ラムネと蝉鳴り
乾杯
故郷っていうのはどれだけ飽きたと思っていてもいざ帰ってくるとなんだが見新しく、むしょうに落ち着かないものだ。いやになるほど駆けずりまわされた森に学校からの帰り道のあぜ道。風に揺れる田んぼの緑はあんなにもつまらないものだったのに。風景という単語を最近よく考える。風の景色と書く言葉の認識が変わったのはこの町を出たからだろうか。それとも眠らない街を見続けたからだろうか。
風を書くのだから風景においてそれが大切な要素であることは間違いない。この町は強い風が吹く。新幹線と、特急と鈍行を乗り継いで帰ってきた僕を無視して去っていく。
去った後。田んぼの新緑に波を生んでゆく。風の後に世界が変わる。先人はそれを風景と呼んだのだろう。古びたバスの窓の外はそういう景色が広がって居る。
物心ついたころからずっと見続けた風景。一年ぶりの風景。
ビーーーーー
割れた音声とともにバスが止まった。気づけば目的地まで来ていたようだ。田舎は信号が少ないせいかやけにはやい。
バスを降りるとき、ひときわ強い風が僕を、追い抜かして、僕だけを置いて行った。日に焼け茶色くなったバス停は一年前の記憶と変わらず、頭の中の写真をあてがったようだった。目の前には青々とした田んぼが広がっている。びゅーと風が吹いて青を揺らす。つまらないほどに変わらない故郷の風景だった。僕は目的のために歩きだした。砂利の敷かれた畔道は歩くたびに軽い音を立てている都会ではあまり聞かない音。僕の耳にこびり付いた音。ここは僕たちの登下校の道だった。僕とあの人が二人で通った道だった。
鈴村夏樹という人は、不思議なひとだった。鈴みたいに笑う夏が似合う人だった。そのくせ僕によくかまってくる人。僕はせいぜい秋に切り捨てられた枯れ葉だというのに。
毎年この道を歩くときに思い出す、彼女が僕の隣にいたことを。はじめは何だったのだろうか。もう出会ったときのことは覚えてない。たぶん最初から変わらぬ態度だったとおもう。僕は陰湿で根倉だ。人との対話がどうも面倒で、教室のすみで読書してるほうがしょうにあっている。なのに彼女は繰り返して、その鈴のような声で笑いかけてきた。
その姿が、その笑顔が、なんだが僕にはまぶしすぎて最初は嫌いだったのに。そわそわして、落ち着かなかったのに。
気が付けば彼女の隣に僕がいることが当たり前になっていて。虫取りや川遊びなんかに連れ出されて、それが楽しくて。ただ、あの夏が、蝉声を背にする彼女が美しかったとおもう。
歩いているうちに最初の目的地についた。駄菓子屋は一年前と変わらずに十字路の曲がり角に立っていた。
古臭い建物は今にも壊れそうだが、小学生のころから同じ感想を持ち続けているから、いがいと頑丈なのだろう。
瓶ラムネを二本買う。あの人の好物。よく学校からの帰り道にあの人に引っ張られてこの店によって買ったものだ。
氷水がいっぱいに張られた樽に手を突っ込んで氷水の下の世界を眺める。腕が心地いい冷たさに包まれる。
青、赤、緑。青白い世界を漂う色つき瓶。その氷水の風景が僕の心の中の熱を溶かした。小袋に一本、手に一本持って僕は角を曲がって歩き出した。変わらず畔道を進んでいく。
あの人はラムネが好きだった。ラムネのことを「瓶詰した夏」だといった。僕にはわからなかった。意味を聞くとはにかむだけだった。でも今なら、今ならあの人が言いたかったことがわかる気がした。蝉の声を聴きながら僕の手の中で結露に濡れるそれは、確かに「夏」だ。泣きたくなるほどに僕たちの「夏」そのものだった。
次の角を曲がってもう少し歩けば目的地に着く。曲がった先はもう僕一人。
白い砂利が日の熱を反射している。歩いているだけで僕の中身をぐちゃぐちゃにかき乱す。
ジージー。
ああ、蝉の声がうるさい。頭の下、耳の後ろが痛む。もういやだ。もうやめてくれ。今すぐに、背を向けて走りさってしまいたい。そうは思ってもとっくに入口をすぎて、もう少しであの人のところにつく。もう僕は止まれなかった。
そしてああ、着いた。ついてしまった。今回の帰郷の目的地。あの人のところ。あの人が眠る場所。
もう家族が会いに来たのだろう。墓石は磨き上げられていて、あの人が好きだった向日葵が供えられていた。
手を併せてあの人を思う。あの人と過ごしたたった1回の夏。その思い出とか感情がうまく溶けなくて腐っている。夏が終わって秋がきて冬が降って春に解けてそしてまた、新しい夏が来る。ただそれだけのこと。本当にただそれだけのことなのに。まだ別れを告げることができない。
袋から取り出したラムネ。あの人の好きな青。手のひらでキャップをたたいて栓を開ける。ぽこんと音を立ててビー玉が沈んで、すぐに浮かんでくる。
もう一本、ぽこん。今度はビー玉が炭酸の泡に阻まれて浮かべない。おもわず苦笑する。思い出に沈んですがって、まるで僕みたいだ。
最初のほうを墓前に供えて、もう一本を喉に流し込む。心地いい炭酸と一緒に僕の中の熱がはじけていく。でも消えない。あの人はラムネで乾杯することが好きだった。コチンという心地いい音をたててから飲むことにこだわっていた。なぜかは知らない。でも僕はその儀式が好きだった。
あの人と飲むラムネは不思議だった。あの人といるだけで普通のラムネから変わっていた。あの人の隣で、蝉の声を聴きながらラムネを飲むと体の熱が冷めて、悩みとか考え事とかが
ぼやけて、僕の中が透き通る感覚だった。あの時、僕は確かに夏を飲んでいた。
でも、もうそれはありえない。あの人は、もういないから。
もう、乾杯は鳴かない。