あなたに歌声を
ホラックラーは長閑な町だった。農業を生業とし、休みの日には教会で祈り、夜には酒を酌み交わす。
その町の一隅にある小さな家。
「ああ姉さん。お帰り」
ヤシュアがイアシスに行っている間、母親の世話をしていた彼女の弟が出迎えてくれた。
「やりますか、早速」
リーンは挨拶もそこそこに老婆の部屋に向かう。
「お母さん、ただいま」とヤシュア。
部屋の隅、ベッドに横たわる老婆は力のない目で、部屋に入って来たリーン達を見た。
「おや、お客さんかい? 全く、娘は何をしているのか……」
ベッド上でヤシュアの弟に支えられ半身を起こす老婆、目前の娘が認識できていないようだった。
悲しそうにその様を見るヤシュア。
リーン、近づきながら。
「どうも、お婆ちゃん。私、リーンって言います。いきなりだけどいつもの歌を聴かせて?」
すると老婆はぶつぶつと何かを言い始めた。凡そ歌のリズムではなく、どちらかと言えば独り言のよう。だが、リーンは。
「うん――分かったよ。いい趣味だね、お婆ちゃん」
立ち上がり、ファンテ、ヤシュア、彼女の弟をベッドサイドに残し、リーンは部屋の反対側に移動。
胸に手を当ててリーン、軽く息、吸い込んで。
「じゃあ、演るね」
歌が、始まる。
とても静かな出だしだった。
ゆっくり、ゆっくりと、まるで大海に漕ぎ出す船のように一歩ずつ着実。だが、芯の強い、ぶれない声で、確かに海を進んでいく。
――これが、歌か。
ファンテは息を飲む。ふだん自分達が何気なく発している声が、こんなにも柔らかで、得体の知れない優しいものに化るだなんて、信じられない。
「おお、おお……!」
老婆が弟の支えを振り切り、ベッドから降りようとしてよろめく。慌てて姉弟は二人で母を支え、ベッドから降ろすと、三人でリーンの前に座った。
「懐かしいねぇ……、若い頃は、あたしもよく……」
老婆の目がきらきらと光る。
祝福あれ、マリア――老婆、笑み零れ、その目に失われていた輝きが戻る。
と、驚いたように両隣の二人を見た。
「おや? ヤシュアじゃないか、今までどこに行ってたんだい」
「お、お母さん? あ、ああっ」
「それに、弟までこんなところに。また嫁さんと喧嘩でもしたのかい?」
「か、母さんっ」
三人は抱き合う。
リーンの歌は続く。
一体、どれほどの力が秘められているのか。
――これが、お前の本当の価値か。
気付けば、ファンテの目元にも光るものがあった。
「ありがとうございました」
翌日。
「あんた、またおいでなさい」
すっかり元気を取り戻した老婆は、玄関先でリーンに笑いかける。
「うん、また来るよ――あ、お婆ちゃん」
リーンは老婆に近づくと、肩を抱き寄せその耳元にひそひそと話しかける。
『お婆ちゃん、日本人――じゃ、ないよね?』
『ん? ああ、アメリカ人じゃ』
『ああ、道理で。目の色、青いもんね』
『あんたは? ――そうかい、日本人かい。ここは凄いところじゃ、言葉の壁もないしの。全く、第二の人生がこうだとは思いもしなかったわい』
老婆は、皺くちゃの顔を笑って更に皺だらけにした。
『うん、そうだね』
老婆から離れるリーン。
「どうかしたのか?」
「いや、何でもないよ、ねー?」
リーンは老婆と二人でにたにたとする。
「さあ、帰るか」
ファンテと二人、取り敢えず馬車を借りるため、馬を引きつつ近くの宿場まで歩くことにする。
夏が本格的に始まる季節。
早朝だと言うのに、気温は早くも高い。
踏みしめる土の匂い、空気に漂う心躍るような感覚――その全てがこの世界に来て初めて気付いたものだ、とリーンは微笑む。そんなものに気を配る余裕が、昔はなかった。
「ねぇ? ファンテ」
彼女は少し改まった顔で隣の男を見る。
「私ね、イアシスで後ちょっとお金貯めたら、旅に出ようと思うの」
「へえ、そりゃまた……」
「でさ、もしよければファンテ、一緒に行かない?」
「は? いや、それは……」
「もちろん護衛ってことで給金は払います。まあ考えてみてよ、返事は今度で良いからさ」
「わ、分かった。でも、旅か……。ラクタルが聞いたら腰抜かすんじゃないか」
「あ! そうだね。よし、ライブやって売り上げの半分、いや、このさい全額渡して納得してもらおう」
楽しそうに呟くリーン。
「楽器なんて一つもないけど、何とかなるっしょ!」
――ライブ? 楽器?
疑問に思ったが、取り敢えず聞かないでおこうと思うファンテ。
――謎多き少女。今はそれでいいさ。
「ところで、ヤシュアさん、喜んでたね」
「ああ、君の歌のお陰だな」
「えへへ。そうかな」
そうだといいな、と言ってやおらリーン、走り出す。
「ファンテ! 早く来ないと置いてくよ!」
「お、おい……。こっちは馬、引いてるんだからな!」
――にしても、旅か、面白そうだ。
彼の中、言い知れぬ高揚感。
「リーン、待ってくれ!」
ファンテ、自然とにやつく顔をそのままにする。
これで終わりです。
ありがとうございました。
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