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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

変わったインク屋さん


その店は人目を忍ぶようにビル街に埋もれていた。ある日の仕事終わり、そこにたどり着いたのは偶然だった。


(うわ、最悪だ)


 曇りの予報だったのに雨がいきなり降ってきたので私は急いで軒のあるところを探した。ふと視界の端に地下と続く細い階段を見つけ、小走りでそこへ向かい階段を数段降りてほっと一息ついた。


 人が下から上ってくるのではないか? と少し不安に思い下を見ると人は居らず、代わりに地下一階のテナントスペースがありよく見る普通のドアに「OPEN インク艶堂」と木の看板がマグネットフックにかけてある。


 こんな店があったのかと少し驚き、隠されたものを見つけたときの少年のような喜びを心の中で得た。


(これは中を覗いてみれば話のタネになるのではないか?)


 閉まっていれば閉まっていたと語ってよし。やっていればどんな店か見ればよし。


 控えめに3回ノックをすると内から「どうぞ」と比較的若い男の声が聞こえた。ドアを押し開けるとカランカランと高い金属音がした。

 ドアの上部を見上げると、ドアの内側のところに銀色の筒状の棒が複数本集まったものがぶら下がっている。店員は一人しか居ないようで、防犯も兼ねているんだろう。




「ああ、外は雨なんですね。お足元の悪い中ご来店ありがとうございます」


 声からの予想の通り20代後半の男性ように見える店主は、私の少し濡れた身体を見てペコリと会釈した。



「え、いや、初めて来るんですが……こんなお店があるのかと思って」


 笑顔を作って答える。足元が悪いから来れたんだよなと心の中で独りごちる。相手はただの挨拶として言っているんだろうが私はなんとなく罪悪感が生まれた。


「初めての方ですか、どうぞゆっくりしていってください」


 そう言って店主は店内を見るよう促した。

 その空間は古本かインク、はたまたおばあちゃん宅のような匂いがした。インク専門店のようで見事にインクばかりが小さな店の中に並んでいる。


 しげしげと店をいろいろ眺めることを数分、鮮やかなカラーインクやメーカーが違う事しかわからない黒インクが並ぶ中で店の端の方に追いやられた5mlしか入っていないと言う小さな黒いインクの瓶に視線が吸い込まれた。




「お目が高いですね」


 私が随分と集中してしまっていたのか、突然後ろから声がかけられてびくっと体が反応した。振り返ると店主が背後に立っていた。驚かせないでほしい。


「これずいぶん小さいんですね」


「そうなんです、特別製で実は僕が手作りしているんです。まぁ量が作れるわけではないのでこうして売っているんですよ」


「それはすごいですね!」


 素直に感心すると、店主は照れたように一つの瓶を手に取り眺めた。


「常連の方はよく買っていかれますね。嬉しい限りです」



 店主に倣って私も一つの瓶を持ち上げて見つめてみる。そのインクは真っ黒ではなく灰色に近かった。

 リピーターも多いと言うことでこれも何かの縁と思い買ってみることにした。その値段は私の昼ご飯代くらいだし興味本位で買ってみたのだった。


 インクを使うような万年筆を持っていないことを話すと店主は気前よくお手軽な入門者用のようなつけペンをくれた。しかも比較に普通のインクまでつけてくれた。どこまでいい人なんだ! 不安になるレベルだ。


 雨宿りと冷やかしのような気分で訪れたものの良い買い物をして満足感を得て帰宅した。





△△△


 その夜早速使ってみた。普通のインクはなめらかに書ける。美しい青に心が躍りただの日記のような文章を書き連ねてみるがそれすらもまるで高尚な詩のような雰囲気を醸し出す。


 そして例のインクも使ってみる。するとグレーは油に富んでいるのか存在感のある美しさがある。まるでそこに意志があるようだ。

 なるほどこういった違いが初心者でもわかる、奥が深いんだな。1週間ほどポエミーな夜の時間を楽しんだ後にまたあの店へ行ってみた。



 カランカラン……


「こんにちは」


「こんにちは、ああまた来てくださったんですね」


「えー、先週はありがとうございました。インク、試してみたんですがすごくいいですね」


「そうでしょう」


 にっこりと店主は微笑んだ。その後少し話をしたこういうインクもあるんですとか、インクだけでなく紙も大事とか……質問をしては彼に答えてもらう、そんな流れで私は何気ない一つの質問をした。





「インクってどういう風に作られるんですか?」


 あーそうだね……と店主は一般的なインクの製造方法について教えてくれた。


「へぇ複雑なんですね。じゃあ、あの自家製で作るインクっていうのも大変なんじゃないですか」


 店の棚の隅を指差す。インク工場であんな複雑な工程があるなら自分で作るのも一苦労だろう。彼はにこりと1つ微笑み口を開いた。




「大変ですよ、僕のは特別製なんで人間の髪の毛の根元の部分……ほんのわずかしか取れない原材料をこそいで集めて濾して防腐処理を施すんだから」


「えっ」


 あっけにとられて私は目を瞬いた、店主は胸を手を当てて神妙な面持ちで答える。


「聞かれたら必ず答えるようにしているんです。僕は誇りを持っていますから」




「そう、そうなんですね……」


 ひねり出した相槌をしてひと黙り。私は腕時計をちらと見る。


「びっくりしてしまってごめんなさい。私にはあまり聞き慣れなくて……また話しましょう。今日はこの後用事があるので、では」


「そうなんですね、僕も引き止めて申し訳ない。またお越し下さい」


 何事もなかったかのように振る舞う店主の姿に余計に不気味さを感じた。

 私は引き攣りそうな顔に穏やかな顔を固定して、ゆっくり歩くことを意識する。扉を開け階段を登り5メートルぐらい歩き……そして駆け出した。


 当然家に帰ってインクは捨てた。"特別製"はもちろんオマケで貰ったものも全てだ。それからはあそこには近づかないように気をつけたし思い出さないようにして過ごしてきた。




 それから時が経って懐古する余裕ができた今になって思うけれど、あのインク量に見合う原材料はどこからどう入手していたのだろうか。


 ふと抜けた髪の毛を見て思う。

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― 新着の感想 ―
[良い点] どうやって特別なインクの材料を調達してるのか…色々想像できてしまいますね。 店から逃げインクを捨てた主人公の判断は賢明だったように思えます。 [一言] 調べてみると自分でインクを作れるお店…
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