わたし、輝いちゃったの。ごめんなさいね
――ヴィオラ、君ほどすてきな人はいない。
君は、ぼくの人生に咲く一輪の花。ひっそりと。けれど気高く清らかに。
誰も君のほんとうの美しさには気づかない。
ぼくだけが、君を知っている。
だから、どうか。ぼくと結婚してほしい。
わたしの恋人、テオは照れながら、あわいむらさき色のすみれの花を差しだしました。
道の左右には、おなじすみれが花の盛りで。春の東風が、わたしの木綿のスカートを、三つ編みにした赤毛をなでていったのです。
「わたしなんかでいいの?」
「もちろんさ。ヴィオラ、君だからだよ」
二十五年の人生で、誰からも言ってもらえたことのない言葉に、胸が浮き立ちます。
――魔女のような赤毛。
――そんな眼鏡をかけてる人間なんてほかにはいやしないよ。
――ひょろっとして肌もかさついて。みにくいねぇ。
わたしはこれまで心を沈ませる言葉しか、耳にしたことがありません。
でも今はちがう。わたしは、テオに選ばれた。大勢のなかにうずもれる冴えない人間ではもうないの。
「そうだわ。結婚するとなるとテオに恥をかかすわけにはいかないもの。がんばらなくちゃ」
家に帰ったわたしは、すみれの花をカップに入れた水にうかべました。
花瓶にさすほどの分量もなく、一本だけ小瓶にいれても、さまにならない。
「薔薇の花束なんて贅沢は言えないわ。テオの心が大事ですもの」
そういえば、一人暮らしの小さな家に花を飾る習慣もなかったことに初めて気づきました。
「結婚したら、こんな質素で飾り気のない生活はダメよね」
野暮ったくて冴えない妻なんて、テオが恥をかくに違いない。
わたしはその日から、自分を磨きはじめました。
まずは温泉。街のはずれに、肌がつるつるになるというお湯が湧いているのです。
近所のおばあさんが「ほら見てごらん、ヴィオラ。あたしのほうが、あんたよりも肌がきれいだろ。温泉に通えば、あんただってつるつるの肌になるさ」と誇らしげに言っていたのを思いだしました。
温泉は森のなかにあって、わたしは勇気を出して通ってみました。
人なんて誰も入っていない。落ちた葉がうかんだお湯にそうっと体をひたします。
ぷつぷつとはじける微細な泡。それを手ですくって、顔を濡らして。
そんな日々を何十日か続けると。
かさついて荒れていたわたしの肌が、つるつるになったのです。
ええ、頬が光につやめくんです。
じゃあつぎは髪の艶を。ヤギや羊が好んで食べるという、オイルの豊富な木の実を潰して、髪にぬります。
べたべたして嫌だけれど。木の実特有の甘ったるいにおいが気になるけれど。
それでもオイルをしみこませて、ブラシで梳くと。
まぁ、なんということでしょう。
みすぼらしいぱさぱさの赤毛のわたしは、もうどこにもいません。
光を宿した潤う髪は、まるでルビーのよう。
「これが……わたし」
手鏡にひたいをぶつけるほどに、自分の顔を確認しました。
青いベリーを食べれば、目がよくなる。おなかを壊すまで食べました。
だって、眼鏡の女性なんてきっとテオは嫌うもの。
わたしなんかと一緒だと、テオが嗤われてしまうもの。
「待っていてね、テオ。わたし、素敵な女性になるから」
田舎娘と侮られないように、マナーだって学びました。
交易商のおうちのヴェールマン家のフローラお嬢さんに、お願いして特訓してもらったんです。
地方の街だけれど、ヴェールマンといえばこの国では名だたる商家です。
「マナー? いいけど。それ、必要なの? 身分違いの貴族に見初めらたわけでもないんでしょ」
わたしが礼儀作法を教えてほしいとお願いすると、フローラお嬢さんは、あきれたように肩をすくめました。
「あなたの婚約者って、テオでしょう。いい噂を聞かないわよ」
「それって、どういうことですか?」
初耳です。
さすがに交易商の家に生まれ育つと、情報も早いのでしょうか。
「まぁ、なんていうか。その、言いにくいんだけど。テオは趣味がね、よくないっていうか」
口ごもりながら話すので、フローラお嬢さんの言葉は嘘じゃないのでしょう。
趣味が悪い……それって、わたしを選んだことですよね。
「それなら、なおさらです。わたし、もっともっとがんばらなくっちゃ。どうか、何処へ出ても恥ずかしくないマナーを教えてください」
ひっしと、お嬢さんのスカートをつかみます。
離しません、ぜったいに。
「どこまでもついていきますからっ」
「えぇっ? なんでそうなるの」
フローラお嬢さんは、完全に引いているようですが。
強い決意を抱いたわたしに、結局は根負けしてしまいました。
お嬢さんの特訓は苛烈を極めました。
マナーは食事も、会話も、歩き方も、ふるまいも。
ヴェールマン商会に置いてある新聞を毎日読むこと。常に姿勢を正して、微笑みを絶やさないこと。髪にオイルを塗ったところで、そんなのは表面的。栄養をとって髪に艶を与えること。まだたくさんあります。
今日は歩き方のレッスン。
お屋敷の長い長い廊下を、歩いていきます。廊下には等間隔に姿見の鏡が。
「背筋が伸びていなくてよ!」
「は、はひ」
「どうして肩が前にくるの。御覧なさい、この鏡を。鏡に映るご自分の姿を。まるで猿でしてよ」
「ひ、ひどい」
「泣いている暇なんてないわ。あなた、猿のままでいいの? レディになりたいんじゃないの?」
きつい言葉だけれど、フローラお嬢さんの言葉に嘘はありません。
たしかにお嬢さんは、すっくとした立ち姿で。まるで香り高く咲きほこる清浄な白百合のよう。
それにくらべてわたしときたら、まるで踏みしだかれる雑草のよう。目の下に隈だってできています。
翌日は会話のレッスン。
言葉遣いと、アクセントや訛りを直されます。
でも、それだけじゃありません。
どのような話題を選ぶかは、わたしに任されているんです。
柑橘の香りのする紅茶と、さっくりと焼かれたクッキーを前に、わたしはおろおろとしてしまいました。
「あの、テオとわたしがつきあうようになったのは。彼がわたしに告白してくれたからで。その、染め物師を彼はしているんですけど。仕事帰りに、ときどき道ですれ違うことがあったからで」
「そう」
フローラお嬢さんは、興味なさそうに紅茶をひとくち飲みました。
いけません。もっとテオのすばらしさを披露しなければ。
「テオは、とてもやさしいんです。こんな地味で目立たないわたしに、朝も夕もいつもあいさつを返してくれるんです」
「あいさつを返すのは、当然のマナーじゃないかしら」
ちくりと心が痛みました。
そうですよね。フローラお嬢さんは、あいさつをすれば、ちゃんと返してもらえる人。無視なんてされない人ですよね。
「じゃあ、あの。テオって猫が好きなんです。家でも三匹飼っていて」
「ねぇ、あなた。会話が弾んでいないのに、気づいてる?」
「は?」
「普段でしたら、わたくしも興味のない話題でも話をあわせますわ。でもね、これは特訓。どうして自分の興味のあることしかしゃべらないの? わたくしが退屈そうにしているって、見抜けない?」
「それは、気づいていました」
「ならば話題を変えるべきよ。どうしてテオの話しかなさらないの? テオにしか興味がないの? あなたが人から軽んじられるのは、見た目の地味さだけではないと思うわ。しゃべっていてイライラするのよ」
雷に打たれたように、わたしはくらくらしました。
指が小刻みに震えて、ティーカップを持つこともできません。
口のなかがからからに渇いて、唇を開けません。
「あなたの頭の中にはテオしかいないから。こんな無様な状態になるのよ。もし誰かがあなたと会話がはずんでも、それは相手があなたの退屈な話に合わせてくれているだけ。あなたは相手の優しさに気づかずに、けっきょくは呆れられる羽目になるのよ」
痛い。痛いです。
お嬢さんのひとことひとことが、針のようで。全身をくまなく針で刺されているようで。
苦しいんです。
「まぁ、わたしもあなたを虐めたいわけじゃないわ」
とさっと、テーブルの上にたたんだ新聞が置かれました。
「うちの店に新聞を置いてあるから。空いた時間にそれを毎日読みなさいと言ってるわよね」
「は、はひぃ」
声が裏返ってしまいました。
「文字くらい読めるわよね、当然よね。ちゃんと読んでいるの? 『読む』と『眺める』は違うのよ」
文字は追えるんです、でも書いてある意味がよくわからなくて。議会とか賄賂とか、もうまったく。
夜、ベッドに入っても頭のなかで『議会が開催されるも、議員の五名が除籍。危ぶまれる貴族院のゆくえ』『王は国民への揺るぎない信頼の基盤を築くべき』なんて、訳の分からない文字がぐるぐると渦巻いて。
浅い眠りと覚醒をくりかえして、結局夜明けを迎えることもしばしば。
「あら、覚醒なんて言葉を使えるなんて。あなた語彙力が上がったんじゃなくて」
「え? わたし、口に出していましたか?」
「ええ。でも、すごいわ。成果はまだまだだけれど。こんなにもわたくしの特訓についてこられるとは、思いもしなかったもの」
初めてフローラお嬢さんに、褒められました。
「お、お嬢さんっ」
涙で目が潤んで、お嬢さんの姿が滲みます。
いつもあんなにも厳しくて、放つ言葉が鞭のようなフローラお嬢さんが、お優しくなるなんて。
これまでは悲しいか、悔しいときにしか涙は出ませんでした。そういうものだと思っていました。
でも、違うんですね。うれしくても、涙って出るんです。
「みっともないわね。お拭きなさい、ヴィオラ」
初めてフローラお嬢さんに、名前で呼んでもらえました。
手渡された白いハンカチは、とてもなめらかで。わたしはこんなにも美しいハンカチを貸してくださることに感動したのです。
「もう。紅茶が冷めちゃったじゃないの」
呆れたように肩をすくめるお嬢さんが、なにか閃いたように目を輝かせました。
「それならちょうどいい機会だから、うちにくるお客さんのお茶出しをあなたにお願いしようかしら。隣国のかたもいらっしゃるから、外国語も覚えられてちょうどいいわね」
「いや、それは……さすがに」
フローラお嬢さんの提案に、わたしの涙はひっこみました。
「テオの話なんて、彼を知らないお客さまにできるはずもないから。自然と、会話も上達するわね」
わたしには荷が重すぎます。フローラお嬢さんの家は、貴族とも取引があるんですよ。
「できないっていうの? ついてくるって言ったわよね」
ぎろりとにらみつけられて、どうして断ることなどできましょう。
「あと『いや』って言うのはおよしなさい。下品でしてよ。否定するなら『いえ』までになさい」
「は、はい」
結局わたしは、フローラお嬢さんの特訓を受けながら、空いた時間にはヴェールマン商会でお仕事をすることになりました。
ありがたいことに、お給金だっていただけます。
だから、手を抜くことなんてできませんし。隣国の言葉だって勉強しました。むろん時事に詳しくなるために、新聞も読みこんで。
ランプをベッドの近くに置いて、ブランケットにもぐりこんで新聞を読む日々。
読みながら眠りに落ちることもしばしばで。わたしのベッドはインクのにおいがするのです。
ヴェールマン商会で働きはじめてひとつきが経った頃。
ようやくわたしは仕事に慣れてきました。
「やぁ。いつもおいしいお茶をありがとう」
ときおり、ヴェールマン商会に買いつけにいらしゃる紳士が、わたしに笑顔を向けてくれます。
お名前はサムエル・アウリーンさま。
わたしよりも五、六歳上でしょうか。きれいに整えられた金髪に、仕立てのよい服をお召しです。
「ようこそいらっしゃいました。お会いできてうれしいです」
紳士は隣国のかた。たどたどしく彼の国の言葉であいさつするわたしを、にこやかに眺めていらっしゃいます。
たたえられた微笑みは穏やかで。つい、つられてわたしまで頬がほころびます。
「前は商談が終わればすぐに帰っていたのだが。今はあなたがいるからね。つい長居をしてしまうよ。この商会に通ううちに、あなたがますます美しくなっていくのがまぶしくて。あなたは勉強も努力も怠らないし、本当にヴェールマンさんは、素敵な女性を見つけたものだ」
「あ、あの」
「ああ、すまない。私の言葉は分かりづらいな。えーと、素敵なあなたがいるから、とてもうれしい」
え? ええっ?
それはどういうことなの?
アウリーンさんの言葉は冗談かと思ったのです。でも、彼はまじめな顔で。
でもきっと社交辞令よね。ええ、そうに決まってるわ。
◇◇◇
季節は秋の終わりになっていました。
きいろく色づいた木々の葉が、寒風に吹かれて。頼りなくひらひらと散りはじめています。
「雪だわ」
ヴェールマン商会からの帰り道。白い息を吐きながら、わたしはてのひらを差しだしました。小さな雪の粒が、じわっと溶けていきます。
嬉しかったことがあります。
今日、フローラお嬢さんに「あなたはもう素敵なレディよ」と言ってもらえたのです。
「よかった。ほんとうによかったわ」
がんばった甲斐がありました。
これまでは道を歩けば、おじさんたちにぶつかられ、舌打ちまでされていたのに。
今では、そんな失礼な人はいません。
いえ、街で暮らす人は同じです。でも、わたしに対する態度が変わったんです。
「ヴィオラ。久しぶりだね」
街はずれまで帰ったとき。突然、テオに声をかけられました。
ほんとうにひさしぶりです。
これまで、ほとんど会っていませんでした。
わたしが特訓で忙しすぎるのもあったのでしょう。
フローラお嬢さんに、テオの話ばかりするのはおやめなさいと指摘されたのもあるでしょう。
テオから連絡もなく、逢瀬をすることもなく。そういえば結婚を申し込まれていたのだと、ようやく思いだすほどに。
テオの背後に、見たことのあるような女性が立っていました。
艶のない髪をむすんで。顔は血色も悪くて、肌はかさついています。それに眼鏡。姿勢は悪く、猫背です。
まるでわたしだわ。
かつてのわたしが、テオに寄り添っているのです。
「ヴィオラ。君との婚約はなかったことにしてほしい」
「え?」
「どうにも、君から安らぎを感じないんだ。だから別れてほしい。ぼくはこの人と結婚を決めたんだ」
まぁ、びっくりです。
「ええ、お幸せにね」
イヤミでもなんでもなく、素直な気持ちでそう答えることができました。
その女性は勝ち誇ってもいいのに。困ったように、おずおずとテオを見あげています。
「あの、わたしなんかでいいの? だって、こんな素敵なレディをふる理由がわからないわ」
「君がいいんだよ。ぼくは君が好きになってしまったんだ」
「ほんとうに? ほんとうにわたしでいいの?」
「当たり前だよ」
「わたし、頑張るわ。テオにふさわしい女性になるように」
決意する野暮ったい女性を見て、わたしは「ああ、この子もいずれ捨てられてしまうのだわ」と悲しくなりました。
きっとこの子は、努力してきれいになるでしょう。森の温泉に通い、肌を磨いて、スタイルもよくなって。
でも、その頃にはテオは次の「かわいそうな」女性を見つけるの。
雪が強さを増してきました。
白くなる景色の中、テオと女性はぴったりとくっついて去っていきました。
足もとに落ちた雪が、石畳を濡らしていきます。
わたしの顔にも雪が当たります。わたしは、指先で濡れた頬にふれました。
不思議ね。ほんの少しの涙も出てこないなんて。
「ごきげんよう」
自分より下の人間しか愛せないテオ。
哀れな女性に愛を施して、自分は優しいと勘違いして。それで満足しているのね。
これからずっと、テオは野暮ったい女性を探しては捨て続けるのね。
あなたはどこにも定住しないのね。
可哀想な人。
婚約を破棄されて、こんなにも清々しいなんて。
知りませんでした。
後日。
やはりまたテオが婚約破棄をしたという噂が、街にひろがりました。
二人も連続で恋人を捨てたテオの評判は、みごとに地に落ちました。
もともと高くもなかったけれど……。
そしてわたしのもとには、アウリーンさんからの手紙が。
あわい水色の便箋にしたためられているのは、宵の群青色のインクの文字。
――親愛なるヴィオラ。よろしければ私と一緒にでかけませんか?
お読みくださり、ありがとうございます。
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