小さな女性
明らかにガサガサと芝生を踏みつける音を立てて近づいていたのに、気づいていなかったようだ。女性は俺の姿を見てかなり驚いたらしく、はっ! と甲高い声をあげる。
「あっ、すみません。驚かせてしまって」
予想外の反応に、思わず謝った。女性の顔が見えたが、想像していたよりもだいぶ若い。高校生くらいか……?
「いえ、こちらこそすみません」
女性らしくはあるが、どこか少し少年っぽさを帯びたような声。明らかに動揺している。
だが次に女性が発する一言に、俺は脳を貫かれる事となった。
「あ、あの……もしかして、シュンさんですか?」
静かな衝撃が走る。この人、俺の事を知っている……!?
「……はい、そうです。シュンです。僕の事を知ってるんですか?」
「動画、見てます。まさかここで会えるなんて」
どうやら、俺が公開している“SHUNの飛行船チャンネル”の視聴者さんだったらしい。まさか係留地で声をかけられるとは。こんな事は初めてだった。
「そうでしたか、嬉しいです。でもなんで僕がSHUNだってわかったんですか?顔出しとかしてないのに」
俺が素直に疑問を口にすると、女性はさらに動揺の色を濃くしたように見えた。様子とも相まって、本当に小さい人だな、と改めて感じる。大体150センチくらいという所だろうか。
「私……あの、岩水海岸の係留地によく行くんですけど……あ、普段は札幌に住んでるんですけど。そこで、たぶん何度かニアミスしてると思うんです。私が行った日付の動画が、いつも公開されているので……」
女性はゆっくりと、言葉を選ぶような感じで話す。
「その、赤いウインドブレーカーを着ていましたよね?」
俺の腰に巻き付けられているウインドブレーカーを指差す。
「あ、はい……強風の日なんかに着ています」
「5月に行った時、強風の中で飛行船の写真を撮っていた時に、SHUNさんも近くで撮影をされていたんです」
「え?」
「それを着ていた人が、私の近くにいたので。それで、次の日、SHUNさんの動画を見たら、私の声が入ってしまっていて……あ、その動画の中に、です。あの、私ちょっとしゃべってしまったんです、その時。それで、あの赤いウインドブレーカーの人が、この動画を投稿した人なのかなぁって……」
女性は何故か顔を赤くしながら、ゆっくりゆっくりと話した。使えそうな言葉を探しながら一生懸命に話している、そんな印象だった。
俺は記憶を掘り起こし、5月に係留地へ行った日の事を思い出そうとした。強風の中での撮影……強風の係留地での動画……。投稿した動画の内容を思い出しながら、飛行船が浜風町から札幌に来た翌週の土曜の事だろうか、と思い当たる。そう思った瞬間、はっとした。
もしかして、彼女は橋立さんがグッズを渡しに行ったあの女性か? 誰もいなくなった係留地に、俺の他に唯一残っていたあの女性客。
俺の中で、かっちりとピースがはまる音がした。
「その赤い色がとても強く記憶に残ってたので……すみません、説明がすごくヘタで」
「いえいえ、とんでもない」
言葉を選ばずに言うなら、たどたどしくて不器用な説明。だが、言おうとしている事は、俺としては理解したつもりだった。
「そうだったんですね、迷惑かけちゃってすみません。動画に声が入っちゃってたのは僕も気づきませんでした」
「い、いえ。どうせ風の音の方が大きいし……私自身だから気づけた事だと思うので」
俺が経緯を理解した事を知ると、女性は少しだけ安堵したかのように見えた。
「このウインドブレーカーは、強風とか雨の日だけ着てるんです。僕、悪天候の中でも飛行船を見に行くので」
「そ、そうなんですか。じゃあ、天気が良い日は」
「普段は別の黒いジャンパーを着ていますよ」
「あっ……だから、気が付かなかったんだ……じゃあ、今日は?」
「今日はちょっと遠出なんで、念のためこれを持って来てるって感じです」
俺の言葉のひとつひとつを聞いて、心なしか彼女の表情が明るくなっていくような気がした。謎をひとつずつ解いている、そんな感じ。
俺は女性の隣に立って、飛行船を見つめた。
「僕は飛行船が大好きで、3年前から追っかけを始めたんです。って言っても北海道内だけですけど」
「追っかけ……」
「僕も札幌に住んでるので、毎年春になれば飛行船が見られるんで。週末は追っかけ三昧です」
ちょっとでもリラックスしてもらおうと、俺は笑顔で話した。何だか不思議な人だなぁと思ったけれど、札幌からここまで来ているという事は、きっと相当飛行船好きなのだろう。俺は2年前から黒汐町に来ているけれど、この人を見たのは初めてだ。
「あの、ここの場所って何なんですか。このくらいの時期に毎年飛行船が黒汐町に来る、って聞いて来たんですけど」
意外な質問が来た。俺は女性がベテランの飛行船ファンなのかと思っていたのだが、もしかして初心者なのだろうか。
「ここは、飛行船の整備や点検をする為の場所なんですよ。耐空検査って言って、車で言う車検みたいな感じです。毎年飛行船はこの時期に、耐空検査のために黒汐町に滞在するんですよ」
丁寧に説明し、敷地の奥に立つ深緑色の建物を指差す。
「あれがそのための格納庫です。あのもっと奥の方には滑走路もあるんですよ」
女性は俺が話すごとに、明らかに目に輝きが宿って行くように見えた。ずっと知らなかった事をようやく知ることが出来てスッキリした、というように。
そこに橋立さんが戻ってきた。俺と女性の姿に気が付いた彼は、小走りで駆け寄って来た。
「こんにちは。どうぞゆっくりご覧になって下さい」
俺ではなく女性に向かってそう伝える。
「橋立さん、これ。コンビニ行ったついでですけど」
「いやぁ、いつもどうも!」
俺はウインドブレーカーのポケットに入れておいた缶コーヒーを取り出し、橋立さんに渡した。いつも遠慮なく受け取ってくれるのが嬉しい。
「札幌から見に来てくれたそうですよ」
女性の事をそう伝えると、橋立さんは嬉しそうに表情を輝かせる。
「札幌から! 遠い所をどうもありがとうございます」
「いっ……いいえ……」
女性は相当恥ずかしがり屋なのだろうか。視線を少し落として、赤くなった頬を指で摩っている。こんな所まで1人で来るくらいだから、度胸は据わっていそうな気がするが。そういうものでもないのかな。俺みたいな人間には、その辺のバランスはよくわからない。
飛行船を眺めながら、俺と橋立さんはちょっと立ち話をした。女性も隣で飛行船を見ているが、せっかく札幌からはるばる来たというのに、居心地の悪い思いをさせるのは申し訳ない。俺は女性も交えて少し話をして、切りの良い所で終わらせて、また先ほどのように贅沢鑑賞会をしようと考えたのだが。
「よかったら、ゴンドラに乗ってみませんか? お2人で」
と、ナイスタイミングで橋立さんが言ってくれた。それは良い案だ。俺と同じ事を彼も考えていたのかもしれない。
女性が何か返事をしようとしたのがわかったが、その時突然、ぐぅ~っと大きな音が鳴り響いた。
は……? 俺も橋立さんも何事かと目を丸くした。
「わっ、ごめんなさい。実は私お昼ご飯がまだで……」
女性は真っ赤な顔をして俯いた。
漫画なの? アニメなの? お腹でお返事をするなんて……! 大変失礼だが俺はどうしても堪え切れなくて、声を殺して笑ってしまった。本当にごめんなさい、面白いです。
「あの、乗せてもらう前に、ちょっと時間をもらっても……」
「そうでしたか、全然大丈夫ですよ。まずはご飯食べてきて下さい」
橋立さんは冷静と言うか、優しい笑顔でそう声をかけてあげていた。もてなしのプロは違う。俺が超失礼なだけだと思うが。
「もし嫌だったら、全然遠慮なく断ってくれていいんですけど……」
笑ってしまったお詫びと言うわけでもないのだが。
こんな遠方まで単独で飛行船を見に来て、空腹を抱えている恥ずかしがり屋の小さなこの女性を、俺は何となく放っておけないと思ってしまった。
「よかったら、ご飯を食べに行きませんか? 良いお店を知ってるのでご案内しますよ」
ナンパみたいで嫌だったし、120%断られるだろうと思ったのだけれど、それよりも放っておけない気持ちの方が強くて。
「……は……はいっ。いいんですか……?」
「えっ!?」
「え……??」
女性の意外な答えに、自分で誘ったくせに俺の方が驚いてしまった。




