面持ちで見つめている。
一気にエンジン音が高まる。飛行機が滑走するかのように徐々にスピードを上げて、空へと飛び上がった。
飛行船はやがて低い位置でゆったりと左向きに旋回し、こちらへ近づいてきた。物凄いローパス(低空飛行)だ。はるさんが隣で圧倒されているのがわかる。移動フライトの日にローパスを見せてくれる事を、俺は知っていた。だが、あえてはるさんには何も伝えなかった。まっさらな気持ちで感動して欲しかったから。俺が初めて見た時のように。
轟音と共に目の前の空を駆け抜けて行く、巨大な飛行船。このワクワクは、言葉で言い表す事は難しい。
飛行船が高度を上げて離れて行った所で、録画を停止した。はるさんは俺の隣で、まだ飛行船を見つめている。目を離せなくて、動く事が出来ない。そんな感じだ。俺には彼女の今の気持ちが手に取るようにわかる。
係留地では、マストの撤収作業が行われている。移動フライトの日にしか見る事のないこの光景も、せっかくなので撮影させてもらった。5人のクルーが、マストから伸びるロープのようなものを引っ張っている。まるで綱引きをしているかのようだ。マストはゆっくりゆっくりと、安全に地面に倒されて行った。
はるさんがようやく現実に戻ってきた事は、横目でちらりと確認して気づいていた。
「どうでした?」
一言シンプルに聞いてみた。
「すごかったです。それ以外の言葉がなくて」
「わかりますよ。移動フライトの日ってあんな感じで、見送りに来てくれた人達にファンサービスの低空飛行を見せてくれるんですよ」
「そうなんですか! 飛行船が、ファンサービスだなんて」
はるさんの反応のひとつひとつがフレッシュ過ぎて、微笑ましい。
「はしら……じゃなくて、マストをしまうのも見られるなんて。これって、なかなかないですよね」
「移動フライトの日限定ですね」
『マスト』という言葉は、昨日くろしお食堂に行った時に俺が教えてあげていた。ずっと『柱』と呼んでいたらしい。知らなかったら、そりゃあそうなるよな。俺も最初は『ぼっこ』(北海道弁で、棒という意味)とか言っていた気がする。
「これから地上クルーは岩水に向かって、そこにまたマストを立てて飛行船を待つんですよ」
「飛行船はその間、ずっと飛んでいるんですか?」
「そうです。飛行船って半日以上も飛び続けていられるみたいですよ」
「えぇ、そんなに? それならその間にクルーさんも移動できますね」
飛行船に関する知識を、興味を持って吸収しようとしてくれている事が素直に嬉しくてたまらない。飛行船にとっては、俺に嬉しいなんて思われる筋合いもないだろうが。
俺自身だってまだペーペーだ。知らない事なんてたくさんあるが、今の自分が知っている限りの事は、はるさんに何でも教えてあげたいと思う。




