幼き日の約束
「お母さん、またあの話を聞かせて」
「……また?ふふふ」
日曜の午後。
自宅のソファでコーヒーを飲んでいた母は、少し呆れたように、それでも嬉しそうに微笑んだ。
「むかーしむかし、あるところに、ハタチの会社員のユリちゃんという人がいました」
隣に座り、母にピッタリとくっついてその話を聞く。
「ユリちゃんはある日、飛行船を見つけました。お空をふわふわと飛ぶ飛行船は、ぷくっと膨らんだ長ーい風船みたいな形で、白い色をしています。風船の下には四角い箱みたいなものが付いていて、そこにパイロットさんが乗っています。ユリちゃんは、とってもワクワクしながら、飛行船を眺めています」
ユリちゃんというのは、母の名前だ。
――ゆっくりとお空を飛ぶ飛行船は、やがて遠くへと離れて行きました。
ユリちゃんは、飛行船を追いかけます。どこへ飛んでいくのか知りたくなったのです。
たどり着いたのは大きな野原。飛行船がゆっくりと着陸してくる所を見て、ユリちゃんはとっても感動しました。野原に停まった飛行船は、びっくりするほど大きくて、ユリちゃんはもっとワクワクしました。
そうして、夜になるまで、そこで飛行船を見ていました――
母の隣で、小1の俺はその情景を思い浮かべていた。一丁前に、目を閉じながら。今思い返せば、ませた子供だよなぁという感想しか出てこないのだが。
「ひこーせんって、夜はどうしているの?」
「夜はね、光るのよ」
「光るの?」
「そう。真っ暗な中、そのままじゃ見えないでしょ。だから、ライトをつけておくの。とっても明るくてキレイなんだよ」
いまいち想像が出来なかったけれど、キレイだと母が言うので、それはプラスなものである事に間違いはないのだろうと思った。
「お母さんは昔札幌に住んでて、その時に何度か飛行船を見かけていたのよ。本当にワクワクしたなぁ。今ではもうなかなか飛ばされていないんだろうね」
「なんで?」
「うーん、なんでかな。飛行船じゃなくても、今は別の方法で宣伝が出来るからかな? 飛ばすのにはお金もかかるだろうしね」
聞いても、当時の俺にはやっぱりピンと来なかった。そもそも飛行船と言うもの自体、見た事がないので姿かたちが全く分からない。長い風船と言われても、何それ? といつも思っていた記憶がある。母が聞かせてくれる話の中だけで知っている、未知の存在。だからこそ興味津々だった。
「俊哉はこのお話が大好きだね。もう何回目かしら」
「だって、僕もひこーせんを見てみたいんだもん。見たことないからさぁ」
「そうね。お母さんもまた見たいよ。でも、網走にはたぶん、飛行船は来ないかもよ」
「なんで?」
「やっぱり札幌とかの都会の方が人が多いから、そういう所を飛ぶのよ。宣伝になるからね」
飛行船が宣伝になる、という事の意味が、この時の小さな俺には全く分からなかった。
当時のうちの一家は網走に住んでいた。父の地元で、母は結婚を機にここに移り住んだらしい。この町を飛行船が飛ばないなんて、一体誰が決める事なのだろうと、幼い俺は疑問を抱いた。今思えばメチャクチャな疑問なのだが。
「あーあ。飛行船、また飛んでくれないかなぁ。また見たいなぁ。昔みたいに、またワクワクしながら追いかけたいな」
窓の外は快晴。母は眩しそうに青空を見上げる。笑顔なのに、その表情はどこか寂しそうに見えた。
「ねぇ、お母さん。僕がね、ひこーせん見せてあげる」
「え?」
俺はソファから立ち上がって、目の前の母をまっすぐに見る。
「僕がもっと大きくなったら、ひこーせんを見に連れて行ってあげるから。一緒に見ようよ。約束!」
細い小指を差し出して、俺はニッコリと母に微笑みかけた。
「俊哉、ありがとう。そうね、大きくなったら一緒に飛行船、見に行こう」
母も嬉しそうに笑う。
互いの小指を絡めて、指切りをした。
この約束は必ず果たそうと、子供ながらに強く誓った事をよく覚えている。あの時の母の笑顔が、とても寂しそうに見えたから。その寂しさを俺がなくしてあげたいと思ったから。
昼下がりの青空に、一筋の飛行機雲が伸びているのが見えた。